えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

#つくのラジオごっこ

#つくのラジオごっこ


メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。

ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。

どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。



またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。

AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。


また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。


ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。


よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


ひとりでの #つくのラジオごっこ

エピソード1 "ラジオ"の話

エピソード2 エンタメの話

エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話

番外編1 withセンパイ

上半期お疲れ様と下半期宣言

上半期お疲れ様でした。まじでリアルに「生き延びた」感覚になってるのはこのクソみたいな暑さのせいだろうか。
気が付けば6月が終わって上半期が終わるんだけど皆さん実感あります?私は実感がないです。
アホみたいに怒涛の展開だったせいかもしれないし、あと気が付けばわりと下半期の予定埋まってるからかもしれない。



去年、なんとか年末年始に漕ぎ着けて友達に宣言した。いつも言ってきた「今年はのんびり過ごそうと思ってたけど全然そんなことなかった」にそろそろ飽きてきたからもう言うのを止める。
大体そんな風にはならない。これ以上、身の詰まった一年はこないだろうを何回繰り返した分からないし、たしかに振り返ると大袈裟ではなく、その時々必死に生きて次の一年を見据えての言葉だから、まあ、否定はしない。しないけど、なんか毎年言ってるならわざわざそんな「今年はもうちょい静かな年になるだろう」なんて言う必要、ないと思うのだ。どうせ騒がしい1年になる。


ついでに言えばこの2022年の上半期は大体バッドの沼にハマっていた気がする。
しかしそれにちょっとだけ安心してもいる。
それは私が数年、「ポジティブでいること」に固執していたからかもしれない。自分を肯定して世界を肯定して、否定するとしても進むためで。
そういうことを全部私は、2年前ぽきんと折って捨てたのかもしれない。
捨てて、少しもともとの自分を取り戻せば取り戻すほど「嫌なこと」は目につくようになった。揺り戻しみたいに自分の嫌いなところが目について落ち込む。無理やり自信があるのだと楽しくて仕方ないと色んなものを無理に好きだと振る舞ってきた代償かもしれない。



上半期、エンタメに支えられてる私が決める、ぶん殴られたエンタメは札幌でのCreepy Nutsツーマンライブ「生業」だ。
衝動に任せて決めた小旅行がそこから先の私にもたらした影響は大きい。そう考えると紛れもなく、あのライブは「上半期一」だ。


あのライブを思い出すたび、ステージセンター、ひとりマイク前に立っていたRさんを思い出す。その姿を見て、推し、という言葉を彼に使うことに心底ビビった自分を思い出す。

なりふり構わずなにかを好きでいる自信も、自分なりに大切にする自信も、あるいは誰かと共有する器量もなかった。
そのくせ、これは自分だけの感情だと大切に確認するためには覚悟も語彙も表現したいという気持ちも薄かった。


だというのに、マイク前、決してブレず立つRさんに「どうやったら言い表せるのか考え続けている」と言ったそのひとの、それでも真っ直ぐな立ち姿に完全にビビった。自分の言葉が、許せなくなった。
どちらの覚悟もなく、ただただムーヴメント的にその言葉を使った。
それだけでもそこそこ火の吹きたくなる出来事ではあるけど、その上さらに、自分なりの理論を捏ねていたのだから救えない。


自分と重ねて自分の失敗を見ないふりして、ただ自分と似てる場所だけを薄めて伸ばして分かる!を叫んだ自分はどれほど軽薄だったろうかとなんかお腹が痛かった。
まあそのくせ、それは今も続けてるんだけど。いつも私は自分の背骨の主成分をエンタメやそこを通して出会った人たちに頼り過ぎていてだからどこか後ろめたい。


そう思うとただただ私が仕事でがむしゃらになりたいのは、自分に自信がないからだ、と思う。成果なりなんなりで「間違えてない」確認をしたいというかこすい感情でしかない。エンタメだけに頼ってないと安心して自分なりの「正しい」を見つけたい。
残業が多いことを心配されるたびに思う。それでも空白の部屋の中、ぼんやりひとり佇む時間が減ることのほうが余程楽だと思う。
その上、そうやって仕事をやるだけやって帰ってきてからの方が、好きなことをやる気力も負けん気的な発想で湧いてくる。


仕事で頭打ちまくってた時に、成果も出せてないから頭打たない選択肢がないですと言った私に上司が気持ちは分かるよ、と言いながら伝えてくれたことを最近ずっと考えてる。
結果は単なる点でしかなくてもちろん大切だけどその過程、何があって何が足りなかったか、出来たことはなんなのか。それを考える方が点より大事だし次に繋がるんだよ。

MIU404の陣馬さんの「出来なかったことじゃなくてできたことを数えろ」という台詞を初めて聴いた時のような気持ちになった。



そうだ、幸か不幸か、私たちは点じゃなくて続いていく何かなのだ。



自分の軸がブレまくったり、それを怒ったり怒られたり呆れられたり心配されたりしながら、やってきたけど、でも気が付けばどんどん、毎日が積み上がってきたなあとぼんやり思っていた。

