えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ホシガリとアゲタガリと

久しぶりにヴルルの島を観た。

先日のメル・リルルの花火を観てからそういえばDVDを買うだけ買って見ていないことを思い出して、それから、観たい、という気持ちのまま過ごし、今日ようやく観た。

 


作品自体の感想は上演当時にあげてる。

かなり、ザックリしているけど。なんかもうちょい、書きたいことあったろうに、とは思うものの、同時にたぶんうまく言葉にならなかったんだろうな、とも思う。


http://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2016/12/27/224730

 

 

そしてそれは相変わらずそうだ。

例えば今日見返して、ヴルルの出した結論についてまだ考えてる。答えは出そうにない。

ある意味で先送りじゃないか、とも思うし、結論なんて出ない、とも思う。

ちょうど今日「クジラの子は砂上に歌う」という舞台を昼間見ていて、そこでも戦争について描かれていたこともあり、

しみじみと考えるんだけど、シャーマンキングでも(って、なんかめちゃくちゃ全然違う作品の話を持ち込んでるけど)言っていた「やったらやり返される」だし、

あえて悪意のある言い方をするならどちらかがいつか泣き寝入りをしない限り「憎しみの連鎖」は止まらない。

ごめんなさい、と謝ったところで、あるいは大事なひとを傷付けられる奪われる恐怖を語り許しや救いを乞うたところで、ヴルルの島で起こったことは何一つ変わらない。

 


その上で、上演当時の感想でも書いたとおり、だからといって、その血を何故ジャジャやホシガリのように「戦争の場にいなかった」ひとがかわりに引き続き流さないといけないのか、とも思うし、かといって、無関係ではないし、とウンウンと考えている。

そういう意味では「新しい世界」へ旅立つしかないという結論は実は結論を真っ新に……真っ白にする、という話かもしれない。

 


ただ、今回はその結論の話をしたいんじゃなくて、ホシガリとアゲタガリの話がしたい。これもまあ、上演当時もそれ以降も度々話していることなんだけど。

 


ホシガリは奪ってきた少年だ。奪われてきたから、奪ってきた。

パンフレットにあった(らしい、今こちらの家に持ってきそびれてしまったので正確な表現は確認できないけど)「受け取る人も優しい」は私の中でもとても大切な言葉だ。

そして、ホシガリは当初徹底して受け取らない。奪ってもそれはたちまち奪った瞬間にガラクタになる。

 


受け取るって、実はとんでもなく怖いことだ。

 


これは最早私のサビだ。

私は、色んな推し……と便宜上表現している、日々背筋を正してもらってる元気の源の好きな人々……がいるわけですが、

その人たちにはその人たちのことを好きなひとがたくさんいる。私はそれだけの人に愛されている、ということにも凄いことだなあとにこにこするのだけど、

それより何より、そうして向けられる「好意」を受け取るということにいつも驚きを覚えてしまう。

 


その驚きの形を知ったのがたぶん、ヴルルの島だった。漠然とした受け取ることの怖さや、受け取ってもらえるということの奇跡を私はなんとなくずっと思っていたけど、ああそうだ、こんな勇気がいる怖いことを、と明確に鮮烈に思ったのが、ヴルルの島だった。

 


映像でヴルルの島を見るのが初めてで、だから画面に映る目に光をいっぱい溢れさせた語り部たちの顔を半ば呆然としながら見ていた。

ホシガリはずっと「欲しがって」いたけど、受け取れなかった。受け取る優しさや余裕が彼のもとにはなかった。

それは彼が奪ってきたからかもしれない。あるいは奪われてきたから。その分、それを失う痛みを知っている人にとって、得るということは恐怖になる。

 


もしくは、と今年観たhisという映画を思い出す。

あの中で語られた「自分が一番弱い存在だと思っていた」という言葉をやっぱり私はよく思い出すんだけど、

その感覚にも近くて、幸せになるというのは「なりたい」とみんなが願ってるわりに怖いことだと思う。

好かれている、と思うより嫌われていると思った方が楽なことってたまにある。

大事にされている、と思うより損なわれている、と思った方がうまくいってしまうことも。

 

 

たとえば、誰かに好かれているなら、そしてその相手のことを憎からず思ってるなら、出来るだけ幸せでいた方がいい。

健康でいた方がいいし、笑っていた方がいいし、そのために周囲の人とうまい関係を築いたり仕事や好きなことが順調だったりした方が良い。

って、並べるだけで思うけど、それってめちゃくちゃ「大変」なのだ。きっと。

なら、ちょっと不幸な方がいい。

ちょっと不幸で可哀想でいる方が、楽なことって、たまにある。

 


……まあ、これはかなり捻くれた話にはなるけど、でも、ホシガリを思い出すたび、私はそういうことを考える。

ホシガリが受け取れなかったことを考える。

あるいは、「欲しがる」ことは彼の中で奪う、に直結したからか。ごめんなさい、と謝る彼のまるまった背中を思い出しながら思う。

 


最後、シオコショウが言った言葉を考えてる。アゲタガリが渡したかったのは「もの」でも「こと」でもなくて、

「幸せになってほしい」という思いそのものだったんだよなあ、と繰り返し繰り返し、反芻してる。

 


