えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

カムカムエブリバディ 1963-1964

生きていると起こるとっておきの奇跡、あるいは受け取ることのできるとっておきのギフト。


なんだか今日の回はそんなことを考えてしまった。いや、なんならここ数回、毎度考えている。



1日15分の物語に気持ちがぐちゃぐちゃになるくらい持っていかれる。私は朝ドラが好きだ。
とはいえ、全て観ていたわけではなく、最近ようやく余裕ができて朝の15分を捻出できるようになり、なんとかカムカムエブリバディの安子編を途中から観出したくらいのライトなファンだ。
しかしそれでも、朝ドラが好きだと強く強く思う。
たったの15分。その時間で笑って泣いて怒ってやっぱり笑わせてくれる朝ドラが私は愛おしくて仕方ない。
朝ドラで泣いた、と話すと観ていないひとには驚かれたりもする。たった15分で?と目を丸くされるが、きっと1つでもシリーズで朝ドラを観たことがある人は分かってくれるんじゃないだろうか。



主人公やその周りの人たちの人生に併走する。



まるで、そんな気持ちに朝ドラを観ているとなるのだ。半年かけて人を描くせいだろうか。そのうえ、今回のカムカムエブリバディは親子三世代の物語なのだ。そりゃ、思い入れというか、彼女たちの人生へ肩入れしてしまっても仕方ないだろう。例え、安子編の途中からの参加であってもそれでも、私はどうしても彼女たちが愛おしくて幸せを祈らずにはいられないのだ。



さて、それで今回はるいについて書きたいんだ。
12月の末よりスタートしたるいの物語。衝撃的で未だにトラウマのようになっている安子との大きな痛みを伴う別れから、るいが笑うようになって、画面が明るくなる。
安子のことも大好きだからいつか、と彼女たちの和解を祈らずにはいられないけど、それはそれとして私は毎日彼女の幸せを祈り、愛おしくて優しい毎日に嬉しくて嬉しくて仕方ない気持ちになってる。



音楽や映画の描き方がたまらないというのも絶対にある。
多くの視聴者の心に刺さった「史上稀に観る駄作が誰かの心に残る忘れられない作品」になること、
そしてジョーの一番古い記憶があのクリスマスのライブで、その演奏を聴きながら「これから自分の歩く道は日向の道だ」と信じられたこと。
それはどこか、こうしてドラマに日々心を動かされる私たちの経験と重なる。私の中にある"大切"の記憶が大きく頷く。そういうことが、たしかにある。そう思う。


安子編の戦争の描写や(残念ながらここについては私はダイジェストでの視聴になったけど)戦後、彼女に降りかかった悲しい出来事の数々はすごくすごく苦しかった。だけど、私は何故か、安子は不幸だ、と言われるとしたらそれは違う、と返したくなっていた。
なんでか、ずっと分からなかった。なんならちゃんと戦争編やその前の幸せを観てなくて、その喪失感をきちんとは理解できてないからだとも思っていた。


だけど、なんとなく、今日の回を観て思う。
優しくて温かな家族、稔さんとの一か月、カムカムエブリバディを聴かせてくれたあの大阪の家族、るいとふたりラジオを聴いたこと、ロバートさん。そういう優しくてあたたかな景色が彼女にはある。

るいを見ていると思う。いったいどれくらい今までの人生で我慢したり気を遣って生きてきたんだろう。
ジョーを見ていても思う。トランペットしかなかった、と言う彼の人生の中で手を伸ばす発想すら浮かばなかった場面が何度あったんだろう。


だけど、彼女、彼を不幸だとは思わない。そう言いたくない。
「これがあるから大丈夫」なんて万能薬はなくても、生きていくための幸せはそこらじゅうにある。それを私は否定したくないのだ。



亡くしてついた傷も苦味もなくならない。代用品で埋まる穴もないし、埋める必要だってない。だけど、そこに、それでも変わらずに光っているものがあるんじゃないか。
もう二度と笑えないと思う瞬間があっても、思いがけずにいつかの傷や逆にいつかの大切なものが繋がって、形を変えたり大きくなって包んでくれることがある。


錠一郎とるいのやりとりで、私はこの2週間ずっと泣いて笑って嬉しくなってる。
自分では気付かなかった痛みに気づいてくれるひとがいる、それを晒して共有するんじゃなく、ただ一緒にいる、という優しさもある。
そしてそんな大切がそっと、思いがけず重なった今日、本当に神様は生きているととんでもない贈り物をくれるんだなあ、とべそべそに泣いた。



日向の道を、私たちは歩いている。
重ねた時間も紡いだ心の糸も、あなたを決して、離さないのだ。

雁字搦めのオタクのろくろ

年末年始に久しぶりにLDHのエンタメに触れた。
触れたと思った。
友人がたくさん気を遣ってくれながら(本当に申し訳ない)一緒にライブを観てくれたので「見ないかもなあ」と思っていたライブを観ることができた。久しぶりに"4時間"というランタイムに怯んでいたけど、楽しかった。