生業の札幌が好きだったのは、表現すること、それを楽しむこと、それを楽しいと口にすることにめちゃくちゃ傷付いていた時に観たライブだったからということもある。


その中で、HIPHOP、フリースタイルというカルチャーで「自分」を表し続けたR-指定さんとAwichさんがそれぞれ口にした、そうして折れずに自分の責任を引き受けてきたふたりが、気が付けばそうして信じた先、歩いてきたところで同じように生きる人たちに出会えたことの話をしていたことを私は繰り返し繰り返し思い出す。





下半期も色んなことがあるんだろうな、たくさん思ったり考えたり、そうしながらああこれは違ったと反省することもあるんだろうけど、そこから先、なんとか続けられるとしたら、もしかしたら素敵なものに出会えるかもしれない。
そう思うとわりとわくわくしてる自分の現金さに呆れながらも私は結局、そういう自分がけっこー好きだ。

サーカス・メロディー

今更ながら、ここ最近2014年にリリースされたDJ松永さんのアルバム、サーカス・メロディーをひたすら聴いている。なんだか急にぶっ刺さり、繰り返し繰り返し聴いてしまう。
元々はこの中に収録されているR-指定さんとのCreepy Nutsとしての曲「トレンチコート・マフィア」をひたすら聴いていた。
ライブで聴き「盛り上がった」ことと、その後の刺し方、ステージとしての演出、HIPHOPが「自分ごと」を表現する音楽であること、かつ、それに勝手に自分を重ねること。
そういうことを改めて考えた大好きな曲だったわけですが、他の曲も聴きたくなった。


きっかけはたしか、Apple Musicの自動シャッフルですれ違い狂想曲が流れたことだったと思う。


すれ違い狂想曲 feat. コッペパン

すれ違い狂想曲 feat. コッペパン

  • DJ松永
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255



これはCreepy Nutsの犬も食わない、とかもそうなんだけど、ちょっと落語っぽいというかストーリーが進んでいくような曲を聞くとついついにやにやしてしまう。
うん、そう、落語に近い。
この曲のオチがどこにいくのか。そんなことを想像してニヤニヤする。もちろん、メッセージ性の強い曲も大好きだしひたすらチルに徹底した曲だって好きだ。でもなんとなく、落語な構成の曲を聞くと楽しくなる。



そんなわけで、自動シャッフルモードが発動するとすぐさま自分の好きな曲に切り替えてしまう私にしては珍しくじっくり一曲聴いてしまった。手元にあるアルバムだから聴いたことはあるはずなのに、なんだかその時、妙に耳に馴染んだ。コッペパンさんのフロウも好きだな、Rさんのお芝居っぽい歌い方好きだな、そう思いながら、やけにメロディが気になった。



あれ、もしかしたら私は松永さんの作るメロディ、かなり好きなのでは?



そう急に思い至る。
いや、Creepy Nutsの曲は好きだと思っていた。それはもうずっと思っていたし、その理由がRさんの言葉が好きだからだけだとは思ってはいなかった。
でもいつも音楽に対する解像度が低く、音のリズムだとか高低だとかを理解しながら感じながら聴くのがへたくそな私はなかなか「この人の音楽が好き」をメロディから自覚することは難しかったりする。しかし、この聴いてる時の「気持ち良さ」はなんだ。言葉のリズムか?それは間違いなくある。そんなことを思いながらCreepy Nutsの音楽作りのやり方を思い出す。



松永さんがメロディを一節送ってRさんが言葉を乗せて、その繰り返し。そこから曲が生まれる。Rさんが泳げるメロディを生み出す、という話をふと思い出して、いやこれは、もしかしたらかなり松永さんの作る音楽が好きかもしれないぞ、と思い至り、今までCDで聴いていたのを全曲ダウンロードして聴き込んでいる。



いやもう、めちゃくちゃ好きだな、このアルバム。



音楽としての良さを語れるなら語りたい。ただどうしたって自信がない。
言葉にしようとすると「めちゃくちゃ気持ちいいから聴いて」という体感の話になってそれじゃあ一言で終わってしまう。
でもどうしても私は今この好きなものの話をしたいので、「私から見たサーカス・メロディー」の話をしていきたい。



サーカス・メロディーっていうタイトル、まず天才過ぎる。このジャケットが単純にデザインとして好きだ。
更に言えば、色んなラッパーと音楽を作りまとめたこのアルバムにこれ以上ピッタリな言葉があるだろうか。サーカス。まじで、まさしくそれ。
こうしていっぺんに色んなラッパーの音楽・言葉を、しかも同じトラックメイカーのメロディにのせて聴くと、改めて音楽・HIPHOPの表現幅の広さに驚く。同じ音楽ジャンルでも全く味わいが変わる。



色んなひとが気持ちよく泳ぐ場を作り出すことについて、私は想像する。
言葉をメロディに乗せていくことを泳ぐ、というのはなんだか素敵な表現だと思う。どこまでもその場で進んでいける、ぐんぐんスピードに乗っていく。そんな光景をいつも想像する。
サーカスも色んなジャンル、表現を一度に楽しめるという意味では、本当にまさしく、なタイトルだと思うし、それらが共通して「楽しませる」につながるのもそうだなあ、と思う。


2014年に出されたこのアルバムは本当にバラエティ豊かだ。だけど、どこか一貫したテーマのようなものを感じるような気がする。メッセージ、というと少しズレるし、同じお題で描いてる、とも思わない。(実際、すれ違い狂想曲とトレンチコートマフィアはノリもテーマも全然違う)