それが、相手にとっては怖いことでも、願う(この場合の怖い、というのは対象と願う人の関係性云々じゃなく、幸せになること、の怖さについての話)

 


ホシガリが今まで奪ったものが奪ったそばからガラクタになったのは、それが彼自身のものじゃなかったからかもしれない。

そこには、ホシガリに向けた想いなんてものはなかったから、「隣の芝」だった時の輝きが失われてしまったのかもしれない。

 


アゲタガリが、鼻歌を歌うのが私はすごく好きで、

鼻歌は彼にとって楽しいという「幸せ」の象徴だから。

アゲタガリが大好きなので、彼が「幸せ」なのが嬉しいんだよなあ。

多分、そういうことなんだよなあ。

 


アゲタガリの「ホシガリに幸せでいて欲しい」という想いを受け取って、

ヴルルの必ず幸せになれ、という想いを受け取って、

彼らは新しい地へと旅立っていく。

それはなかなかに、難しいことではあるけどきっと、「難しい」なんて怯まなくたっていいと思う。それこそ、鼻歌を歌うように。

 


本当は、シンプルなんだよな。幸せでいて欲しくて、幸せでいてくれたら幸せになれて。

難しく考えることはわりと楽しくて好きだけど、それでヨーイドンで悲しい方向に進んでも、仕方ないので。

私は明日も幸せでいて欲しいので、なるたけたくさん、幸せでいようと思う。

9日間のこと、メル・リルルの花火の話

この9日間の話をしたい。
大切な物語りをした、たくさんの人と過ごした時間の話を眠ってしまって今日が昨日になる前にしたい。


そう思ってさっきから携帯と睨めっこをしている。うまく言葉が見つからないようにも、あふれてきて止まらなくなりそうな気持ちにもなっている。

 


おぼんろ第18回本公演「メル・リルルの花火」
その時間が今も目の前、チカチカと輝いていてなんだか頭がぼーとしている。

 

 

毎日、元々の上演スケジュール通りに物語りをする。
そんな、今のこの状況を思えば途方もないことを彼らおぼんろはやってのけた。
どんどん物語は進み、のめり込んでいく。


元々、1本だったであろう物語を「次はどうなるんだ?!」という次の約束を更にとっておきのものにする為に、敢えて「細切れ」(という表現をあえてする)にした。

 

 

おぼんろさんの物語はいつも、強烈に感情を引っ張られる。

私は今も、ホシガリがアゲタガリから受け取ったその時のこみ上げるような愛おしさを覚えてる。
ネズミを許す、という姿に頭の中が真っ白になるような苦しい心地になったことを覚えている。

 

おぼんろさんには客席がない。私たちは参加者としてその場に存在する。
だからこそ、感情も、同じように引き摺られる。キャガプシーの時は、再演では正直上演後、本当に悲しくて愛おしいんだけど、それ以上に苦しくて本当に一言も口をきけなくなっていた。

それが、私のおぼんろさんの物語が好きな大きな理由の一つだ。

 

物語のカタルシス

 


時に痛みを伴いすらするその感覚が大好きだ。し、おぼんろさんはそのイメージからふわふわとしたファンタジーの先入観があったけど、
むしろ、ファンタジーであっても容赦のない現実と人の醜さ愛おしさを表現しきる天才だ、と私はずっと思ってる。おぼんろさんが紡ぐ物語の容赦のない残酷さは希望の裏返しだ。
とんでもなく悲しくもなるけど、走り抜けたようなカタルシスのあと、いつだって心が充電されるのだ。

 

そういう意味では今回の細切れって、リスキーといえばリスキーで。
とは言いつつ、毎回後半は泣きながら参加していたんだけども。なんなら、声を上げて泣いてたんだけども。嗚咽を堪えることすらできずに…ある意味これは、劇場じゃないから尚更に没入していた気もする、一人きりだったからこそ……物語りを追っていた。

 

だけど、例えばパートが切り替われば、登り詰め切ることなく、終わる。
それはある意味で、いつものカタルシスとは少し違う。なんだか小さな違和感にすら感じていた。

 

でも、ある時ふと思った。
その登り詰める直前の「どうなるの?!」が次の約束をとっておきにする。
ソワレや次の日の物語までの時間を特別に変える。どうなってしまうんだろう、とか早く聴きたいな、というワクワクはメイキングで末原さんが言ってたように、どんぴしゃで今私たちが心の底からほしいものだった。

 

 


少し、メル・リルルの花火それ自体の話をしたい。


少しずつ物語が明かされていく中で、6人みんなが、大好きになった。
中でも、チルとメブキが本当に好きだった。チルとヒタカクシのあの緊迫したシーン……苦しいけど好きだったな……「1匹2匹って呼ぶな」というチルが……。
チル、本当に激情が、物凄くてだけどずっとしっかり聞き取れて、なんか、もう、本当に好きだった。
し、私はメブキのチルへの言葉ひとつひとつが大好きで、もうなんか、あの姉妹はずっとずっと幸せでいて欲しいな。いやもう、みんな幸せでいて欲しいよ。