楽しかったし、何より自分の好きなEXILEや三代目のパフォーマンスでは「ああー、好きなんだよな」と思った。


私は完璧なオタクではない。



必死さが足りない、茶の間と言われればそれまでかもしれない。
自信があるものなんてないし、そのための努力を怠るなら、と思ってもいる。
そもそもありもしない完璧なオタクという定義にこだわる自分がいい加減馬鹿らしいしいつだってそんな自分の中のものを壊していけたらと思っているけどどうにもうまくいかない。いかないので、毎回毎回「自分はどうしたい?」と問い掛けながらやっていくしかない。


どのツラ下げて好きだっていうんだって思っちゃうともうだめなんすよ。
このブログ読み慣れてる方にはご存知だと思いますが。そう思ってしまうと何より自分にストレスがかかるので無理しない。開き直るのも体力がいるので体力がある時だけにする。
そうやってここ最近は調整していた、好きなものとの距離を。


これは全部、誰かの話ではなくて私の話で、別に「他人がどうあって欲しい」なんてどうでもよくてそんなもん私の中には1ミリもないのだ。自分の器が小さいので、そこまでの広い視野が持てないとも言う。
だから、炎上とかも道徳的に倫理的に価値観的にどうか、なんて判断できないし、する気にもあまりなれないし、メンバー全員の言動についてのジャッジもできる気もやりたい気持ちもない。どうでもいい、というと乱暴だけど思考のリソースをそこに割くと雁字搦めになるのだ。



でもそういうことしてると「みんな好き」というには座りが悪くて自分の中の矛盾にやってられなくなったので、自分にとっての推し、が好きだというようにしていた。
ギリギリまだ手を伸ばせる範囲だけ、ここまで、と手の長さを確認しながら変わっていない自分の中の「好き」を思ってきた。


先日7日、MUSIC BLOODにEXILEが出演した。ライブが止まった2月26日の話、またそこからの2年間の話。聴きながら、私にとってLDHとはライブでとるコミュニケーションだったんだ、と再認識した。
そして彼らがまたステージ上にいれている今が長く続くように祈ったし、早くそこにどんな人でも「行きたい」という気持ちさえあれば行ける日が来ればいいと思う。
もっとも、感染症があるなしに関わらず行きたい、だけでいけないのがライブだと思うし、そう思うとこれからもオンラインという方法は残ればいいな、と思うけど。
それでも、私にとってLDHはライブなのだ。
色んな自分の中の色眼鏡を吹き飛ばして「生身の人間の熱量」を浴びさせてくれる、あの空間が好きだ。理屈全部を吹き飛ばして彼らの信じるエンタメの形をすごく近くで感じられるあの場が好きだ。



そこにどんな方法でも行きたいと思えなくなった時、自分の好きへの根拠を失った。
とか言うと、行けていない誰かを同時に刺すことになりそうだけど、ちがうのだ。私の話なのだ。だって、ライブに行けない理由や、私を止める制限、なんて何もないんだ。
仕事も家族も止めていない。仕事の休みが重ならないなんて有給でもなんでも使えばどうにだってなる。でも、その「どうにだって」を目指さない自分を"私"が許せなかった。
許せないことにも疲れたので一旦、距離をとっていたかった。
自分の中の殴り合いに負けそうになる。そもそもそれ、どっちが勝っても負けるのも私なんだ。


あの、私、まだ2月26日のお帰り、を言ってないんです。そしてたぶん、もう一生言うことはないんです、だって彼らはもう帰ってきている。
だから次、私がライブに行くなら言えたとして「ただいま」なんです。
でもこれも全てだからなんだ、で、個人的な感傷でしかなくて、
そもそもそれが「私がやった選択」なんですよ。



ライブはやって欲しい。二年間絶望の中にいた板の上に生きるひとたちが観客と再会できたことが心底嬉しい。あの日、観れなかったひとがライブに行っていることが嬉しい。
エンタメは誰かの仕事で生活で、だから進むという彼らの、LDHの姿勢が嬉しい。



どれも本当に嬉しいのにその中に行こうとしない"他人事"感に自分で勝手に傷付いてるいるのかもしれない。



この時期にやる「行った/行かない」の話の何が嫌って誰かを傷付けるだけだってことだよ。でも、どうしてもたぶん、私はこの文章を今書いておくべきだと思って書いてる。

正直、去年何回も「ライブに行かないこと」の文を書いては消し、書いては消ししてきた。だってそんな文、誰かに届ける意味がない。
でもそうやって没ってきたから結局こんな雁字搦めになってんじゃないのか。



過去の自分の好きと形は変わったんだろう。全通したいとか、何一つ見逃したくないとか、そういう形じゃなくて、でも大事で好きなんじゃないのか。



好きになりたて、毎月のようにLDHの誰かのライブに行っていた頃。
ここにいたいと真っ直ぐに思えていた頃と形の変わった感情の名前をあの頃と同じ「好き」にしていいか迷っていた。