例えば、サーカスという言葉から受けるわくわくする感じとともに目に飛び込んでくるジャケットのどっか不穏な感じ。
それはある意味で、去年発売されたMUSICAでDJ松永さん自身が自身のメロディの特徴の比喩として口にしていた「古くさいすえた匂い」にも通じるものなのかもしれない。



サーカス・メロディーに収録されてる曲はどれも徹底して"DJ松永"の音楽であるのだ、と思った。DJ松永さんのメロディと各ラッパーの化学反応。DJ松永さんが作った"サーカス"で彼のプロデュースによる様々な表現を堪能できる。



このアルバムがリリースされた2014年はCreepy Nutsの活動が始まった次の年だ。
更に言えばこの年、フジロックに初出演からの2015年には彼らの活動の大きな変化のきっかけである「たりないふたり」が発表されてる。
2022年から振り返ればこのアルバム含めて、今の「土産話」に繋がる意味のある一歩一歩だったわけで。
とはいえ、発表当時、これからどうなっていくか見えないなかでのでもいい音楽を作るのだという自信とか意地とかそういうのが、なんか、私は心地よかったのかもしれない。

こんなことを思うのはもう、完全に私のHIPHOPを聴く時のスタンスが恥ずかしいくらいに「自分ごとを彼らの自分ごとに重ねていく」だからなのかもしれないけど。




それでも、そんな頃に作られた松永さんのメロディに様々なラッパーの「表現」が乗っかって泳ぐのが堪らなく気持ちいい。
古くさいすえた匂い。賃料をひたすら抑えることだけ意識して最低限の生活ができるとこ、で選んだワンルームの今まで住んでた家を思い出すからかもしれない。でもそこにあるのは、拭い去れない劣等感だけじゃない。そこから這い上がってやるという気持ちだとか、自分の表現を自分だけは信じ続けようという意地だとか、なんだかたぶん、そんなものだったような気がする。
そんな気配が濃厚にあること、そしてそれを色んな人と表現していることが、このアルバムを聴くたび嬉しくなる、気持ちよくなる理由なのかもしれない。
そして、そこからCreepy Nutsが、DJ松永さんがそれこそ本当に「成り上がっていく」ことを知っているからこそ、わくわくする。その中でも変わらず、いい意味であのワンルームの窓から見えていた光のようなものは見えたまま、彼らの音楽が、今日も続いてることが、たまらなく嬉しくて、最高だ。



あとやっぱり、色んなラッパーとの共演だし、ただメロディを提供してる、だけじゃないから最高にわくわくしたんだと思う。
トレンチコートマフィアのラスト「We are トレンチコートマフィア」前のメロディを聴いて思う。ただのメロディじゃない。まるで、喋る声が聴こえるみたいだ。
最高に気持ちよく言葉を乗せていくの、気持ちいいだろうな、と想像する。めちゃくちゃしっかり、対話しているような、そんな気がするので。


どんどん好きなものが増えていくのが、あまりにも嬉しくて、そしてこのアルバムがうまく言葉に言えない部分で好きだと思ったから、言葉にして残しておく。言葉で言えない部分は、こうして思い出すきっかけを作っておかないと、それこそするりと手の中から滑り落ちてしまうので。

さんきゅーオールナイトニッポンJAM

朝起きた瞬間、目の前がぶっ飛ぶかと思った。
そこそこにコンディションが悪かった朝だったけど、Twitterでその知らせを見てからこっち、ずっとテンションが高い。課金もサブスクも苦手な私がほぼ躊躇いなく会員登録していた。


オールナイトニッポンのサブスク解禁。

2000年以降の番組マスター音源の蔵出し。スタートこそ30番組(かつ、各番組も5エピソードずつくらい)だけだけど、これからどんどん増やしていくらしい。




ニッポン放送からのお年玉かなんかか。クリスマスプレゼントか。父の日のプレゼントか。
もうなんか、本当に嬉しい。
そもそも、ラジオは基本的に聴き逃したら聴けない。radikoのタイムフリーだって相当やばい機能だと思うし、私はこの機能がなければ聴けていない番組があまりにもあるというか、なんなら、生活を丸ごと夜型に変えることすら検討しかねないし、となると、人生の、形がかなり変わる。



そんな革命的な機能に加えて、サブスク、マスター音源の蔵出し、である。


もっと早く出会っていれば、はなるべく私は思わないようにしている。毎日を重ねながら、人は日々変わっていて今のこの「わたし」だったからこそあなたを好きになったんだ、と思っているし、だから、あの時出会っていれば、好きになっていれば、とは思わない。ようにしている。



わけだけど、それでもラジオの伝説回の話を聴けば、流石にハンカチでも噛みたくなる。羨ましさで泣きそうになり、何度も聴いてきたラジオで鍛えた妄想力で書き起こし記事から当時の気配を感じて想像して大きく息を吸って吐いてする。

それがここにきて、合法的にしっかりした後ろ暗くない方法かつ、妄想ではない方法で、ラジオを聴けるというのだ。
もうこれは完全に祭りである。祝祭だ。幸せの鐘が鳴ってる。