 

中でも、一等好きなのはさ、やっぱりさ、歌を繋いだ瞬間で。


私はあの時、いつかのインタビューで末原さんが言っていた「物語が語り継がれること」を今更ながら理解したような気がした。

どんな断絶も、差も、きっとそうして「同じものを語り継ぐことで埋められる」そう思った。物語や歌にはそういう力があるんだ、と肌で感じた。

 

ああそうか、おんなじものを愛してるってとんでもなく幸せじゃないか。

 

 

見えてるものも体験してるものも違うかもしれない、主義主張も違うことだってあるだろう、それでも、同じ音楽を愛することができる。
それはぴったり重ね合うことよりも、ずいぶんと奇跡的で幸せに思えた。

 

 

 

ところで、メル・リルルの花火は物語と現実の境目がどんどん分からなくなる話だった。

 

語り部パートでは「物語が自分たちの世界に迷い込んできた」と語られ、
ハナザカリが祭りがしたいと泣きじゃくる姿に、自分たちを重ねたり
そもそも、マッキナに打ち込むコードが「CO67」なことなど至るところに現実や今私たちが置かれている状況を思わせるキーワードが散りばめられていた。

 

 

だからか、劇中の台詞が、まるで自分に言われているような気持ちになった。

「死んだときのこと考えて地獄みたいな生き方しちゃいけなかったんだ」が、ダイレクトに刺さり、

「自分と自分の大切な人たちの幸せだけは人に任せちゃいけないんだ」
そう語ったヒトマカセが言ったお先真っ暗なのと幸せなことは別だ、という言葉の意味をずっとずっと、考えてる。

そうであってほしいと思うから。

 

たぶんまだ、こんな毎日は続くだろう。その中で、なんなら泣けない日々だってあると思う。それでも、幸せにはなれるという。幸せにはできるという。
私はそれを夢見がちだと笑うことができない。
だって確かに、私はこの9日間、幸せだったから。

 

 


メル・リルルの花火と、それにまつわるペズロウの幽霊やここにくるまでの彼らの物語。
それは、私たちのよく知る演劇とよく似ていて、それでいて少し違う。
だけど、最後のメッセージであったとおり、なんだか私もそんなのはどうでも良いような気がしている。結局、2000字近く書こうが、この気持ちを表すぴったりな言葉は見つかってこなかった。

 

ただ、きっとずっと、私はこの9日間を忘れない。そのことを、とんでもない幸せだと思う。

約束を重ねる時間だった。

その記憶は、宝物になる。それこそが、物語の強さなんだろう。

 

 

今私たちは場という体験を失っている。そんな私たちに、彼らは約束をくれた。たくさんの約束と、それにまつわる御守りのような記憶をくれた。それから、これからの約束を。

そのことが本当に心の底から嬉しい。ありがとうございました。幸せです。

今を生きていることを「Message」を聴いてめちゃくちゃ考えた

生きている人だな、と思った。だから好きなのかもしれない。
最初からそう思っていたわけじゃないけど。
ワイルドヒーローズを見た時、「このキー坊を演じられる敬浩さんって、どういう人なの」って思ったのを思い出す。

 

キー坊は、特別複雑な役ではないと思う。
シンプルに「主人公」だ。

 


だけど、だからこそ、やり方によっては嘘臭くなる。ただ、敬浩さんのキー坊は信じたくなる真っ直ぐさがあった。そこにある仲間たちへの想いは嘘じゃなくて、一生懸命で、そんなところが、好きだった。

 

嘘かどうか、なんてものを外側から判断するのはとても失礼なことだけど、
敬浩さんは本当だ、って信じたくなるような真摯さがずっとあって、それがもう、全部だって思う。

 


そして、それは彼の表現や言葉に触れるたびに強くなる感情だった。
ライブに行き、映画を観て、それから道の駅に行って。
彼はとんでもなくスターで華があるんだけど、
それ以上に生身の人間らしくて、常に生きている人だった。

 

そう思うのは、全身で目の前のことを受け取ってそれからどんどん変化する人だからだと思う。
敬浩さんの愛情はそこなのかもしれない。
受け取るのが、ものすごく上手というか、優しくて、真摯で。


 

新曲のリリックビデオが発表になった。
シンプルな娘さんと奥さんへの愛情と、今の幸せを言葉に紡いだ曲だった。

 

ああ、幸せなんだな、って心底思った。いま、幸せで大事なものがあって、なんだかそれが嬉しかった。
いつかの番宣で出演された火曜サプライズで、
自分の婚期を尋ねた敬浩さんの表情と選んだ言葉が印象的だ。

 

 

敬浩さんって、全部繋がってる人なんだと思う。これまでと、いまと、これからが。
何を見てきたか、考えてきたか、今何を願ってるのか。そういうの全部が表面に出て、歌やお芝居になる彼がすごく好きだと思う。とんでもなく、魅力的だと思う。

 

 