好きじゃなくなった、とか冷めた、とか「きっとそう」みたいな曖昧な感覚でこの気持ちを片付けられるわけがない。
ほかに好きなものができたんでしょ、なんて言われるけど、そうじゃないというか、ほかに好きなものができたから好きがなくなるのか?なくなる人もいるかもしれないけど、私はただ、宝物が増えたつもりなんだよ。それを誰かに宝箱を覗き込まれてこっちの方が大切なんだね、なんて言われる必要は一切、これっぽっちもないのだ。
生きてるんだよ。生きてるから変わるんだよ。変わるけど、あの頃一生懸命見ていた私も大好きで心動かしまくった私も今日の私の一部だし、



つーーーーーーーかさあ!!!!!!!!!!!!!!!!!
私は!!!!!!!!!!!!!!!
私の熱量方法で、好きなんだわ!!!!!!!!!!!!!!



誰に承認される必要もない。というか、私は私を承認しろ、する。そうだよ。

わかってるよ誰かと比べたらみっともない足りない形がズレたそれだろうよ知ってるよ。
ほとんど手を離してんじゃんと言われればそうかもしんないよ、だけどそれでも好きなんだって思うなら好きでいろよ。
それは別に全部、じゃなくていいし、矛盾してるとか、そりゃもう人間だし、生きてるから仕方ねえわ。


好きなものを好きな形で好きでいよう。
なんの話だと思うんだけど、なんか、私は私の感情に素直にいてえなって話だよ。



昨日、EXILEのチケットの当選の知らせがきた。毎日感染状況が悪化していく現実とその待ち侘びてた知らせにもう既にぐるぐるとどツボにハマりそうな気配がある。それでも、行きたい、と思った気持ちも、当選の文字を噛み締めた気持ちも今は大事にしたい。行くか行かないか、行けるか行けないかは、その時が来た時にしかどうせ判断はできない。
ただ今は、あそこで、私の好きなLDHと一番近くいれる場所で、自分の一番好きな彼らに出会うことができることを心の底から願ってる。



ライブに行く資格がある好きかどうかなんて、行った後の私が決めたらいい。



頼むよ、ライブに行かせてくれ。

私は星野源を見上げている

表情にびっくりした。
数えきれないほど観たライブ映像なのに、息を呑む。目を奪われた。
星野源さんのライブツアー『POP VIRUS』をNetflixで観た時のことである。


赤のパーカーにパンツ。素朴な格好をした源さんはドームのステージの真ん中。歌う、踊る。
照明に照らされたその表情がすごく、美しかった。


源さんに興味を持って衝動的に買ったのが、POP VIRUSで、一昨年からたびたび観てきた大好きなライブだ。
だけど、久しぶりに見たとき、その表情が初めて観たように感じた。


何かに初めて触れる瞬間って貴重だ。人生で一度きり。それは本当に、大切な瞬間だと思う。
だけど時々「出会い直し」が起こる。
記憶を無くしたわけでもなく、ただ、唐突に「今この出会い」は初めてだ、と感じることが私の生活の中には時々あるのだ。
まさしくこのPOP VIRUSもそうだった。
曲目もまさしく、ライブ2曲目の『POP VIRUS』。


星野源さんの音楽を奏でる姿が好きだ。気持ち良さそうで楽しそうで、世界で一番、面白いことをしているのだというその全身から伝わる感情が好きだ。
その瞬間観た時、ああひとってこんなに嬉しそうな顔をするのか、と思った。それは笑っていたとかじゃなくて「嬉しい」って言葉で形容すると、なんならズレてしまう気がする。
うん、そうだな、嬉しそう、じゃない。私が嬉しかったのだ。
生きてるひとの、しかも好きなひとが生きているという表情があんまり美しくて尊くて私は泣いた。
このひとが音楽を奏でているという現実を「私が」嬉しいと思ったのだ。


もしかしたら、初めてDVDで観た時よりも私自身が「星野源」への解像度が上がったからかもしれない。
ちょうど去年2021年は星野源さんにとって音楽の年にしよう、という年だったらしい。
だからたくさんの新曲と出会うこともできたし、その度インタビューやラジオ、バラエティで音楽についての彼の言葉を聴くことができた。
創造や不思議、Cubeと変わった音楽の作り方の話、そしてドームツアーの話。
それから、一度はドームツアーが終わった後、燃え尽き症候群のようになったこと。



ある時、ドームツアーで観た景色の美しさの話の際、最高の形で荷物を下ろしてしまえるような気持ちになった、と話していたのを覚えている。
手当たり次第、当時のメモをひっくり返したけど、ちゃんとその言葉を書き残していなかったし、どうしても私の主観が入ってしまうけど。


このライブツアーを久しぶりに見て思う。そりゃ、この景色はきっと、とんでもなく美しかっただろう。それこそ、荷物を下ろしてしまうほどに。

私が源さんの目に映った景色を本当に知ることはできないし、その気持ちになることはできない。
だけど、このツアーの最高の演奏、歌声を聴いているとまるで目の前にその景色が広がるそんな気がするのだ。


