えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

誰か、この声を聴いてよ

星野源のライブを見ながら、この日記を書いている。ああこの人のライブが、音楽が、表現が好きだと思う。踊るように歌うように揺蕩うように、ライブを楽しむ。ああ、このひとの表現がこの世にあって良かった。

 


静かに、傷付いていたのかもしれない。そんなことを予定していた映画をキャンセルして布団のなか、唸ることしかできない日曜日に思う。なんなら酔ってふわふわした時間、友だちに「もうどうでもいいしなんでもいいよ、ともかくただ、寝たいよ」と言ってしまったことだってそうだ。傷付いて嫌だなってことを煮詰めて、八つ当たりのように人にぶつけてしまう、そんな自分であることが一番かなしい。

 

 

普通そうじゃないよと言われること、普通に歩くことが難しいと思うことが多くて、苦しい。
さらには最近「大切にしたいな」と思うこと、ひとが増えた。大切にしたい、柔らかなもので包んでいたい。だけど、その「したい」はそうできていないことの裏返しだ。
大切なものがいくつもあるのに、少しも、大切にできていない気がする。
そんなことが、ずっと苦しくて悲しい。

 

 

本当に、生きるのが下手だな。

 

 


そうも思うけど、別段、そのことに対して絶望もしてない。あーやだな、とは思うし布団に沈んで過ごすことも多いけど、だからなんだというのだ、と開き直るような気持ちもある。そんなことを今ぼんやり思ってる。

 


落ち込む速度がゆっくりになったな、と気付いたこと、好きなものや良いなと思ったことをゆっくり文にすること。悲しかったことを言葉にしながらそれだけで終わるのが悔しくてなんとかこう、ポジティブにだな、と頭を捻ったこと。
それもこれも全部、楽しかったな。

 

 

 

好きなドラマも観ていた。唸るような日曜日を楽しいものにしたくて、ドラマを観て湯船を溜めて、好きなスパイスカレーをつまみにお酒も飲んだ。
その中で、コントが始まるを観て「自分にとっての10年」の台詞を聞きながら、考えていた。何があったら勝ちなのか、負けじゃないのか、別の競技での勝ちは「負け惜しみ」になるのか。
好きなドラマがあること、音楽があること、ラジオがあって、観たいお芝居のことを考えられること。
たぶん、私は日々の中で「かなしい」を感じることこそ多いけど、「楽しい」の引き出しをたくさん持ってるんだな。
そんなことを考えながら、私にとっての10年や自分の毎日を勝ちか負けかについて考える。

 


ブルータス、お前もか、で書いた「がっかりしてしまった」相手とこの間、ゆるゆる歩きながら話したことがあった。「怒ってるかと思って」と言われて、「怒ってたよ」と返した。
怒ってた、結構まじでくだらねえ奴だったことにがっかりして、いちいちそれ以降の言動にも最低を見つけて、そして何よりそんな自分にも心底、がっかりしていたよ。
だけど、気が付けば「最低だったとしても友だちなのは変わらないよ」と言っていた。むかつくし、どうなん、と思うけど、でもそうして怒った私にも君は怒る権利があるし、それもこれも全部ひっくるめて、私は君とまた、酒飲んだりバカ話ししたり、音楽の話がしたいよ。

 

 

 

「これがあれば人生はうまくいく」みたいな言葉がずっと苦手だ。
んなもんねえよとずっと思ってる。何かが劇的に好転するようなことがあるとしたら詐欺かなんかだと思う。そう思いたいだけで、劇的な好転なんてものは、絶対にないと思う。ただ、逆に人生がいきなり暗転することはある。終わることも怖いけど、何より、終われず、暗転のまま生きていくことだってあるよなあ、と思う。
そう思うと好転と暗転のバランスの悪さになんとなく納得のいかない気持ちにはなるけど、でも、劇的な好転はなくても「ああ楽しい」や「生きててよかった」と思える瞬間はあるんだろうと思う。


それは全部、何かの一瞬、大きく変わることなんかじゃなくて、日々、積み重ねてきた地味で何気ない、些細すぎて記憶に残らないような何かの連続なんじゃないか。そう、祈るような気持ちで思ってる。

 

 

3月が良い1ヶ月になるといいな、と書いて始めたこのわがまま日記。書き終わる今日、どっちだったかな、という結論は出ていない。悲しいこともムカつくことも、びっくりするくらい楽しいことも嬉しいこともあった。
結局「良い1ヶ月」という結論で一色にするには惜しい気がする、というのが答えじゃないか。だけど、だからこそ、その上でギリギリ楽しいや面白いが勝ち越しした、そんな1ヶ月だったと痩せ我慢も含めて、思う。

 

 

 

大丈夫、私にはずっと面白いと楽しいがある。