そして、今この状況で幸せでいてほしい、元気でいてほしい、そうしてまた逢いたい、という「Message」を伝えようとした時、この曲を発表する彼が素敵だと思った。
生きてるなあ、生きてるんだなあ、敬浩さん。
誰もが、誰かから幸せを祈られていて、そうしていまここに存在してるんだ、というシンプルな敬浩さんの気持ちがあって、それをこのタイミングで伝えてくれようとするのが、本当に好きだな。

 

家族や大事な人の幸せを願って、そうすることでたぶん……もちろん、これまでだって敬浩さんはファンの幸せを願ってきたと思うのだけど……もっと広く、たくさんの人の幸せを願ってるというか。きっと、そこに込められる意味がまた色んな色合いになったんだろうし、
ファンや周りの大切な人への愛情がきっと更に確かなものになったんだろうな。

 

 

https://youtu.be/Am04y6eOUG4

 

昨日メッセージ動画を見て、さらりと恩返しという言葉を使う敬浩さんにびっくりして、そのまま、たまらなくなって2019の道の駅を見ていた。

 

愛されてるんだなあ、とファンとして嬉しくなった時間。それから、同じようにファンの人たちと時間と場所を共有できるのが、本当に幸せだった時間。

 

なんか、どんどん柔らかくなる人だなあ、と思っていて。

最近、過去の映像とかブログとか、雑誌を読み返してると今の敬浩さんの柔らかさ、強かさに驚く。し、ああだからいま、好きになったんだなあと思う。(もちろん、過去の敬浩さんも素敵だ、と思うけど私の場合惹かれるきっかけは彼の柔らかさ・強かさだったので)

 

それは全部、生きて、目の前のことに一生懸命接してきたからなんだろうな。
それはただ、格好いいだけじゃなくて苦しいこととか悔しいこととかも全部。

 

私は、敬浩さんの漢があがるなら、紆余曲折あっても獣道を進みたいってところが大好きでそして心底共感して尊敬しているところなんだけど、それを体現するような生き方をしていて、嬉しくなる。

 

 

例えば、道の駅ラストの曲が「Feelings」から「Loving every moment」になって。
歌詞を昨日なぞりながら、飛び立とうとしていた人が飛び立ったんだな、としみじみ思ってたんだけど、
今、「Message」を、聴いた後だと尚更、「Loving every moment」を歌ってくれた敬浩さんが好きだな。
あの曲を会場で聴いたとき、ああ大丈夫だ、と心の底から思った。それは敬浩さんに対してなのか、それとも聴いている自分になのかは分からないけど、生きてることそれ自体が柔らかくて愛おしくなった。
その歌はきっと、2017-2018道の駅から更に時間を重ねた、今だからこそだったんだろうな。


変わっていくから、人生って面白い。
そう思わせてくれる敬浩さんに出逢えたことを、心底幸せだと思うし、どうかこれからも彼自身が幸せでいて、またそんな優しいものを見せ続けて欲しいと心の底から思う。

メル・リルルの花火、初日、の大興奮

おぼんろさんはいつも初めに「想像力」の話をする。私はあの時間が大好きである。
わくわくするし、なんだかあの末原さんの声を聞くだけで、もしかしたら私たちって凄いんじゃないか?!って思える幸せな時間だ。


そして、今回、「想像力」をフルに使う「音と言葉だけで物語を紡ぐ」というスタイルは、そういう意味でいつもの「おぼんろさん」であり、いつもの「演劇体験」なのだ。
もちろん、いつもの劇場でのおぼんろさんの楽しみは何も台詞や音響が紡ぐ物語ではない。物語の世界に紛れ込める舞台美術、衣装、照明、そして語り部たちの雄弁な肉体表現と表情。それら全てが、私はおぼんろさん最高!と叫び出したくなるくらい好きだ。

 


なのだけど、というよりも、だからこそ。
目を閉じて、想像すること。
物語が私たちの部屋に紛れ込んでくること。


その瞬間に、確かに「いつもの」劇場にいた気がする、あの時のテントに私たちはいた気がする。それこそ(私は配信ではなく遅れて観たんだけど)あの瞬間、すぐ隣に私と同じ「参加者」がいるような気がした。

 

そして、語り部たちが物語を紡いで、その後、ムーヴメントアクターさんが物語を立ち上げる。
ひとりなのに、ふたりいるように、そして七色の雨が降っているようにみえた。
聴覚聴覚して楽しんだと思ったらちゃーんと、視覚の幸せをくれる、なんてまさに死角がない、ってやつじゃないか(って変換候補みて感動したんだけど、これ完全に蛇足のやつ?)


すごい、すごいな。


聴覚も想像力をフルに活用していたけど、
視覚、もそうなんだ。視覚と物語を紡ぐ声を聴いてるから聴覚も使っているんだけど、でも、どちらにせよ、想像力、をもって、私たちは物語に「参加」する。
もしも私たちが冷めた目で見れば、きっと物語は立ち上がらない。それは彼らの物語の強度の話ではなくて、もっともっとわくわくする、無限大の話だ。

 


そうか、おぼんろさんのお芝居を「お芝居だ!演劇だ!」と嬉しくなるのは、きっとそこなんだな。演劇は、想像力の世界だから。
そして、最後にここに至るまでの彼らの「物語」を見せてくれる。いやもう、メイキングを……おぼんろさんのメイキングを観れる贅沢よ……そして私たちはある意味でそれを観て「知る」ことで「共犯者」になるのかもしれない。彼らのここまでの時間を追体験して、それはきっと、今日、に更に彩りを加えてくれる。

 

想像力をフルに使うこと、共犯者として物語が生まれ生きていく姿を見届けること。


なんだ、いつものおぼんろさんじゃないか。
いつも、や、当たり前が掛け替えのないものだったことを噛み締めている私たちにとって、こんなに安心感をくれることってある……?