それはそんな源さんの言葉を知ったからかもしれない。何も知らずに見ていたあの頃の私とは違い、今の私はそれこそ「バイアス」がかかっているし、そんな私とこのライブツアーはある意味"はじめまして"の状態である。


私は源さんの言葉が好きだ。好きになってから何度もその言葉を繰り返し読み、ラジオで聴いた言葉をメモしてやっぱり繰り返し読んできた。覚えてしまうほど繰り返し読んだエッセイもある。
その中で、印象に残ってるものがある。
『よみがえる変態』の中の「『エピソード』」というエッセイである。
そのエッセイで源さんはこう書いていた。

本当は満足したい。「もう思い残すことはない」と一言いい残してかっこよく去っていきたい。だって、音楽をやる人なんて山ほどいるんだもん。


POP VIRUSで最高の景色を観た源さんは、「満足」したんだろうか。したのかもしれない。
これだけ素晴らしい楽曲をたくさん作り、ステージ上の最高のバンドメンバーと奏でて、ドームいっぱいのお客さんと音楽で橋を渡って、会えたんだとしたら。それは、この世でそう何度も起こるわけじゃない奇跡の一種だと思う。
音楽で遊び、橋をかける。そんな美しい奇跡を起こした彼が、ひとつ大きな山を登り景色を眺める、そんな幻を想像する。




それでも、彼は今も音楽を続けている。
私は、彼の演じたMIU404のキャラクター志摩一未で源さんに興味をもって、ちょうどその頃放送されたニューヨークライブで本格的に源さんの音楽を好きになった。
だから、もしもこのPOP VIRUSで「ああもう満足した」とステージを降りてしまっていたら、音楽を終わらせてしまっていたら、少なくとも音楽を奏でる同じ時を過ごす彼と出逢えなかったのだ。


ものづくり地獄の話をする源さんの話が好きだ。良い音楽が作りたい、まだこの世にない音楽を作りたい。そんな物凄く難しいことを続ける彼が好きだ。
きっと今もまだ音楽を作り続けるなか、ものづくり地獄に何度も何度も潜って、そうしてきっと源さんは素敵な音楽を届けてくれているのだと思う。



自分の気持ちを伝えるのが苦手で台詞で自分の気持ちを確認することができた。
音楽なら伝わるとギターをとった。
表現が前を進むために必要だった、とはっきり言った源さんの言葉をここ数日思い出していた。
そんな彼の音楽を聴いていると無性に嬉しくなる。それは、源さんがどうこうというよりかは私の話なんだ。


伝わらないことにべこべこに傷付く。誰かをまるっきり分かりきることはないのだと自分にうんざりする。
それでも、こうして、この瞬間、同じ場所にいたと思う。それは物理的な話じゃなくてなんか、そうじゃなくて、だけど、きっと大切などこかの話だ。
こういう場所がある、それが本当に嬉しい。



ああ楽しかった。そう呟いた源さんの姿を涙で目をしばしばしながら画面越し、見送った。




ああ全く、生きてるのは大変だ。
満足できるか分からなくて、もし奇跡的に満足できても「また」や「もっと」がやってくる。生きてる限り続く。
だけど、いま、それがこんなに嬉しい。本当に本当に嬉しい。


源さん、今日も歌い続けて音楽を奏で続けてくれて、ありがとうございます。
あなたを"推し"と呼べる今日が心の底から嬉しくて愛おしく思う。
毎日を迷わないために見上げる星のようなそんなあなたの生み出す音楽を私は愛している。


※この文章ははてなブログ特別お題「わたしの推し」をテーマに書きました。

私はいったい、何と闘っているのか


安田さんのお芝居が好きだ。



無類の不器用、と言われる彼は役でもそういう役を演じることが多い気がする。私はそんな役を演じる彼に出会うたび、なんとなく、安心する。
自分だって「うまくやっていけない」を自覚している私にとっては、安田さんの不器用なひと、のお芝居は私だけじゃないという思いと共に、だからまだもうちょっとやってみよう、という思いへと繋がる、そんな優しい指針なのである。



春男は、わりとよく脳内劇場を展開する。
抜けてるわけでもないし、冒頭のスーパーのシーンなどを観ればわりと仕事ができる方だとも思う。
しかし、彼の脳内妄想を考えるとひとりぐるぐる考え込む節があるし、器用!というわけでもないんだろう。
何をそんなに悩む必要があるのかというところで悩むし、言葉を飲み込む。自分が、と走り回って解決しようとしてくれる。いっそお節介すぎるようにすら思える彼は人が良くて、生きるのがほんの少し下手だ。
もちろん、そんな人の良さを周りの人たちひとたちは愛してくれてもいるし、不幸なわけじゃない。だけど時々、うまくいかない。
何と闘ってるのか、何にこんなに必死になってるのか。
そんな虚しさが襲うような描写を、しかしこの映画はコミカルに描くからぎりぎり辛くなりすぎずに観れる。