思えば、今年55周年を迎えるニッポン放送。だからか、記念年らしさ全面に出続けている。その夜自体も特別な夜になった愛情と奇跡が詰まった「あの夜を覚えてる」。





そして、それ自体は祝い事ではないけれど、菅田将暉さんのオールナイトニッポンの卒業、Creepy Nutsの一部昇格。
個人的にラジオ周りで様々なことが起こって、源さんの今年はゲストをたくさん呼ぶ年ではなくてじっくり話す年にしようっていう言葉とか。
なんか、本当にいっこいっこ、特別が降り積もって増えていく。
それでもラジオは、どこかこっそり楽しんでる面白さがある。いや私はわりとあちこちでラジオが好きです、と臆面なく最近言ってるけれど、でも誰かと共通の話題として盛り上がれる確率はかなり低い。というかそもそも、誰かと盛り上がるために聴いてない。そのくせ、同じ番組を聴くあの人には驚くほど親近感を覚えている。不思議な距離感。
中でもオールナイトニッポンは私の聴くラジオの9割と言ってもほぼ過言ではない。そのサブスク。そのラジオが、いつでも、どこでも何度でも聴ける。



その心強さはきっと、同じラジオを楽しんできた人には、きっと伝わるんだろう。


20日放送のCreepy NutsオールナイトニッポンでDJ松永さんも言っていたけど、本当にあの日、録音していた自分に聴かせてやりたい。録音するか迷いに迷い、大事過ぎて逆に録音できなかった自分にも聴かせてやりたい。



私にはANN JAMがある。


もちろん、配信に合わせて一部権利関係などから編集はされている。だから、まだ私は聴いたことがある回は配信されていないから想像でしかないけど、きっと聴いた時「あの夜」とは違う何かに感じるんだろう。
でもそれはそれで良いし、それが嬉しい。あの夜は変わらず、特別が増えるのが嬉しい。


昨日、知らせとともに会員登録をして嬉しくてにこにこしながら聴いたCreepy NutsのR第一回。想像していた声と近くてそれにまた嬉しくなって何でもできるような気がした昨日の昼間もたぶん、何回も思い出すんだろうな。
生活と一緒に存在してるラジオと、これからも毎日が送れる。なるほど確かにそれはインフラだわ。





会員登録もできるし、アンケートで聞きたい回も送れるよ!

生きちゃってんだからしゃあないじゃん

家族、という投稿を見て、たまらなく嬉しかった。
喜劇が出た時、自分がこの曲に共感できるだろうか、と怯んで、それから繰り返し聴く中で「あなた」に入るのは狭い定義である必要がないんだ、と腹落ちし、
まさしくそんな話を源さんがしてくれるたびに安心したりした。


家族、という言葉の意味を広くとっていいはずだ、と思いながらも自分が無意識に狭めていた「婚姻関係のある人々、あるいはそこから派生した集団」と限定していたんだ、と自覚した。でもそうじゃない。家族は同じ人間相手である必要もないし、他人である必要もない。


そう思いながら過ごしていたけど、インスタの投稿を見ながら改めてそうだよな、と思った。
いつだか、源さんが仕事仲間だって家族だよ、と言っていて私はそれが本当に好きだったんだけど、大好きなひとたちが集まる写真に添えられた家族、という言葉が嬉しかった。彼らが笑いながら音楽をする姿が好きで、まるで家族みたいだとずっと思っていて、それを、彼らが口にしているのが本当になんだか嬉しかった。


家族をもった、作った源さんだからこそ描けた曲。そうかもしれない、そうだと思う。
だけどその家族は一つじゃなくて、たくさんあって、それが重なって交わって、全部で彼を構成してるんだな、と思った。改めて。




学生時代の後輩の結婚式に行ってきた。その日からもう、なんか、感情が忙しい。





なんか、すごい日だったんだよな。
覚えていたくてそのことを話し出そうとすると何をどこまで書くかとかに迷ったりして、そうやって考え続けると「なんかすごい日だったんだよな」で落ち着く。
そこそこ盛りだくさんな毎日の中で、摩耗して消耗して「別にいいや」で済ましたり、もう全部どうでもいいやと投げ出す準備だけ整えたりいやいやと首を振ったり。
そうやって過ごしていくなかで、時々、人生はご褒美みたいな1日を寄越してくる。



誰かの幸せを見届けられること。それが、非日常ではなくて日常と地続きなこと。それから、あの日々の続きにあるんだということ。そんなことをずっとずっと、考えている。




これは本当にたまたまだけど、星野源の曲がたくさん使われた式だったので、繰り返し思ってる。あの時このひとの命が終わらなくてよかった。音楽を続けてくれてよかった。
本当にファンの勝手な感情で恥ずかしい限りだ…それでも、心底思ってしまった。
この人が生きて、そうして奏でた曲が、誰かの笑顔に繋がっている。



その上、自分にとってあの一年を続ける理由になったひとの音楽が、大切で幸せになってほしいと願うひとたちの大切な曲になってることになんか、ひたすら、ノックアウトされてる。




音楽ってすごい。誰かの生活に人生の大切な瞬間に、こんなにも寄り添うのか。
誰かの頭の中、心の奥、鳴り響いた音が飛び出して広がって、また違う誰かの大切な曲になる。
なんだか私は、そんな瞬間に立ち会っているような気がした。