 

 

時間も場所も越えて、物語があれば繋がれるのだ、ということをまさかこの状況で彼らは証明して見せたのだ!

 

 

語弊を恐れずに言うなら9日間、違う物語の配信が、と聞いた時正直怯んだ。
連続ドラマを楽しみにしながら同時に恐怖するような感覚で怯んだ。だって9日間だ。しかも、それが1日2本配信される日だってある。果たして無事に完走できるのか、そりゃあ、ちょっとばかり、怯むことだってある。

 

ところが、今思えば…今、と言うのは、初日の物語に参加した、の今、だ……この、「今」、そのスタイルをとってくれるのは、なんて優しい約束だろう、と噛み締めてしまう。

 

そして、興奮のままに書き連ねてしまえば、末原さんのお話は語り継ぐ、のがきっと楽しい物語なのだ。
語り継ぎ、一緒にそれこそ「夜通し話す」ような。百夜物語、なんて言葉だって似合いそうだ。
だけど、現実、それをやるのって難しい。
肉体の制約も、生活という制約もある。しかし、今回の上演スタイルはそんなものを全部取っ払って「語り継ぎ」を実現しようとしているんじゃないか?


日にち感覚も、ともすれば時間の経過すら忘れてしまうような非日常の中で私たちは今生きている。それはそれで貴重で、興味深くはあるんだけど、同時にそれは私たちを磨耗しているような気がする。
そんな中でおぼんろさんがくれた「また明日」の約束は、私たちに「明日」をくれる。


「物語は世界を変えられる」おぼんろさんの物語の終わり、末原さんはいつもそう口にする。それは何も、決まりだからそうだと言うわけではないんだろう。
本気で、末原さんはそう思ってる。しかも毎回、物語を紡ぐたびに。本気で、世界を変えるつもりで、しかもなんなら、私たちと一緒に素敵な、キンキラリンのラブに溢れた世界にしようと本気で思っていてそんなことを言うのである。

 

 

今、私の部屋には物語が詰まってる。
一人暮らしのひとりぼっちの寂しい部屋で物語が飛び跳ねてる。すごい。
この物語と9日間過ごす。すごいぞ、絶対楽しいじゃんか。
そしてそんな時間は、彼らからの「キンキラリンのラブ」の贈り物だと確かに思うのだ。

好きなものの話がしたい

ここ3日ほど調子が良い。気がする。
好きなものをひたすら見て、好きな人の言葉を読み、好きな作品に触れてる。
好きなものがたくさんあるな、という最早何度目か分からない気付きを噛みしめながら過ごしてる。

 

 

この状況下で、色んな取り組みを見た。
SNSをマメに更新してくれる人、新しく配信を始めてくれる人、過去の作品をアップしてくれる人。
そのひとたちそれぞれが色んな言葉で「生きてまた会おう」「それまで元気でいてね」と言いながら、色んなことを届けてくれている。あるいはこれから、届けようとしてくれてる。


これってちょっと、いやかなり、すごいことだ。


エンタメだけじゃなくて、例えば飲食業界とか観光業の人とか、届けようと色んな形を生み出してる。
すごい。
そういう意味では、ものすごく、きらきらしたものをたくさん見ていて、なんだかそれにくらくらするくらいのハッピーを見つけてしまってる。


もちろんそれは、本来の形、が出来ないという苦しさがすぐ裏にはあるし、
そもそも個人的には「だから全員がやって欲しい」とは思わない。というか、むしろ「だからやらなきゃ、なんてことは考えないでね」とすらぼんやり思いもするんだけど。やりたい!ならそれはもう、積極的にわくわくしながら、過ごすんだけど。

 

 

ともあれなんだか、おかげで元気だ。


更には、私は普段Twitterで好きなものを好きだ!って言うことと好きだ!と言ってる人の言葉を読むのを楽しみにSNSを使っていて、
だから、ここ最近、好きなひとたちの何か動きがあるたびに好きだ!という話を読むことができて、とても、ハッピーなのだ。
好きってのはすごいことだなあ、とタイムライン上できらきらしている言葉たちをにこにこしながら眺めている。

 

 

 

ちょっとだけ見栄を張った。本当に正直に言えば絶好調いえーい!ではない。
気持ちのアップダウンはやっぱりいつもよりあるし、生身の人と話す機会が減って言葉が詰まってる感じもある。
先の「楽しい」がなくなるとこんなに毎日の味がなくなって、日にちの感覚も消えるのか、としみじみもしてる。

 