そう、そんなところが安田さんのお芝居の大好きなところなのだ。
コミカル。一生懸命やっているから面白い、というと言葉は少し悪いかもしれない。だけど、きっとそこに照れや恥ずかしさ、面白いだろうという色気があったらきっと面白さを私は感じなかった。
本人が驚くほど真剣で本気でやってるからこそ、ほんの少し生まれたズレが微笑ましく愛おしいし、面白いのだ。


さらにはこの映画にはたくさん食事のシーンが出てくる。
その中で度々繰り返される「それだけ食べれてりゃ大丈夫」という言葉が私は大好きだった。
ご飯を食べるということはそのまま生きることだし、美味しいは正義だ。食べて飲んで眠れれば、とりあえずは大丈夫なんだ。


『私はいったい、何と闘っているのか』はそのコミカルさの中にしんどさもある。
伊澤家は平凡で幸せな家だ。だけどその中にだって、ちょっと触りづらいじくじくした悲しさがあったりもする。
春男の働くスーパーも基本的にはみんな良い人で明るい職場だけど見えているそれだけが全てではない。



春男の脳内と一緒だ。表面でどれだけにこにこしていても頭の中でぐるぐると悩んでたり悲しんでたりはする。それは、見えたり、しないのだ。



大きな悲劇、日常、平凡、そのアンバランスさの中で、物語は進む。逆剥けみたいな居心地の悪い傷は小さいように見えるけど、その分治りが遅かったりする。それでも、毎日は進むのだ。
食べて叫び、妄想して一人相撲して生きてること、そんな春男の毎日は、私の目にはとても幸せに見えた。
羨ましい、と単に言いたいわけじゃない。
なんだかそれは、自分の目の前にある日常を愛せるような気持ちになる、そんな愛おしさだ。


観に行く前、いくつかのインタビュー記事を読んだ。その中で春男みたいな良い人はなかなか現実にはいない、という問い掛けに監督がそんなことはなくて、春男のような「ヒーロー」はむしろ、日常のなか、たくさんいるのだ、と答えていたのが印象に残っている。

今こうして、感想を書いていて思う。
そうかもしれない。
春男は、色んなところに、いるのかもしれない。
やることなすこと裏目にでたり、から回ってたり、でも一生懸命だったり優しかったり、少し情けなかったり。

「なんでこんなにうまくいかないかなあ」とボヤキながら、それでも美味しいものを食べてまだまだ、とつぶやく人は、確かに、いる。



それでも誠意を持って生きること、家族を大切にしていること。
なんでもない人生、なんて言われるかもしれないそれがどれくらい得難くてかけがえのないものかは、知っている。


この映画を観た2時間、そんなことをたっぷり考えて、まだやれると思った。だから、私も、いったい、何と闘っているのかと苦笑いしながら自分なりに頑張ろうと思う。

大丈夫倶楽部

ここ2日、カフェオレを淹れるのにハマってる。淹れる、と言っても適当な量のホットミルクを作って蜂蜜を入れ、インスタントコーヒーを適当に振りかけ、お湯を注ぐだけだ。
お手軽だし安上がり。
でもそれを作ってお気に入りのソファに体育座りしてずびずびしてると「お、いいぞ」と思う。


それはこの漫画の言うところの「大丈夫」の状態なんだと思う。


日々、大丈夫の研鑽に励む花田もね。そんな彼女が出会った「芦川」とともに「大丈夫の研鑽」をする日常を描いた『大丈夫倶楽部』という漫画がある。


マンガ5というサイトで掲載されているこのWEB漫画が期間限定で全話公開になっていたので一気読みした。


最初はなんとなく絵が好きだな、という気持ちだけだったのに、その漫画の中に溢れる「大丈夫」に気が付けばスクロールする指が止まらなくなった。


大丈夫、と思ったひとから出る「安定物質」。
日々の大丈夫、を研鑽していくもねたちは日常のなか、一つ一つに目を向ける。
例えば、炊き立てのご飯とか。
片付けは簡単なことから済ませる、とか。
コンビニのちょっと高いおにぎりとか。


そもそも、大丈夫、を探すのはこの大丈夫、がかなり曖昧というか、すぐにいなくなってしまうものだからだ。
たぶん、そんな人ばかりじゃないんだと思う。
しかし私は、もねの「大丈夫じゃない状態」という響きに首がもげるほど頷いてしまった。

誰かに助けを求めるほどじゃなかったりとか、大袈裟に騒ぐほどでもない程度の「不具合」。
なんかやだな、が積もりに積もり、自分のケアもしたくなくなって、誰かのことも考えたくなくなって、そんな自分に嫌気がさして、みたいな、それです。ザ・負のループ。止まらない大丈夫じゃない状態。