誰かを許す、と考える時、私はいつも「許してもらえるかな」と考えることの方が多い。許してもらえないだろうな、という反語込みで、許してもらえることってあるんだろうかとずっと、ここ数年考えていた。
それは、自分のあの時ああしていれば、の積み重ねの結果だし、でもきっとあの時と同じ時間に戻れたとしても同じことをしてしまうだろう自分への嫌悪と諦めだ。後悔すると分かってて選んだ選択をずっとちゃんと抱えておくことくらいしかやりようがないと思っていた。
だけど、もういいよ、と言われたような気がした。気がしただけでそうじゃないかもしれないし、また少ししたらいつも通り、罪悪感を抱えたりはするのかもしれないけど。




勝手に分かり合えないって傷付くことが多いから、傷付いた時に相手に怒りがわかないのだと思う。だってこれは私の勝手、なのだ。
でもそれはそれで、相手に対してちょっと失礼だったよな。


諦めていたというか、大事に仕方がわからなかったというか、大事にしていいものだろうか、と思ってるものがたくさんある。
でもあの日、大事だったよな、と思った。だった、だし、大事なんだよな、今も。




生きてて、がっかりすることは多い。


生きてて、人が生きて、変わっていく、苦しいこともたくさんあるし最低なことも多いんだけど、人が生きて、そこにいて、それはすごく、優しいことだった。


どっかで勝手に生きててくれ、と思うけど、やっぱり会えたら嬉しいな。会えて、笑っている姿を見れるのは、本当に嬉しい。嬉しいと思う機会を、誰かからもらえるのだ、ということに今も泣き出しそうなくらい嬉しい。



私にとって大切なものは私が大事にしていればいいと思っていた。今も思っている。でも、そうじゃなくて、大切が自分のものだけではなくて、誰かにとってもそうなんだということ、しかもそれが、今に繋がってるんだということに、何度もあの日から驚いてる。



キリがない寂しいや許せないや苦しいを、なんとか面白がれないだろうか。そのものを茶化したいんじゃない。むしろ、それを茶化されることに毎度毎度、丁寧に傷付いてきたからそうじゃなくて。
人に対して、ああクソって思った倍、ああ生きててよかったって思いたい。目の前のこの人がここまで生きてくれたことを嬉しいって思いたい。
なんだよ、って毒づくたびに素敵だったことの話をしたい。誰かがこの世がどれくらいクソで最低で一分一秒でも早く終わった方が良いことを証明し続けるなら、その何万倍ものクオリティで面白い、楽しい、続いてほしいと願い続ける根拠の話がしたい。



こんなことをわざわざ言葉にする意味は、忘れていくし変わっていくからだ。ああ良かった!と思ったこんな大きな衝撃も、いつか時間を経て、変わってしまう、なくなったと思う日だってくるかもしれない。
だけど、こうして言葉にしておけば、読み返した時、ああそうなんだ、と物語を読むような感覚でも追体験できる。



大切は留まらせておけないけど、たくさん増やしていくことはできる。
花を降らせる、と思うことに似てる。
人間のそういうなんとか試行錯誤しようとする工夫が好きだ。
はー生きてて良かった、なんてライトにどんどん言っていこうや。


一過性疲労の対処療法

師匠から勧められた本を読んでない。勧められたのはたぶん去年末?今年の頭?で、もう既に6月も半分が過ぎようとしてるから少なくとも半年は過ぎている。


いつもこうだ。



何かを人から勧めてもらうのが下手くそすぎる。あと、その本についてはわりと仕事に関わる本なので、仕事を頑張りたい、というなら即読み終わればいいのに文体が読みにくいだの、ハードカーバー買ったら重いだの言い訳をして読んだいない。
そういうところだよな、と自分にうんざりしたりもする。



何かを努力する、ということが下手くそで、頑張ってフリばかりが一丁前で我ながらうんざりするな、と思うことが、最近、よくある。



20代前半はその絶望的な気持ちに飲まれまくっていた。素直にぶっ倒れ、無理やりお酒を飲んだりして周りに大層迷惑をかけた。
今でも、迷惑はかけているけど、飲まれなくなった。いや正確にはたぶん、飲まれることができなくなった。
だって寝不足だとか疲労だとか寒暖差だとかこないだの仕事のアレからくる絶望感だと理由付けできてしまって、それからそれがいかに一過性のものか知ってるのだ。



そしてそれは、つまり、一過性だからこそずっと失くならないとも知ってる。とんでもなく大きな絶望はもしかしたら癒えたり別の形になって大切なものになるのかもしれない。
だけど、一過性の、生活の中のがっかりはいつまでもずっと残る。風邪だとか慢性疲労だとかと一緒なんだと思う。致命傷にはならないけどじわじわ削ってはくるし、特効薬もない。
ただただ都度の対処療法でなんとかやっていったり、たまにヤケを起こすしかないのだ。
つーか、たまのヤケくらい許して欲しい。




