えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Case

9月30日、20時から。
Creepy Nutsが生配信のライブをやるらしい。
私はそのニュースを観て嬉しくて興奮して、いやしかし幻覚だったのでは?と疑い、
どうやら本当にあるらしい、とわかって慌ててこのブログを書いている.


ライブは彼らの最新アルバムCaseの曲を全曲やるという。
しかも、セトリはそのアルバムの順番、そのままで。
飛び跳ねたくなった。なんなら、心の中では結構かなり、飛び跳ねている。
私はこの「Case」というアルバムが大好きだ。それは、一曲一曲の完成度の高さはもちろんのこと、何より、その曲順によって紡がれた彼らの物語が大好きだからだ。


世界をひっくり返す、とラジオで悪ふざけをするように、でも真剣に言う彼らに、本当に心から楽しみにしていた。



アルバムは初め、彼らのここ数年の快進撃をそのまま音楽にした曲たちで始まる。
とはいえ、私はど新規もど新規、ある程度知名度が広がった今年から好きになった。それでも、本格的に好きになる前から「なんかやばい音楽をやる人たちがいるらしい」ということは聞こえていた。
(自分の記憶を遡ると、コタキ兄弟と四苦八苦、の主題歌が彼らの『オトナ』に決まった時、おお、最近噂で聴くひとたちだ、気になってるんだよな、と思ったし、主題歌として聴きながらあーなるほど、と思った記憶がある)(まあその約1年後、オトナを聴きながら泣くような日が来るとはさすがに予想はしていなかった)


以前も彼らのことをブログに書いていたけど、


彼らはたびたび、ファン達、リスナーの間で"陰キャのヒーロー"と表現されることがある。



それまでの彼らの性格・人生、そしてHIPHOP、あるいは音楽業界での立ち位置。
そういうものを指して主役にはなれない「助演」だといい、オードリーの若林さんと南海キャンディーズの山里さんのユニットたりないふたりになぞらえ、自分たちのことを"たりない"と卑下する。
それでも卑屈なわけじゃなく、隙あらばかます、好きなことをする。そんな彼らの作風や振る舞いはたしかに、「陰キャのヒーロー」とも言えるかもしれない。


そんな彼らが、どんどんかましていく。お茶の間に出て、活躍のフィールドを広げる。名前が広がっていく。
多忙を極め出した彼らの姿を見て思う。ああそりゃヒーローだよなあ。
たりなかった、使えない奴らと揶揄された、主役の座につけなかった「彼ら」の快進撃。それを観て、同じようにうだつのあがらない日々を送る「陰キャ」の私はスカッとする。



「売れた彼ら」は今、体内時計が狂うほどの時間の中にいて、「only one」で戦ってる。
やすやすと色んなものを飛び越え、ど真ん中でかまし、スポットライトを浴びる。
その多忙過ぎるさまに心配になるとともに、変わらない彼ら、誰の上下にも立たず、そのままマイペースの極みな歩みで進む彼らを本当に格好いいと思う。


そんな感情は風来・のびしろと曲が進むとどこか柔らかな感覚に変わる。
のびしろは、コラボ曲以外ではかなり早く解禁された曲だったと記憶している。30になる節目、オトナという仮想敵にしていた相手に近づく自分への、でも清々しい感情、焦りではなく「まだ伸びしろしかないわ」と歌ってくれる頼もしさがすごく好きだ。
そして、風来なんですよ。
(アルバムの順番としては風来→のびしろの順)


NHKの金曜17時に放送されているニュースのテーマ曲でもあるこの曲を、私は張り詰めすぎて脳みそが限界を訴えているとかけたくなる。


特に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

「まだ繋がってたいけど姿はくらましたい」

「指を指し合うゲームに疲れた
見張り合うのに嫌気がさした」

「すぐ変わっていく価値観や立場
がんじがらめのらしさ正しさ」

もう気を抜くと、全ての歌詞を抜き出したくなるんだけど。
この曲を聴くと私の頭の中でCreepy Nutsは「陰キャのヒーロー」じゃなくなる。MC、DJとして、ではなく、同じように30年生きてきたひとりの人になる。
そして思うんだけど、陰キャのヒーロー、と押し付けてしまうのもある意味、物凄く怖くて酷いことなんじゃないか、とも思うのだ。
今だから、ということもあるけれど、「あるべき正しさ」とか「幸せでいることのハードルの高さ」で毎日息苦しい。
そのくせ、幸せではない、ということも許されず、何を選んでも指をさされかねないし、自分だって気を抜くと誰かを叩きのめす機会を狙ってしまってる気がする。