もねや、芦川さん、そしてそれ以外に出てくる登場人物たちはみな、大丈夫と大丈夫じゃない、を繰り返す。
繰り返しながら「大丈夫」を見つけてはうなずき、スタンプカード(大丈夫を発見したら押す)にスタンプを貯める。



何がこんなにささったか、と言われると難しい。
心癒されるハートフルストーリーというアオリ通り、たしかにそんな要素もあるんだけど、でも私にとって「癒しの漫画」と表現してしまうとズレるのだ。


この漫画にとって、大丈夫ともう一つ軸になる言葉がある。

「人知は未だ世界の内に在り」
「されば知るべし、学研するべし」

たぶん、私はこの言葉が大好きなのだ。
知ること、学ぶこと、考えることは世界の輪郭に触れることだ。
そしてこの言葉は同時に「分からないことがあること」を当然だと頷いてくれる。


分からない、は不安だ。知らないことは怖いことだし、理解できないことは時々、嫌悪に繋がる。
だけどそれをそういうものだ、と思いながらやっていけるのは、なんて素敵なことだろう。
そしてそういうものだ、は「大切なのは、分かろうと勉学に励む事をやめない事」と続く。


もねの「大丈夫」の研鑽は「大丈夫探し」はその知ろうとし続けること、なんじゃないか。
それをこんな風に柔らかく楽しげに描いてて、だから私はこんなに嬉しかったんだな。


実は冒頭のカフェオレはそんなに美味しいわけじゃない。めちゃくちゃ美味しい!ではないけど、なんとなく「まあこんなもんで」と笑える気楽さが好きなのだ。ちょっと手抜きの、だけど私の日常に必要な「大丈夫」が増えたことが嬉しい。


大丈夫倶楽部が、そんな私の日常の中の嬉しい、の瞬間に名前をくれた。知る事のきっかけをくれた。
ああすごく嬉しい。

見えない、分からない不安を一旦傍に寄せて、見つけた大丈夫、にスタンプを押して。そういう「やっていきかた」を私は今日また一つ見つけたのだ。

そう思うと、嬉しくてたまらないので心の中の大丈夫スタンプカードにひとつ、スタンプを押そうと思う。

EXILE TAKAHIRO ONLINE 〜X'mas 大イブ〜LIVE

敬浩さんはいつでも格好いい。
20年続くモンスターグループのフロントマン。
笑顔が素敵で歌だってどんどんうまくなっていって喋りもうまくて本当に、いつでも格好いい。
推しだからということもあるけど、正直敬浩さんを褒めるところはいくらでも出てくる。


こんな風に好きになるまでは「女の子が夢中になるのも分かるなあ」という"キラキラな芸能人"という各方面に偏見しかない思いを抱いていた。
それがまさかこんな風に彼の配信ライブを楽しみにするようになるとは、なんて思いはさすがにそろそろ抱かない。むしろ誇らしさすら持って、そりゃ私の推し素敵ですからね!と胸すら張りたくなる。この人のこと好きなんですよ、と堂々と宣言すらしたくなる。


追いかけ出して数年。ずいぶんたくさんの優しさと素敵な景色を見せてもらったんだなとライブを反芻しながら思っている。


12月8日。EXILE TAKAHIROさんの誕生日に生配信された「EXILE TAKAHIRO ONLINE 〜X'mas 大イブ〜LIVE」はそれ自体がとんでもなく素敵なクリスマスプレゼントだった。
誕生日の当人からこんなに素敵なプレゼントをもらっていいのか、戸惑うくらいに。



そのライブは小さなスタジオのような場所で敬浩さんや彼のファンクラブイベント「道の駅」でのおなじみのバンドメンバーたちだけが集って、音楽を演奏をしながら進んでいく。
とてもシンプルな進行で、彼の音楽とお喋り、それからプレゼントコーナーがただわいわいと楽しく進む。

それは敬浩さんもライブ中口にしたとおり、まんまホームパーティである。
クリスマスパーティー。にしては豪華な音楽を堪能しているんだけど、そこにあった気安さや大切にされている身近な感覚は気心知れた人だけで集まるホームパーティーそのものだった。
ゆるっと楽しい感覚で、私はその大イブライブを楽しんだ。季節に合わせたセトリや、軽快なおしゃべりをひたすらにこにこ楽しみながら、アーカイブ配信期間を過ごす。


道の駅の時みたいだな、と思っていた。
私はすぐに感傷的になるタイプなので、正直2019年、初めて道の駅の徳島公演を観るまでに「絶対に泣くだろうな」と思っていた。
道の駅への敬浩さんの思い、ファンの思いは知っているつもりだったし、歴は浅いながらに色んな人のブログやツイート、過去のインタビュー記事を読んで、この"道の駅"に至るまでの時間をほんの一部、覗いたりもしていた。
そんなわけで、私は絶対泣くだろうから泣くこと自体は回避できなくてもなんとか周りに迷惑かけるようなことはないようにイメトレにイメトレを重ねて向かったのだ。