今週のCreepy Nutsのラジオが最高だった。スペシャルウィークのゲストはAwichさん、と聞いた時から楽しみにしていた、そのわくわくが満たされるような2時間だった。
私は、Awichさんを姐さん、と呼んでいる。しかし、完全に今年に入ってから知った、にわかもにわかのファンだ。ファンと名乗るかも迷うけど、慕ってるか、という問いには大きく頷く。
ツーマンの生業、札幌公演。鬱屈を詰め込むだけ詰め込んで向かったそのライブで、中指を立て、自分の好きなことをすること、その責任を取ることの格好良さ、楽しさをきらきら輝くステージに立ってぶちかました姐さんの姿が、目に焼き付いてる。
格好良くて、どぎつくて、でもどこか優しい。
そういえば、彼女のラップの原点は2パックだという。私は、ハイローにハマり、HIPHOPに興味を持ち出した頃、2パックのことが何故か強烈に気になり、レイトショーで彼の映画を見たことがある。そして、それが今も心の奥底、じわじわ、残ってる。


それから数年、まさかのところで繋がって、ああなるほど、と大きく、頷いた。
言葉を使うひと、表現をするひと。それを貫いてくれるひと。私は、そんな人にいつも、元気をもらう。良かった、と思う。


ちょうど札幌公演の時に、もうなんか何かを言葉にしたらぎゃあぎゃあ言われるならもうやーめぴ、くらいのテンションだったので、余計に真っ直ぐストレートに姐さんの音楽が、言葉が刺さった。



そんな姐さんとCreepy Nutsのふたりが楽しそうに音楽の話やギャルの話をしてる。こんなに贅沢な時間があるか?


そして、ステージというものに焦がれてやまない私にとって「パフォーマンス」としての表現、の話は本当に嬉しくて楽しくて気が付けば何回も聴いてる。大事にしたい。


それから、同じくしおしおしながら聴いたOver the sun。私はこのラジオ(Podcast)を不意打ちで聴くのが好きだ。ルーティンに入れ込む期間もあるけど、どちらかといえば不定期不意打ち、いきなり、あ、今だと思い立って聴くのが好きだ。そんなわけで聴いた週末。テーマは、寂しい。
もうね、これについては聴いて欲しい。私の言葉を挟むのが野暮。野暮天すぎるから、本当に聞いて。いや別に興味なかったら聴かないで。
でもなんというか、ああだから好きなんだよな、と思った。私はこのPodcastをご近所さん、くらいに思ってる。めちゃくちゃ仲がいいわけでもない。古き良き時代みたいにお裾分けに行くわけでもない。でも、なんかよく見かける人たちですれ違い様、がんばれ、とお疲れ、を心の中で言えるようなそんな存在で、好きなのだ。




からの、SONGSだ。大泉さんに源さんと好きな人詰め合わせな16日の放送回。
多忙過ぎるふたりがじんわりトークしてる。それだけでなんというか回復力が高過ぎて逆に私にとっては攻撃になりかねないんじゃないか、とすら思ったその放送はとんでもなくやっぱり、最高だった。

面白いことをやる。

それは、ここ最近のトレンドなような気がする。だけど、その中にも色々あって「トレンドだから」「ウケるから」やる、だとか、やったほうがいいから、だとかと、「ウケるかは分からないけど自分にとって猛烈に面白いからやる」だ。
後者は、たまに刺さったり刺さらなかったりする。でも、私は、それがたまらなく好きだ。別に自分にとって面白い!とならなくてもいい。でも、なんか、ああこの人が面白いと思うんだな、良いと思うんだな、と思うとニコニコする。


この間のブログもそうなんだけど



なんか、疲れたなもうやだな、を、積み重ねて積み重ねて、落ち込むだけ落ち込んだら最近は好きなもの、面白いものの話をしたくなる。でも疲れてもいるから、疲れたって言いながら、「でもこんなに面白いものがあるんだよ!」とクダを巻いてる。




大きな絶望感ではない、一過性だから対処療法でやっていくのだ、と言いながらもこんな文を書いてる。結局大袈裟な何かにしたいんじゃないか、と自分に思うけど、自分の痛いや辛い、嬉しい、を自分くらい特別なものに思ってやりたくなる。出てくるものは平凡な凡庸なものかもしれない、よくあること、もっとすごいものはいくらでもあるのかもしれない。だけど、たったひとり、自分だけは認めてもいいはずじゃないか。しんどい中、せっかく頑張ってるご褒美に。



Creepy Nutsオールナイトニッポン | ニッポン放送 http://radiko.jp/share/?t=20220614010000&sid=LFR #radiko #cnann #Creepy Nuts #Rー指定 #DJ松永 #オールナイトニッポン



好きなもののことなど

好きなものの話をする。
大泉洋さんが好きなんだけど、洋さんが北海道で以前連載されていたエッセイで好きなものと嫌いなものの話を淡々とするのがあって、
私はあれがとても好きで、なので、好きなものの話をする。




お芝居が好きだ。
劇場で観るお芝居が好きだ。最寄り駅から道を確認しながらのんびり劇場に向かう時間が好きだ。グッズを買って、鞄にしまってメガネをかけて客席の会話をぼんやり聴きながら時間を待つのが好きだ。
前説で色んな工夫をしてくれる公演が好きだ。
別に、前説面白いことをしてほしいわけじゃない(し、たまに、その面白いこと、は疎外感を感じることもあってしんみり寂しくなることは実際ある)客入れの音楽を聴きながらお芝居の内容を想像するのが好きだ。
お芝居を見た後、好きだった台詞を忘れないように頭の中で呟くのも好きだ。なんなら家で声に出して見るのだって好きだ。
生身の人が、力一杯台詞を吐くのを観るのが好きだ。びりびりと身体が震えるその瞬間が好きだ。
生で見るお芝居は、観客の些細なリアクションで表情とか空気感が変わって大好きだ。