なんというか、そういうの全部、知るかバーーーーカ!と放り出したくなるというか。
この辺の感覚は、彼らのラジオが好きな感覚に近いのかもしれない。ただただ、頭を気持ちのいいところにおきながら過ごす時間。放課後の帰り道、お気に入りの穴場の公園で延々と好きな漫画の話をしていた感覚。スクールカーストだとか面倒なことを放り投げて、ただの自分、で話をできていた時間に戻る。



と、打ちながら思ったんだけど、これ風来の後に、のびしろが来て良かった。
風来聴くと私は疲れを正しく自覚するし、それをまあそりゃそうだよな、って思う。
でも、のびしろを聴くとその疲れまでもまるごと、愛せるような気がする。まあそんでもかましてやるけどな、と無責任に明日の自分のハードルを上げてしまえるような、期待できるようなそんな気がするのだ。


そこから曲はデジタルタトゥー、15才と、今まで「こけおろしてきたもの」やそれに伴ってやってきた自分の「暴力」について思いを寄せる。

このタイミングでデジタルタトゥー、という曲が出ることをどうしても感情的に考えてしまう。
この数ヶ月であった色んなことは、全く関係ないところからの引用でアレだけど、9月21日放送の星野源オールナイトニッポンでの言葉を借りれば「これからはもうしません」と思えることが大切だという教訓になった。
それはもちろんポジティブな変化でもあるんだけど、同時に、自分がそうしてきた……もうしません、と反省すべきことをしたことへ向き合う必要があると思う。


R-指定さんがこのデジタルタトゥーや15才について語る上で、MCバトルでのこと、そもそもラップが自分にとってどんなものだったかを話していた記事を繰り返し読んだ。


(特にお気に入りは8月に発売されたMUSICAだ)



ある意味で、その「間違い」を声高に間違ってた、おかしいと非難だけすることは見ないことと同じなんじゃないか。
このアルバムを作るにあたり、自傷行為にも近い向き合い方になったと話していたラジオでの話も含めて、つい考え込んでしまう。
間違いだと認めることは、たぶん、その存在そのものを否定することとは違うのだ。



それは続くBad OrangezやWho am Iでも思う。このブログではBad Orangezにスポットを当てながら考えたい。



ワルって格好いい。もちろん、人に迷惑をかけるのは大前提間違いないとして、でも結局「不良モノ」がなくならないのはそんな共通認識がある一定あるからだ。

「あの日のお前も怖くて強がっていただけなんて
今更言うのは勘弁いつまでだって憧れさしてくれ…」


ワルにもなれず、そんな人を冷やかしたり眉を顰めたり、でも結局憧れていた人間にとって「実は俺も」なんて言われるのは恐ろしいことだ。
お前は「俺とは違う」んだから今更そんな無責任なこと言わないでくれ、と思う感覚は私も知っている気がする。同じ人なんだ、と思えることが救いにも絶望にもなるし。

でも知ってた。
いつも哀しい目をしてたっけな…

そう続くあたりがBad orangezの優しさというか、柔らかさだと思う。
うまく行き出して、肩肘を張ってることを認めて、それでもまだまだと良い力の入れ方で奮起している彼らが自分のこれまでを認めながら、
自分とは"違う"ひとへ視線を送る。見つめる。


陰キャのヒーローという話にも少し重なるけれど、好きという気持ちや憎いという気持ちはどこまでも自己責任なのだ。
自分の考えも、気持ちも。

今までのアルバムと違い、今回は誰かを敵にしていない、という話があったけど、
結局、それぞれ、自分に向き合ってそれが時に自分を思い切り否定したり逃げたりしたくなったりするようなものであっても、続けていくしかない。