最近、強めの言葉を見る機会が増えた。
別段、この状況について話す時に限らず、
好きなお芝居の台詞を借りれば、「綺麗な言葉を使いませんか」と呟きたくなることが増えた。
強い言葉の方が反応を得やすいから、普段だってもちろんそれはある。
ただそれ以上にみんなヒリヒリしている、というのもあるんだろう。
それは言葉を使っている側もそうだけど、
なんというか、こういう状況だとたぶん、人間って無防備になるっていうか
因幡ウサギじゃないけど、皮剥がれて、風吹いただけでも痛い!みたいになってるんだと思う。(あれって海風だったから痛いんだっけ?ちょっと自信なくなってきたぞ)


そう思うのは、この雰囲気に身に覚えがあるからだ。
熊本の地震の時、地元はそこそこ被害があった。SNSでも地元の友人とのやりとりでも、みんな不安で苛立ってた。
‪努めて冷静でいようとした挙句、私は正論ぶって、人をあの時傷つけたような気がする。
実際、当時、少し落ち着いた頃会った友人から「今は声かけちゃダメだろうな、って思ってた」と言われたのを覚えてる。

 


非常時に人間の本質が見える、なんて言葉も最近よく耳にするけど。
だとしたら私は本当にダサいのが本質なんだろうなあと苦笑しつつちょっとだけ諦めている。
小心者だしストレスに弱いし、オロオロするし対応できずにひたすら寝ることしかできない瞬間もある。
もうなんか、それは今回のことに限らず心底実感してはいたけど、改めてあちゃーと思っている。

 

 

の、だけど。
それはもう十二分に分かった上で、だから気合を入れて好きなものの話をしたい。
幸いにも、色んな人の素敵なものが今、あふれてる。溢れまくってると言っても良い。
この機会に観たいお芝居も映画もライブもある。読みたい本だってある。何一つ不要でも、今じゃなくても良いものなんかじゃなく
そういうのをたくさんとって、なんとか、ダサい自分でも、なんか、こう、なんとかなるんじゃないかって思ってる。

 

 

ちょうど、最近「その鉄塔に男たちはいるという」を観たんだけど、

 

(ちなみに観たのはネルケさんから出ている、NAOTOさん直己さんが出演したやつだ)

その鉄塔に男たちはいるという [DVD] https://www.amazon.co.jp/dp/B004HD4KF2/ref=cm_sw_r_cp_api_i_lFBLEbTVBHQ4P

 

 

「みんななるべく好き勝手やっていくしかないんだって。
お前はショーがやりたいんだろ?それをやればいいんだって。どんな状態でもやればいいんだって。
殺伐としたところからさあ、とにかく遠い存在でいようよ。
銃撃の音が聞こえて?そりゃ不安になるけどさ。
もうそんな時も遠い存在でいようよ!!」

 


なんか、最近ひたすら、この台詞を思い出してる。
非常時には人間の本質が、なんて知るかよ!ってくらいの気持ちだ。そんなダサい自分じゃなくて、私は好きなものを好きだ、って言ってる、好きなものの話をしてるそんな自分が好きなんだから。
この台詞と、それから、ここ最近触れた好きなものたちのことを思いながら、ずっとずっと考えてる。

とどのつまりは、明日も私は好きなものの話をするぜ、という、本当にたったそれだけのブログなのでした。

 


熊本地震から4年。どっこいそれでも、熊本にいる家族も含めて生きてる。色々形は変わっても。生きて、好きなものを好きだって言い続けたいよな。

メル・リルルの花火への日にちを指折り数えてる

また、おぼんろさんが最高の贈り物を準備してくれているらしい。
彼らのお芝居は、お芝居というよりも物語という言葉が似合うし、更に言うと、贈り物、という表現がしっくりくる。


https://www.obonro-web.com/16-1

 

 

おぼんろさんは4月に予定した公演をサテライト公演にすると発表した。
情勢的に「配信」公演が増える中、サテライト、という言葉を選んだのはこだわりがある、というツイートを見た。
また「劇場を、世界に移します」というツイートも。

 


わくわくした。
彼らは、またなんだかわからないけど、面白そうなことを始めようとしている。

 


ある時は、海辺の公園に物語のためのテントを出現させたり。

おぼんろさんは面白いことの天才だ、と思う。更に言えば、「悪巧み」の。
悪戯好きの子どものように駆け回り、次々と予想外なことを引き起こしていく。それはある意味で「客席」なんてものを取っ払い、劇場に足を踏み入れた私たちを「参加者」と呼び物語の世界へと手を引いてくれる彼ららしい、といえばそうなのかもしれない。

 

 

路上から始まり、「今からきみは共犯者だ」と声をかけていたという末原さんの話はなかでも私のお気に入りの逸話だ。
そうして、倍々作戦は実行された。次は誰か友達を連れてくる、そうして倍々に増えていく「参加者」たち。
誰かの好きが連鎖して、増えていく。そういう、まるで奇跡みたいなとんでもなく美しくて優しくて面白いことを、彼らはやってのけたのだ。


だから、サテライト公演、もとんでもなく楽しみだ。状況を逆手にとるどころか、お手玉して遊びだしかねない彼らだもの。

 

 