頭がぐちゃぐちゃになるストーリーが好きだ。ちょっと苦味がある笑いだって、ストレートな力技な笑いだって好きだ。
日替わりアドリブシーンはちょっと苦手だ、でも、それにも最高!ってなることはある。
できたらハッピーエンドが好きだ。手放しじゃなくても良いから、でもやっぱり、笑っていてくれる終わりが好きだ。



映像で観るお芝居だって好きだ。
がっつり観るのも良いし、巻き戻して好きなシーンばっかり観るのも好きだ。
生で観てたのに景色が全く変わる瞬間は、毎回わくわくする。
観るとはなしに、家の中で流れてるお芝居も好きだ。たぶん、私は時々、好きなお芝居のことを同居人みたいに思うことがある。


ライブが好きだ。拳を突き上げるのもフラッグ振るのもタオルを振るのも好きだ。
歓声に怯むことはまあ、正直あるけど、それでも嬉しそうにしてるファンの顔を見るのが好きだ。それにあがるアーティストの気配ににこにこするのもサイッコウに好きだ。
ダンスや音楽に乗っかるのも好きだ。
MVや、音楽番組では見れない演奏する人のそしてそれを聴くひとの嬉しそうな顔を見るのが好きだ。

音楽で気持ち良さそうに目を細めるアーティストを観るのが好きだ。
カーテンコールでさっきとは全然違うだけど満ち足りた顔を役者さんがしてくれる瞬間が好きだ。


映画が好きだ。映画館にふらりと出掛けて気になった予告を手帳にメモするのが好きだ。人が詰まってる映画館も片手で足りるくらいの映画館も好きだ。
没入しながら、ほんの少し違うことを考える瞬間が好きだ。日常生活の中に映画を招いたみたいな気持ちになる。
映画だから観られる景色、表情が好きだ。


ドラマが好きだ。全てがそうというわけではないけれど、でもほとんどのドラマがテレビを着けるだけで観られて、やっぱり私はそのフランクさが好きだ。近所に住んでる幼馴染みたいな気軽さの存在がいてくれることに安心する。
Twitterのタイムラインで同じドラマを観る人たちがああでもないこうでもないというのを眺めながら観るドラマも、ひとり向き合ってずぶずぶ沈んでいくように観るドラマも好きだ。



ラジオが好きだ。どんな時でも笑い声や話し声を聴いてたら楽しくなる。映像がない分、想像できるから好きだ。一緒じゃないのにひとりじゃないから好きだ。ひとりじゃないけど、一緒にいる必要もないから好きだ。



コーヒーやお酒が好きだ。何か飲み物が好きだ。そこに誰かの好きやこだわりが介在するから、そしてきっと自分がそこに完全に加わることがないと分かってるから好きだ。



誰かが好きなものの話をしているのを観るのが好きだ。布教されることは苦手だ。でも、誰かが嬉しそうなことは単純に嬉しいから好きだ。素敵なものがある、ということを確認できる気がするから好きだ。



文を書くのが好きだ。書けば書くほど、自分の自我が詰まり過ぎてる文にうんざりするくせに、それでも気が付いたら文を書きたくなってしまう。
でも、やっぱり、そうして恥ずかしくてメモアプリの奥底に仕舞い込んだ文を数年越しに見ると懐かしくて、懐かしいと思えることに嬉しくなるから、だから文を書くのが好きだ。時々、誰かに届いたりするのも、たまらなく嬉しくて好きだ。





この間、星野源さんがゲスト出演された夜会で好きなラブソングの歌詞をみんなで話していた。私はそれが本当に本当に好きだった。好きな理由、好きなものがてんでばらばらで、でも別にそれを茶化すわけでもほぼなくて、すげえ良かった。
その上、そうして「好きです」と言われたものを生み出した源さんがすごく真剣な顔をして聴いていたから好きだ。まるで聴き逃すまいとしてるようにも、こんなことを聞けるなんて、とでも言い出しそうなようにも見える、そんな表情で聴いていたことをあれから繰り返し繰り返し、思い出してる。
それからいつも、ああ好きなものがあって良かったな、と思う。そうやって、毎日、確認作業をしている。



好きなものは、ひとは、たぶん私にとって「まだこの世界を許せる」と頷くために必要な一つ一つなんだ。それはたぶん、結局私の場合、まだ私は私を許せる、と頷くことなんだろうな。

続・ラジオごっこの話、とMIU404の話


ラジオごっこを、9月からやってる。
という話はブログでも時々してきた。




源さんの「(リスナーのみんなも)ラジオやってみたらいいよ」という言葉を軽率に「そっか!」と受け止め、友達を巻き込み去年の秋から始めた。かと言って「ラジオ」にここ数年手を引かれなんとかやってきてる身としては、恐れ多くもラジオです!と名乗れず、気持ちばかりの"ごっこ"を付けることで遊びなので許してくださいね、という保険をかけながら、気が付けばもう結構な回数をやってる(そしてズボラなので正確な回数を覚えていない)