しかし、そんな私の予想は大きく裏切られてなんだかずっとにこにこしたり笑ったりしていた。
ひたすら穏やかに嬉しくて、幸せだと思った。ああよかった、とただただ思っていて感極まって泣く、というよりまるであったかい適温の湯船に浸かるかのような、もしくは歩き慣れた道で日差しがぽかぽか気持ちいい中歩くようなそんな居心地の良さの中、時間を過ごした。


今回の大イブライブも気負いすることなく、しかしうきうきとずっと幸せだな、と思っていた。
ああ敬浩さんが笑ってるなあと噛み締めながらこちらまでニコニコ笑う。本当に、ホームパーティなのだ。
また、と道の駅で約束をくれた敬浩さんは、こうしてたしかに「また」をくれた。それは、毎日を生きていくなかで、「お、元気?」なんて手を挙げるような気安さでくれる幸せなのだ。


そんなことを振り返りながら思うとOn The Wayを思い出す。


私はずっとこの曲があの道の駅から大好きなんですが、「笑っていて、泣かないでいて」と祈るような歌詞が本当に好きなんだ。
ささやかで、でも心の底からの1番の願いだと思う。幸せでいてほしい、なんていう抽象的で大きな願いではなくて、ただただ、笑っていて欲しい、泣かないでいて欲しい。そうしながらいつかまた、あなたに会えると嬉しい。




最後のほうのMCで敬浩さんは、ここに立っていることの話をしていた。
あの時怖気付かず、夢のまた夢だ、と諦めずにいたから生まれた道。
その道を歩き続けてくれたからこうして私はこの幸せな時間を過ごすことができたのだ。
また、少し喉の調子が良くないことを口にした敬浩さんはEXILE TAKAHIRO、に他ならないんだけど、ああやっぱり、道の駅の敬浩さんだ、と思った。
喉の調子が良くない、ということが私は気にならないくらい楽しかった。それは敬浩さんが届けようとした音楽を受け取れることが嬉しかったからだし、実際、そうして手渡される音楽は最高だったからだ。



推しフィルターと言われてしまえばそれまでだけど。



でも、「コンディションが良い時の歌声」も好きだけど「どんな時でも楽しませるのだと自信を持っている歌声」も同じくらい、いやもしかしたら、それ以上に嬉しいし大好きだからかもしれない。
言葉にすると難しい。伝わるかな、分かんないな。
ひとりの人が自分の音楽を信じて、コンディションだけじゃなく技術やその時に合わせた調整を、周りの人たちと作り上げる中でして最高を届けてくれるということ、届けられるのだと信じていることが、私はたまらなく嬉しかったのかもしれない。そしてそれは、確かに最高を受け取ったという実感があるからこその感覚なのだ。




夢のように楽しい時間だったけど、夢物語というよりは日常の中もらった幸せだったような気がする。もちろん、それはもうとびっきりの。
なのでアーカイブ期間は終わってしまったけど、時折思い出しては楽しかったなあと呟いて、次の約束の再会の時を私は待っていようと思う。私も私なりに、毎日を過ごしながら。



道の駅の時のろくろはこちらです。

ハコヅメ 〜たたかう!交番女子〜

最高の「警察ドラマ」に出会った。
ハコヅメは、去年放送されたドラマの中で「気になっていたのに観れなかった」ドラマである。
フォロワーさんがすごく楽しんでるのを観て観ようと思っていたのに機を逃し、総集編で観ようとするも観れず、今回、年末年始のTVerの一挙配信で見ることができた。
TVerさん有難う…。正直一番お世話になってる配信サイトだと思う。これからも推します。



そして、年末から元旦にかけてひたすら夢中になって観てしまった。観れば見るほど、ハコヅメのみんなのことが大好きになり、彼女たちの幸せを願い、毎話毎話、Originary daysが流れるたびに号泣する。
号泣するんだけど、私は約1時間、結構声を上げて爆笑していた。



警察の物語であるハコヅメでは、働く彼女たちの心の声がダダ漏れである。
違反切符を切ったことに文句を言われれば悪態を吐き、点検訓練では笑いを堪え
そんなたくさん笑えるシーンが凄まじく良いテンポで繰り広げられる。
そんなシーンを観ていたら、好きになってしまうのだ、町山警察署のひとびとが。



ドジだけど一生懸命頑張るでもどこかズレてる川合も
格好良くて綺麗ででも理不尽なとこもあったりでも面倒見のいい藤先輩も
サボる才能に満ち溢れててでも実はめちゃくちゃみんなのことちゃんと見てるハコ長も



あげたらキリがないというか、ともかく「全員好き!」でこの人たちをずっと観ていたい、と思った。
張り込みしてたら山ぴょんともじゃぴょんのデートに遭遇するシーンなんてもう、声をあげて笑ってしまった。ひとりで。しかも結構な爆笑で。
そうして油断してけらけらと笑えば、真っ直ぐな彼女たちの想いにノックアウトされる。
その緩急。
かと思えば、のめり込み、息を呑んでいると笑わせてくる。情緒ジェットコースターどころではない。