お芝居は生で観るのが1番だ。それは私たちはもちろん、彼らが1番思ってることだろう。
じゃあそれができない、ってなった時に、じゃあもっといろんな人たち…物理的制約で劇場に、足を運べない人たち…にも会える!と考える彼らが大好きだ。

 

 

 

たぶん、末原さんをはじめ、おぼんろの人たちはずっと「わくわくし続けられるか?」を考えてるんだろう。


そしてもちろん、彼らの良さはそういう「仕掛け」だけにあるのではない。
やっぱり何より、物語が強いのだ。

まず、そもそもその物語を立ち上げるメンバーが強い。それは語り部たちもそうだし、その世界を作り上げるスタッフの方々もだ。
生み出す。
0をどんどん、1.2.3……と増やしていく。世界を産み落とす。
その技術も、熱意もある人たちだ。大好きだ。

 

そして何より、私は末原さんの紡ぐ物語が好きだ。


出てくる登場人物たちが、わりと強かで好きだ。純粋無垢に見える子もいるけど、普通に逞しい。転んでもたたじゃ起きないぞ、の精神がわりとみんなある気がする。

 

「泣いて生まれたからもとをとりたい」

そんな風にずっと、気合を入れて笑っている彼が好きだ。別に無理に笑ってるわけじゃない。気合をいれて笑ってるのだ。

 

 

海辺の公園に生まれたテントの中で紡がれた物語のことを、私は良く思い出す。
生まれた瞬間、心底絶望して泣き叫ぶ人形に向かって、同じように泣き叫びたい心を押し殺して生きてきた人形が言った言葉は、今も私の中に残ってる。世界の美しさを、一つ一つ挙げていく声の優しさも、そしてその時のことを、「人は、思ってもないことは口にはできないと思うのです」と信じ続けることにした彼のきらきらした笑顔を。

 

そうして、覚えてる私もきっと、そう思ってるんだろうな、と思う。
世界の美しさを、信じてる。だから、頭の片隅にいつだって忘れないまま、あるのだ。

 

 

痛いくらいの切実さと愛情の中で生きている「いきもの」の物語を、彼らは紡いでいる。それは時に、惨さすらも伴って。

今、そんな物語が心底観たい。私は、ずっとずっと、その物語に触れる日が楽しみで仕方ない。
 

別に、絶望していないわけでもないけど、気合を入れてどうせなら笑いたい。
普通に絶望するのも疲れるし、だったら、同じ「疲れる」で思い切り笑ってやろうと思う。

 

そういう物語と繋がる日が、一日一日、近付いてる。なんてこった、めちゃくちゃ最高じゃんか!

CINEMA FIGHTERS カナリア

 

CINEMA FIGHTERSがHiGH&LOWシリーズとともに期間限定無料配信されている。

https://www.youtube.com/watch?v=aD5za7bLEUY

映画館でも観ていたんだけど、連続してその日映画を観ていたのもあって、

単独の作品では感想を書いていなかった。

(観て、全体を通して疑問に思ったことだけちらっと書いてたhttp://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2018/06/27/165243

し、どうしてもテーマがテーマなので、繰り返し見る勇気も出ずに結局そのまま、一回きりしか観ていない記憶をただただ脳内再生していた。

それが、今回せっかく配信されるので(かつ、あの頃よりも敬浩さんという人に興味も好意も増していたので)見直そう、と思った。

 

見直して一番に想うのは、やっぱり敬浩さんの『表現』が好きだなぁだということだった。

思えば、僕会いといい、彼のお芝居に触れるともっと見たいっていっつも思っちゃうんだよな。

 

 

神様論は残酷だと思う。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」

とはよく聞くけど、私はどっか、その辺りを信仰できずにいる。
最低限の礼儀は払うけど、信仰というのに遠いからかもしれない。どっか、神様がいるんならこんなことしてんじゃねえよ、って悪態を吐いてしまうことが多い。うーん、罰当たりだな。


「生き物は生まれるべきときに生まれる」


という言葉を聞いた時の、彼の胸の軋みを想像して、そんなことを思った。

 

例えば、運命のようなものがあったとして、だとしたら「なんで」って余計に責めたくなると思う。
他の作品になるけど「死んでしまいそうオーラ」なんて出てなかったじゃないか、という会話が、昔観た作品にあって、

本当、それなんですよ。

死んでしまいそうオーラ、とか死なないといけない理由なんてなかったのに、みたいな気持ちになる。
(これは逆に「物語上必要な死」なんて表現もあったりするわけだけど)

 

敬浩さんが演じる亮はほとんど台詞がないままに進んでいく。
あとから舞台挨拶のレポを読んでいて、その撮影風景などに触れると、なんだかしみじみしてしまう。
かつ、今回の無料配信では各話の前に当時の彼らによるコメントも挿入されている。
その中で、敬浩さんは「丸裸にされていくような」と口にしていた。
またレポを見ていて印象的だったのは「上っ面でやろうとすると指摘された」という言葉だった。