そして、今年に入ってから(途中別テーマを挟みつつ)自分にとって大切なMIU404というドラマをテーマに少しずつ観ては、そのたびに話をするラジオごっこをやってきた。
その毎話の感想回が昨日、一旦という形ではあるけれど完走した(まだまとめ回をやるつもりはあるけれど)




好きなものの色んな話、色んな人の色んな思いをこのラジオごっこをきっかけに聴くことができたのが本当に嬉しい。
あと、ラジオごっこで話してたから、と友人はじめ、色んな人が観てくれたりして、もう本当に飛び上がるくらい嬉しい。良い人過ぎんか?まじでここから当面美味しいものを食べ続けて欲しいし、出掛けるたびに良い天気に恵まれて欲しいし、夢見よく過ごして欲しい。



MIU404が好きだ。
昨日、久しぶりに9-11話を見て、しかもそれが初見のソラちゃんと一緒だったから、その上結構疲労が溜まってる状態だったので、気持ちが2020年に戻っている。
だから余計に思う。私はMIU404が好きだ。
MIU404は、私に「追いつく」ことを何度も何度も教えてくれた。
スイッチがMIU404には出てくる。ほんの少しの些細な、見逃してしまうようなきっかけで大きく人生が変わる。良くも悪くも。そのスイッチを人が押せるのか、押せたとして意味はあるのか。見る度に私はそのことを考える。物語どころか台詞も表情も何度も何度も観て覚えるどころか焼き付いてるはずなのに、それでも、毎度、考える。
考えて、考えるたびにドラマの話数が重なるたびに何度目か分からないくらい傷付いてガッカリして、そこからもう一度、間に合う、と思う。
間に合う、追いつく。スイッチを押すこと、それが本当に意味があるか分からないくらい些細であること、それよりも圧倒的に「諦めた方が早い」ことに何度も打ちのめされても、それでもプラスになることを祈って、ひとは生きて、スイッチを押そうとする。これが、プラスのスイッチになることを祈りながら生きていくしかない。




っていうことを、ずっとツイートでもブログでも話しているんだけど、今回、ラジオごっこでも毎話毎話、私はきっと、この話をしてきたと思う。
毎度、ではあるんだけど、私はそれを、何回も新鮮な気持ちで焦がれるみたいに口にしてて、なんかそれを、色んなひととできたことが嬉しかった。
直接相槌を打ってくれる、打って色んな考え、見え方を返してくれるソラちゃんはもちろん
数回前から始めたハッシュタグを使って、色んな聴いてくれるリスナーさんたちが見えてる景色を教えてくれたこと。
なんか、それが、本当に嬉しくて仕方なかった。



少し前、DJ松永さんが、ラジオを聴いてる時、まるでパーソナリティが自分のためだけに喋ってくれてるような自分の都合の良いように解釈ができた、という話をしていた。
話しながらそんなことを思い出していた。逆なんだけど、まるで、本当に聴いてるひとりひとりと喋ってるような気持ちになった。伝わったかも分からないのに、それでも、なんだか一緒に話を向き合ってできたような気がしたのだ。




なんでだろう、ということをラジオだ、と思えば話せる。それはたぶん、私のラジオへの感傷とソラちゃんへの信頼とリスナーのフォロワーさんたちへの甘え120%ではあるんだけど、それでも確かな体感として、ラジオなら話せる。し、届いてる気はする。それは、錯覚なのかもしれないけど。




喋ることというか、雑談が苦手で人付き合いが苦手で「伝わらない」ことに何度もギシギシ苦しんできたけど、
もしかしたら、伝わるのかもしれない。意味のないスイッチはたくさんあるどころか、最悪の事態に向かってしまうスイッチを押してしまったんじゃないかと不安になることも多い。
それでも、もしかしたら。
そう思えたことが、私はとんでもなく嬉しかった。まだ、めちゃくちゃ、噛み締めている。
こんな風に、面白いということ、好きなことを話せる場所があって良かった。そういう話を一緒にしてくれる友人がいてくれて良かった。話したいと思うくらい、面白いこと、好きなことがたくさんあって良かった。
もしかしたら、届くかもしれない。届いたのかもしれない。それを信じて、まだ私は頑張れるような、嬉しいことをしっかり確認しながら歩けるようなそんな気がしている。




本当にありがとうございました。
まるでこれが最終回っぽいけど、まだまだこれからも不定期的にラジオごっこをやっていくと思うので、もし機会があれば遊びにきてください。



(書き損ねてツイートしたけど、忘れたくないからブログにも追記しておく)
ラジオごっこでもブログでも解説はしたくもないし興味もないしできるとも思ってなくて、好きを言葉にし続ける方法で、なんとかやっていけたらいいな。強い言葉で何かを否定したり、忘れられもしない許せもしないことを飲み込んで変えれるくらい、楽しい話ができたらいいのになできるんじゃないかな。



MIU404の9-11話で考えたこと思ったことをひたすら話してるラジオごっこ、期間限定でspaceにてアーカイブ公開中です。