えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

あまろっく


「ここでこの時観たこと」
そのことが、奇跡のような瞬間を生むことがある。私が、映画を観るために極力映画館に足を運びたいと思うのはそんな経験を何度かしたことがあるからだ。
そしてこの「あまろっく」もあの日、あの場所、尼崎で長く愛されている「塚口サンサン劇場」で地域のひとと観ることができたことも含めて、そんな経験の一つになった。

だから、あの映画を観たあの一日の話から、書いていきたい。

 

日曜朝一上映。とはいえ、熱烈に愛されている映画館であり、また、作品ごとに唸りたくなるような愛情をもった上映をしてくれる塚口サンサン劇場のことなので、土日朝一の上映が埋まっていることは結構ある。
しかしその日、映画館にいる人たちはどこかいつも見かけるような光景と違っていた。
映画を観慣れたひとたち、というよりも、あちこちから「映画いつぶりだろう」や「この映画館、小さい頃来てたわあ」なんて会話が耳に飛び込んでくる。それで確信した。ああ、この人はきっと、あまろっくを観にきたんだ。
心臓がどきどきした。とんでもないことが、起ころうとしている。そんな気がした。

 

上映前、飲み物を買いに映画館内の自販機に寄った際、ご夫婦と少しだけお話しした。
そもそも私は、江口のりこさんが好きであり、また予告やフライヤーからびんびんに「この映画はきっと私が好きなやつだ」と予感していた。
百発百中とまではいかないがこの感じの「びんびん」の予感は当たる。そんなことを思いつつ、飲み物を買う私に「尼崎のひと?」とご夫婦が話しかけてくれた。なんだか、それにもわくわくが募る。映画を観たいと思うこと、それが自分の街の景色があること。そんなきっかけが生まれるのは、なんて素敵なんだろう。

 

劇場内に集まった老若男女(ちょうど小学生のクラス単位での鑑賞もあり、かなり観客の幅は広かった)が、劇中のテンポのいい会話に笑い、息を飲む。時々、映る景色に嬉しそうに店の名前や地名を言う声がする。普段なら気になる話し声が気にならなかったのはきっと、その声があのスクリーン向こうにある生活と地続きだったからだ。

 

ああ、この映画の中に出てくる愛おしいひとたちは「生きて」いるんだな。勝手ながら、映画館で一緒に観たひとたちの気配にその確信が強くなった。この街で生活する、ご飯を食べて、笑い怒り、泣いたりもする、全てのひとたちのなかに、彼女たちもいるんだ。

 


映画の主人公、江口のりこさん演じる優子に私は「分かるよ」と「ああもう」を繰り返し感じていた。父に対しての「ああはなりたくない」から頑なになり、決して間違ってはないけどどんどん和を乱し居場所をなくしていく彼女の姿に冒頭からううううと唸りそうになりながら観ていた。それでも引き込まれるように見てしまったのは、江口のりこさんの軽快な台詞運びが楽しく、カラッとしていたからだ。その中でも、彼女の痛みやかさぶたがようやく出来始めたばかりの傷が軽くなるわけじゃないあたりが、本当にすごい。


そうして、観た後、鶴瓶さんのラジオに出演された江口さんの話を聴きながら、考えていた。
物語に思うところはあったということ、撮影中、ずっと怒っていたこと。だけど、周りの人に支えられた瞬間があったということ。

分からない。実際に私はその場にいないし(当たり前だけど)ただただ、この映画のことを「好きだ」と思っただけである。
一瞬、思った。私は、この映画のことを好きだけど、面白いと思ったけど、それで良いのかな。


だけど、数日経って思う。良いだろ、別に。面白かった、好きだった。
例えば作られる間に誰かが大きく傷付いたなら誰かが不当に扱われていたなら、と最近の色んな出来事に思う。それをただ、楽しむのは辛いな、と思う。
思うけど、思った上で、でも、あまろっくのこの映画の見ている時間を好きだ、と改めて思う。
そうしながら、優子だったんだなあ、と思った。怒る、怒る。そして、その怒りはそれ自体は、真っ当だし、分かる〜となりながら、ちょっと和を乱してて、だけど、私は、そんな優子さんが、好きなのだ。

 

ところで、鶴瓶さんと松尾さんという好きな人ふたりが演じる「竜太郎」は近所にいてほしいおっちゃん堂々第一位である。あるのだけど、それすら「物語上だけで起こり得る奇跡」にしない。劇中描かれる彼の姿は、フィクションの世界ではなくて、きっと、この街に生きるひとの姿だし、そしてそれが何より、この尼崎、関西という街へのエールにも、ひとそのものへの賛美にも感じた。それは、まさしく「人生に起こることはなんでも楽しまな」というお父ちゃんの言葉がこの映画全体に通じる、ということのような気がするのだ。
とんでもなくファンタジーで、あり得なかったり、「物語のご都合主義だな」と思う瞬間はある。あるんだけど、あるからこそ、「物語上だけで起こり得る奇跡」で終わらない。そう思う。
それは、ストーリーラインで成立することもあれば、そこにただただ、生きているひと、その姿で思うことだってあるのだ。

 

何かを楽しいと思うこと、面白がること。
そうして、目の前の人を大切にすること。

 

この映画を観てる途中、女性ふたりの描き方が心地よく、そしてどんどんふたりのことを好きになっていくことに気付いた。
まだまだ、このふたりの関係が深まるさまを見ていきたい。深まるけど、分かりやすく戯れたりはしない、だけど、この二人が互いに互いを大切にしてることは、わかるんだ。


ああうん、そうだ。
自分の何か大切な瞬間に「大切なんだ」と寄り添えることを、愛と呼べたらいいなあと思う。


誰かを大切にしたくて、笑っていてほしい、ご飯を一緒に食べること、その人を思うこと。
そういうことを、愛と呼べたなら、たぶん、私はとてもとても、嬉しい。

 

映画を見終えて、始まる前に話した夫婦に会った。三人で「ああ、本当に、このみんなでこの映画を観て良かったね」と泣きそうになりながら、笑いながら話した。二人が言う。
「また、この映画館で」
私は、なんだか、その一言が全部だったようなそんな気がしている。

 


ひとは、一人では生きていけない。この映画を観た後ならば、その言葉がとんでもなく優しくあたたかな言葉に思えるのだ。