松永監督は、同じくCINEMA FIGHTERSの第3弾「その瞬間、僕は泣きたくなった」の中でも今市さん主演の作品の監督を担当している。第3弾の中でも、特にあの話が私は大好きだったんだけど、いい意味で「物語的な意味・表情」を撮らないでいてくれる監督さんだな、と今回久しぶりにカナリアを見て思った。

そして、敬浩さんのそういう「言葉にしないこと(あるいはできないこと)」を表現している時がものすごく好きだなぁとも。同じく「台詞自体が少なかった」と言われる「僕に、会いたかった」も本当に好きなんですよね。

 

たとえば、最初に書いた「生き物は生まれるべきときに生まれる」って話をしている時の表情とか、
彼女の幻覚を見て、餌を燃やす直前、車のハンドルに伏せた瞬間の表情とか
牛の頭を、叩き割れなかったときの引きの姿全体から見える表情とか。

 

改めて、敬浩さんのお芝居、を好きだと思った。

かつたぶんそれは単なる技術としての「お芝居」という話だけではなくて(と思うのは、松永監督の撮影が「丸裸にするような」ものだったという言葉の影響を多分に受けているんだけど)敬浩さんというその人自身の物事の見方とか心の動かし方というものが、たまらなく好きなんだと思うし、それを「作品」として届けてくれる敬浩さん自身にも、松永監督にも感謝しかない。

 

さて、少し物語自体に話を戻す。

 

震災で彼女を失った亮が死んだ彼女の父親の手伝いをすることについて、
作中「偉いよ」という餌を持ってきてくれた男に対して父親は言う。
「暇なだけだろ」
これ、もう、めちゃくちゃ絶妙だな、と思ってて。

やれることなんてないし、でもぼーっとしていても仕方なくて、
せめて、の行動として選ぶのが「彼女の父親の手伝い」になるの、ものすごく、分かると思った。

そうすることが紛らわせられるような気がする数少ない方法の中の一つかもしれない。言葉は悪いけど、「彼女のため」とも錯覚させられるような気がするし、自分を。
もっとも、そんなことはないのは作中の亮の表情を見ても、
その後の彼の行動を見ても明らかだ。

何一つ誤魔化せないし、そうすることで彼女の幻覚を見なくなるわけでもない。ましてや、気持ちが楽になることなんて一つもあるわけがない。
生きる為に生きるのはしんどい。

このタイミングでカナリアを観るのある意味しんどかったな、とふと見ている途中で思ってしまった。

色んなものが自粛され、いつ終わるかもわからず、色んな人が不安になって揺らいでるような中、楽しみはどんどん先延ばしになっていって、時々ただ生きてるだけだなぁなんて過らないわけでもない。(まぁもっとも、こうして映画を観たり、楽しんでもいるんだけど)

もちろん、恋人を失った亮の悲しみとか苦しみと今の状況の鬱屈感は似て非なるものなので、重ねるほうが間違っている。

それでも、映画館で見たあの時以上に、餌に火をつけた彼の姿を責められない気持ちになった。

初見の時も、あのシーンが苦しいながらに一番好きだった。


ただ今回、あの時以上に餌に火をつけ、牛舎の隣の休憩所(と呼んでいいのか)を壊す彼の姿になんとも言えない気持ちになる。
あと、改めて見て、殴られながら顔を庇う敬浩さんがめちゃくちゃしんどかった。
別に、罰せられたくてああしたわけではないだろうけど、それでもその時「傷付かないように」動いてしまうの、とてもとても苦しい。

なんか、にっちもさっちもいかないよ、と思う。誰かを傷付けきることも、自分を傷付けきることも……もっと極端に言えば、彼女を追うことすらできない。

 

どれだけ生きようが、意味をもたせようと彼女の父親を手伝おうが、生き物を育てようが、時間は戻らない。なくしたものの痛みばかりが増していく。

どころか、その苦しさがいつまで経っても終わらないんじゃないか、という言い知れない恐怖のような、自暴自棄になるくらいしかないようなそういう息苦しさの中で、きっと彼はこれからも生きていく。

 

酷いことを言えば、きっとそれは生きている限り続くんだろうと思う。
それくらい、彼女のことが、大事だったことはふとした佇まいや目の揺れから十分に伝わってきた。
そしてそれでも亮は、牛の頭を叩き割ることはできない。

それが優しい、のか、残酷なのかは分からないけど。

 

でも、例えば牛を殺せない、彼女を追って死ぬこともできないのは、彼自身や彼女との時間の積み重ねなんだろうし、

そういうことだよな、と思う。

子牛が生まれる瞬間の演出について、しみじみ考えてしまう。命がどう、というよりも単純に、ただただ、時間とか、起こる・色んなことについて。


本当に好きだな、と思ったのは子牛にミルクをやる、その彼の表情をアップで撮るんじゃなくて、引きで撮った、そのシーンだった。
表情は分からない。そのことで「全部が平気」になるわけじゃない。救われるわけでも、きっとない。

だけど、光の中、生まれたばかりの命をつなぐ彼の姿は綺麗だった。
そうして、生きていくんだろうな、とも思った。

それを手放しにハッピーエンドだなんて言うつもりはないけれど、だけどそれでも「ああよかった」とは、思ってしまうのだ。