アルバムは、最後、土産話へとつながる。
これまでの彼らを振り返る、DJ松永への手紙のような歌詞は同時にまだまだ彼らの物語がエンドロールを迎えないことへの宣言にも思える。
そしてこのアルバムは紛れもなくCreepy Nutsという最高にイカす彼らの現在地を高らかに宣言するものでありながら、
今この瞬間を生きる全ての人に向けた賛歌なような気もするのだ。




そんな最高に格好いいアルバムを「曲順」に体験できる配信ライブがなんと無料であります。正気か、なぜ無料なのか。
4000字くらいかけて長々と書いてるけど、そんな野暮なことより、きっと直接食らっていただく方が分かりやすいのでよろしければぜひ。
9月30日木曜日、20時からです。

ヘイ磯野、パーティー組もうぜ

諸々あって、最近、なんとか世界を愛せないものかと考えていた。何をいきなりと言われそうだけど、わりと本気で、真剣に、この難題に取り組んでいた。
世界を愛して、自分の人生をなんとかこう、真っ当に、取り組めないものだろうか。


なんせこちとら、365日1年に日があれば、350日くらいうんざりしてるのだ。



でも、こうして世の中で「嫌なもの」が増えれば増えるほど、おっしゃじゃあやってやろうじゃん!と天邪鬼が顔を出す。
程よく環境が変わったり、推しが結婚したり、そういう「人生を考えるタイミング」がやってきた。


昔から「真っ当に人生を歩めない自分」に落ち込むことが多いので、このタイミングじゃないか?!と思った。


思ってそれじゃあ、と人生というものに取っ組み合うを挑み、
そして結果、わりと、惨敗に近い試合結果がやってきた。今、これ、大の字になりながら打ってる。
もちろん、概念の話だ。



価値観が違うこと、を面白がったり知りたくなった。



中学生の頃、今以上に捻くれ、常に毛が逆立ってる猫のような状態だった私の席の隣に、陸上をしてる女の子が座っていたことがある。そこそこにギャルで明るく、勉強は苦手で運動が得意な「私とは違う世界」の住人だった。
気が重いと思いながらその席でなるべく小さくなって過ごしていたある日、なんでか、その子と進路の話をすることになった。
きっと、適当な学校に行って適当にキャンパスライフを謳歌するんだろうな。そんな最低なことを考えながら、彼女にこれからの夢を聞いた。
予想に反して、彼女は楽しそうに「走りたい」と言った。陸上が好きで、だから陸上が強い学校に行く、走る。それが楽しみなんだと。



走ることが嫌いで、陽キャをどこか「自分と違う世界の生き物」と思っていた私にとって、彼女が話す世界は、知らない世界だった。目の前が大きく開けたような、「そんなところにも扉があったの?!」とびっくりするような気持ちになった。
なって、それから、



猛烈に私は恥ずかしかった。



勝手に線を引き、何もないと決め付けた彼女ともし仲良くなっていたら、どんなものが観れただろう。仲良くならなくても、切り捨てたそこに、切り捨てて良いものがあったのか。
本当に「くだらない」のはどっちなのか。



そんな恥ずかしさのことを、思い出す。


そんで、人生……出世とか自分が疎かにしてきた人付き合いとか恋愛とか結婚とかその他諸々、所謂ライフプランというものと、一旦この機会にちゃんと見つめて取っ組み合いをしようと思ったのだ。
どうせこのご時世、起こそうと思わない限り、イベントは起きないし。


手始めに、ちょっくら人付き合い関係をまとめて取り組もうと思った。


たびたび書いてるけど、恋愛も含めた人付き合いにずっと苦手意識と劣等感があるので、おっしゃここいらでいっちょ向き合うか、と思った。
それに、好きな人が世界に増えるっていうのは結構、かなり、幸せなことだ。
そう考えても、一石二鳥だ、と思った。



それで、とか言うと、「結局寂しいんでしょ(笑)」と言われるんですけど。というか、言われたんですけど。
まあ、言ってしまえばそうなってしまうかもしれないけど、
そうじゃないのだ、私の中では。




そうじゃない、そうじゃなくて、例えばケンタッキーのパックが安くなってたから買ってきたよとか気になるお茶だのお酒だのを一緒に広げたりだとか、
シャインマスカットを食べて「これが果物の王様か!」と感動したいのだ。

