えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

CINEMA FIGHTERS カナリア

 

CINEMA FIGHTERSがHiGH&LOWシリーズとともに期間限定無料配信されている。

https://www.youtube.com/watch?v=aD5za7bLEUY

映画館でも観ていたんだけど、連続してその日映画を観ていたのもあって、

単独の作品では感想を書いていなかった。

(観て、全体を通して疑問に思ったことだけちらっと書いてたhttp://tsuku-snt.hatenablog.com/entry/2018/06/27/165243

し、どうしてもテーマがテーマなので、繰り返し見る勇気も出ずに結局そのまま、一回きりしか観ていない記憶をただただ脳内再生していた。

それが、今回せっかく配信されるので(かつ、あの頃よりも敬浩さんという人に興味も好意も増していたので)見直そう、と思った。

 

見直して一番に想うのは、やっぱり敬浩さんの『表現』が好きだなぁだということだった。

思えば、僕会いといい、彼のお芝居に触れるともっと見たいっていっつも思っちゃうんだよな。

 

 

神様論は残酷だと思う。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」

とはよく聞くけど、私はどっか、その辺りを信仰できずにいる。
最低限の礼儀は払うけど、信仰というのに遠いからかもしれない。どっか、神様がいるんならこんなことしてんじゃねえよ、って悪態を吐いてしまうことが多い。うーん、罰当たりだな。


「生き物は生まれるべきときに生まれる」


という言葉を聞いた時の、彼の胸の軋みを想像して、そんなことを思った。

 

例えば、運命のようなものがあったとして、だとしたら「なんで」って余計に責めたくなると思う。
他の作品になるけど「死んでしまいそうオーラ」なんて出てなかったじゃないか、という会話が、昔観た作品にあって、

本当、それなんですよ。

死んでしまいそうオーラ、とか死なないといけない理由なんてなかったのに、みたいな気持ちになる。
(これは逆に「物語上必要な死」なんて表現もあったりするわけだけど)

 

敬浩さんが演じる亮はほとんど台詞がないままに進んでいく。
あとから舞台挨拶のレポを読んでいて、その撮影風景などに触れると、なんだかしみじみしてしまう。
かつ、今回の無料配信では各話の前に当時の彼らによるコメントも挿入されている。
その中で、敬浩さんは「丸裸にされていくような」と口にしていた。
またレポを見ていて印象的だったのは「上っ面でやろうとすると指摘された」という言葉だった。

松永監督は、同じくCINEMA FIGHTERSの第3弾「その瞬間、僕は泣きたくなった」の中でも今市さん主演の作品の監督を担当している。第3弾の中でも、特にあの話が私は大好きだったんだけど、いい意味で「物語的な意味・表情」を撮らないでいてくれる監督さんだな、と今回久しぶりにカナリアを見て思った。

そして、敬浩さんのそういう「言葉にしないこと(あるいはできないこと)」を表現している時がものすごく好きだなぁとも。同じく「台詞自体が少なかった」と言われる「僕に、会いたかった」も本当に好きなんですよね。

 

たとえば、最初に書いた「生き物は生まれるべきときに生まれる」って話をしている時の表情とか、
彼女の幻覚を見て、餌を燃やす直前、車のハンドルに伏せた瞬間の表情とか
牛の頭を、叩き割れなかったときの引きの姿全体から見える表情とか。

 

改めて、敬浩さんのお芝居、を好きだと思った。

かつたぶんそれは単なる技術としての「お芝居」という話だけではなくて(と思うのは、松永監督の撮影が「丸裸にするような」ものだったという言葉の影響を多分に受けているんだけど)敬浩さんというその人自身の物事の見方とか心の動かし方というものが、たまらなく好きなんだと思うし、それを「作品」として届けてくれる敬浩さん自身にも、松永監督にも感謝しかない。

 

さて、少し物語自体に話を戻す。

 

震災で彼女を失った亮が死んだ彼女の父親の手伝いをすることについて、
作中「偉いよ」という餌を持ってきてくれた男に対して父親は言う。
「暇なだけだろ」
これ、もう、めちゃくちゃ絶妙だな、と思ってて。

やれることなんてないし、でもぼーっとしていても仕方なくて、
せめて、の行動として選ぶのが「彼女の父親の手伝い」になるの、ものすごく、分かると思った。

そうすることが紛らわせられるような気がする数少ない方法の中の一つかもしれない。言葉は悪いけど、「彼女のため」とも錯覚させられるような気がするし、自分を。
もっとも、そんなことはないのは作中の亮の表情を見ても、
その後の彼の行動を見ても明らかだ。

何一つ誤魔化せないし、そうすることで彼女の幻覚を見なくなるわけでもない。ましてや、気持ちが楽になることなんて一つもあるわけがない。
生きる為に生きるのはしんどい。

このタイミングでカナリアを観るのある意味しんどかったな、とふと見ている途中で思ってしまった。

色んなものが自粛され、いつ終わるかもわからず、色んな人が不安になって揺らいでるような中、楽しみはどんどん先延ばしになっていって、時々ただ生きてるだけだなぁなんて過らないわけでもない。(まぁもっとも、こうして映画を観たり、楽しんでもいるんだけど)

もちろん、恋人を失った亮の悲しみとか苦しみと今の状況の鬱屈感は似て非なるものなので、重ねるほうが間違っている。

それでも、映画館で見たあの時以上に、餌に火をつけた彼の姿を責められない気持ちになった。

初見の時も、あのシーンが苦しいながらに一番好きだった。


ただ今回、あの時以上に餌に火をつけ、牛舎の隣の休憩所(と呼んでいいのか)を壊す彼の姿になんとも言えない気持ちになる。
あと、改めて見て、殴られながら顔を庇う敬浩さんがめちゃくちゃしんどかった。
別に、罰せられたくてああしたわけではないだろうけど、それでもその時「傷付かないように」動いてしまうの、とてもとても苦しい。

なんか、にっちもさっちもいかないよ、と思う。誰かを傷付けきることも、自分を傷付けきることも……もっと極端に言えば、彼女を追うことすらできない。

 

どれだけ生きようが、意味をもたせようと彼女の父親を手伝おうが、生き物を育てようが、時間は戻らない。なくしたものの痛みばかりが増していく。

どころか、その苦しさがいつまで経っても終わらないんじゃないか、という言い知れない恐怖のような、自暴自棄になるくらいしかないようなそういう息苦しさの中で、きっと彼はこれからも生きていく。

 

酷いことを言えば、きっとそれは生きている限り続くんだろうと思う。
それくらい、彼女のことが、大事だったことはふとした佇まいや目の揺れから十分に伝わってきた。
そしてそれでも亮は、牛の頭を叩き割ることはできない。

それが優しい、のか、残酷なのかは分からないけど。

 

でも、例えば牛を殺せない、彼女を追って死ぬこともできないのは、彼自身や彼女との時間の積み重ねなんだろうし、

そういうことだよな、と思う。

子牛が生まれる瞬間の演出について、しみじみ考えてしまう。命がどう、というよりも単純に、ただただ、時間とか、起こる・色んなことについて。


本当に好きだな、と思ったのは子牛にミルクをやる、その彼の表情をアップで撮るんじゃなくて、引きで撮った、そのシーンだった。
表情は分からない。そのことで「全部が平気」になるわけじゃない。救われるわけでも、きっとない。

だけど、光の中、生まれたばかりの命をつなぐ彼の姿は綺麗だった。
そうして、生きていくんだろうな、とも思った。

それを手放しにハッピーエンドだなんて言うつもりはないけれど、だけどそれでも「ああよかった」とは、思ってしまうのだ。