川合と藤に始まる、そこにいる人の愛おしさ。
それは「ダダ漏れ」だったからかもしれない。
警察モノ、なんだけど、それは「憧れの職業」あるいは「正義の味方」ではなく、「単なる仕事」であり、彼女たちだって普通の市井の人なのだ、と気付かせてくれる。
それは、MIU404のときにも描かれていた視点な気がするし(すぐ好きドラマの話してごめんなさいね)そういうのが、なんか、良いよなあと思うのだ。



"仕事の話"がしにくい。
そんなことを時々考える。
単に愚痴るだけならまだ良いのかもしれないけど、仕事への熱意は口にしにくいご時世だし、もし仕事への熱意を口にすれば今度は愚痴が言いにくくなる。そんな気がする。
仕事、という生活の中の一部であるはずのそれがなんとなく過剰に悪いモノ、良いモノ、になってしまう気がしてなんとなく、私は時々扱い辛いのだ。
だったら雑に「働きたくないよねえ」なんて合わせたら話は早いのかもしれないけど、私は、そんなこともないのだ。
かと言って、仕事だけに私の人生を明け渡す気もないけど。


そんなことを考える私は、ハコヅメの彼女たちに「そうだよね」と勝手な共感をしていた。
仕事を誇る気持ちもある。だけど「聖職」と言われる息苦しさもある。
(私の仕事は聖職と言われることがある類のものではない。ないけど、印象だけで"この仕事をやってるやつはこういう奴"と言われることはあるので、どうしたって"イメージ"で語られる仕事に反応してしまう)


だけど、働いてるのは「しょうもない人間」で普通の人なのだ。
それを他ならぬ「警察ドラマ」で見れたことが嬉しい。
仕事に真摯ででも悪態も吐いて、そうしながら生きる彼女たちがこんなに愛おしかったことが本当に本当に嬉しい。



どうせ来るならクソ野郎。
それは藤先輩が違反切符を切ったあと、小声で呟いていた言葉だ。
私は最初「来る"のは"じゃないのか」と思った。聞き間違えかな、と確認したが、やっぱり「来るなら」と言っていた。
どういうことだろう、と考えながらドラマを9話全て観て、なんとなく思う。
そりゃ、来るなら、クソ野郎がいいな。
犯罪を犯したならクソ野郎だろうと言ってしまえばそうかもしれないけど、そんなつもりじゃなくて間違えてしまったひと、あるいは被害にあった人が来ることもある。
そんな胸が潰れそうになる現状と向き合いながら、ハコヅメの人たちは働いているのだ。
交通事故の回、川合の感覚が正常だと言い切った先輩たちは割り切りながらも傷付かないわけじゃないだろう。だからこそ、あんなに真剣に働いているのだ。



だとしたら、どうせ来るなら、クソ野郎であれ、と思う。



それこそ、刑事ドラマであるような爽快な逮捕劇なんてもしかしたら滅多にないのかもしれない。分かりやすい善悪も、勧善懲悪もない現実の世界で彼女たちは働いているんだから。



最後に藤と川合の話がしたい。
藤と川合の最強ペアを好きになればなるほど、時折入る不穏なナレに怯えていた。そんな日はくるな!と本気で思った。バディものには仲違いは鉄板というのはわかっているけど、心底嫌だった。

「川合は囮なんじゃないか」


そんな山田の言葉になぜか私が猛烈に腹が立った。
だって、ハコ長の言う通り、そんなふうには見えなかったのだ。全く、これっぽっちも。
そうして、そこから明かされる彼女たちの物語を見て思う。
スタートは代わり、だとして。利用していたとして。
それでも、一緒に過ごしていった時間は藤と川合の時間である。彼女たちだけの物語だ。
物語で「代わり」の話を見るたびに思う。
代わりを見つけても良いじゃないか。どうせ、代わりにはなれない。きっと新しい関係がそこに一つ生まれて、もしその相手を愛おしく思えたならそのひとの人生にまたひとつ、大切が増えるだけなのだ。
川合と藤の、そして藤とさくらの関係は紛れもなく愛なんだな、とmiletさんの曲を噛み締めながら思った。
ただこのひとが幸せでありますように、と願うそんな優しくてささやかな祈りを愛と呼ばずになんて呼ぶんだろう。


降り積もる時間の中で彼女たちの関係は変化していく。いや、変化はしていないかもしれない。たくさん色が加わっていく。
そしてそれは「何をしてても藤さんに教えてもらったことを思い出す」ということだ。
生きていくことのなかで起こるそんな優しい奇跡を噛み締めながら、笑って泣いて働く彼女たちを愛おしく思う。
願わくばまた、どこかで町山警察署のみんなに会えますように。



ああ、今年も面白いドラマにたくさん出逢えるんだろうな。めちゃくちゃ楽しみだ。
どうぞ今年もよろしくお願いします。


Ordinary days

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