それはもちろん一人でだって楽しいことなんだけど、「誰かと一緒にってどうかな?」と思った。
それもやっぱりくだらないと一笑されたけど、でも、そうかな、くだらないかな。




きっと私が、コントが始まるの春斗や、家族募集しますの蒼介に共感したのだって、結局のところそこだ。誰かの人生の責任を取ろうとすること、誰かと幸せや嫌なことをシェアすること。
そういう柔らかさがくれる心強さのことは、なんとなく知ってる気がしている。



だとしたら、手を開いてみようと思った。思って行動した結果、わりとズタボロに「伝わらない」ことに凹み、何時間もああでもないこうでもないと考えてるんだけど。



理解し合えない、そもそも、例え誰かと手を繋いだとして私は私の寂しいを手渡すつもりも、解消する気もない。だってこれは、私の人生の中の面白みなんだ。

それでも丁寧に傷付いてるのは、結局、どこかで期待してた、ということなんだろうか。



恋人がいないから寂しいだとかそういう話じゃないのだ。というか、そんなもん出来ても解消しないものだって百も承知なのだ。
でもなんとか、日々生きていくしかないなら、楽しむ方法を模索して模索して、だとしたら好きなものを一つでも多く、好きな人を一人でも多く増やして大切にしていくしかない。


ただただ、自分が好きだと思ってる人たちが笑ってたらちょっとはこの世界をマシだと思えるような気がして、それをなんとか味わいたいだけだ。120%私のためにやってるのだ。
だってもう、最近何を見てもうんざりすることばっかなんだもん。



そう腹を括って足掻けば、それはそれで失敗する日々である。


「そんなことしなくても」と言われたし、私もさすがに「意味ねえなこれ」と気付き出した。まあでも意味がないって気付くのもやらずに理解するよりやってみて放り出す方がいいし、とぶつぶつ唱えながら納得させようとしてる。


そもそも、
恋人になってください、付き合ってください。そのどちらも私の体感の言葉とはズレる。
家族になってください、は近い感じはするけど、ちょっと違う。



そういえば、推しが結婚した時、動揺と衝動に任せて書いたろくろがあった。



その時の「ああでも私も負けないくらい幸せなんだよな」という感覚を、思い出した。
なんでだよ、痛いし辛いし理解し合えないしもうやだよとぐるぐる壁を睨んでる中、
色んな話をして、それでも放り出したくないんだよな、とか、
理解し合えなくても解ろうとしあえるんだよな、という"綺麗事"を確信しながら、思い出したんだ。


私が私に幸せだなお前、と言いたくなるのは、そうして、「どうしようもないこと」を一緒にああでもないこうでもないと話せたり、
それを忘れるくらい許せるくらいの「楽しい」を作れる相手がいることを実感した時なのだ。



うーん、そうか、なるほど。
わかった、言いたいことは、たぶんこれだ。
へい磯野、パーティー組もうぜ。



間違いなくそれがどんぴしゃな正解かは試してみないとわからないけど、幾分、自分の肌感覚にしっくりくる呪文を見つけたから、一旦これでやってみようと思う。
ついでに言えば、「理解し合えない」ことにまたガッカリしてはいるけれど、それでもあの猛烈な恥ずかしさを覚えるよりかはよっぽど幸せだとも思うから、手を閉じてしまうのも、もう少し先にする。


つまりは、まだもう少し人生と取っ組み合いを続ける予定だけど、それと平行してどんどんパーティーを組みながら、それでもひとりだと噛み締めながらこのどうしようもない状況を、私は楽しむ予定である。

お耳に合いましたら 〜9話

疲れて眠って朝一。せっかく休みなのに妙に仕事のことだとか忙しさにかまけて見ないフリした色んなことが視界にチラつく。溜まってたドラマを観ようとか気になってた映画が配信されてるとか、心躍る予定だって準備して、なんならお菓子も買った。


のに、じとりとした"嫌な感じ"が部屋の中、足元に充満しててどうにも気分展開できそうにない。


みたいな休日。ラジオがあるじゃん、と気付いたらなんとか指一本動かせてそのまま再生したタイムフリーでげらげら笑ってたら何にあんなにイライラしてたか忘れたりする。


そんなことを思い出したのが『お耳に合いましたら』だ。


チェーン店のご飯、略してチェン飯を愛する「美園」が「お耳に合いましたら」というPodcastを始める物語。
ちょうどラジオを好きになって約1年が経ち、じわじわPodcastにも手を出していた私にはどうにも唆られる(しかもご飯ものという大好きなジャンル!)テーマで、始まる前から楽しみにしていた。
そして、始まる前には予想していなかったような柔らかな幸せを、このドラマは私に届けてくれた。




毎話完結で進むので、気軽に観れるというのもあるけど、何よりともかく美園ちゃんの語りが最高に良い。
うまいとか下手とかではなく「ひたすらに好き」が声の端々に詰まってるのだ。
そもそも、彼女がこのPodcastを始める理由が「好きを口にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という不安からである。もう、この時点で、かなり好き。
物語に出てくる人たちはみんなちょっと変わってたりコミカルだったり、でも、優しい。
そして、どこかファンタジーに感じる。
ただその、御伽噺みたいな柔らかさがひたひたと沁み入るのだ。
気が付けば、その「お耳に合いましたら」の世界ごと好きになっていく。



そして、話数が進むごとに、その好きという気持ちが増してきた。



このドラマを作ってる人は、ラジオのことが大好きなんだと思う。それこそ、「好きを形にしないと自分の中でなかったことになってしまう」という勢いすら感じるような、そんなドラマだ。
まるでラジオを聴いてるような感覚になり、でもどこまでも「ドラマ」として成立させる。これは、いったい、なんなんだろう。


そもそも、ラジオってなんだろう。
本格的に「リスナー」と名乗れるほど聴きだしてからは1年くらいしか経っていないけれど、時々考える。



大好きな星野源さんやCreepy Nutsさん、そしてラジオに出演される色んな人が言うラジオだからこそ、というのをなんとなく、分かってきた気がする。
ラジオだから言えること、話せる話、伝わること。
そんなものに巡り合った時、私は心の中がぐるぐると熱くなる。


お耳に合いましたらはラジオの話なので、一番の見せ場は美園の「語り」である。
チェン飯を食べながら、色んな話、彼女が考えたこと、思ってること、チェン飯のおいしさ。そんなことをともかく矢継ぎ早に、楽しそうに話す。(またそのON AIR風景に様々なラジオ名物の人々が現れるのも最高の演出だ)
ストレートに動く彼女の表情や、好き、が嬉しい。楽しい。


そこに関わる人々の描き方とラジオとの共通点を描くのが本当に素敵だな、と思っていた。
そして、9話、とうとう、リスナーが描かれて、歓声をあげてしまった。


お耳に合いましたらを熱心に聴く西園寺さん。
その描き方が、本当に好きだ。
彼女がPodcastを聴き、それを直接話題にするわけではなく、でも、大切な誰かと話すこと。そのきっかけになること。
うまく言えないな。
あの時、西園寺さんは「お耳に合いましたら」に直接関係のある話はドミノピザ以外はしていない。でも、あの厨房の空気や柔らかさはラジオを聴いたからだと思う。そんな感覚を、私は知っている。
そして、最後、エンディングで美園ちゃんと会い手を振り合う姿に無性に泣けてしまった。
劇的に描くなら、作中、ファンです!と話させてもよかった。そうなるんだろうとなんなら思っていた。
だけど、そうじゃない。
メール職人じゃなくても、公開収録にいかなくても、パーソナリティと対面しなくても。
私たちは、パーソナリティとリスナーは何度だって会っているし、話してるんだ。



だって、ラジオってきっとそういうものだから。



日常の中で、ほつれていくものがある。
それを丁寧に手繰り寄せ、編み、もとの形に戻す。
それがラジオの優しさのような気がするし、この「お耳に合いましたら」の優しさだと思うのだ。

ああそれにしても、お耳に合いましたら、ずっと続いてくれないかな。それこそ、ラジオの長寿番組みたいに。
とはいえひとまずは、あと残り3話、精一杯楽しみたい。

楽園

楽園ってどこにあるんだろう。



※楽園のネタバレとともに、『怒り』のネタバレにも一部触れています。
また、ネットで検索して分かる程度の上映当時のコメント等についても触れていますが、配信で観たため、ズレなどがあるかもしれません。
ご了承ください。




分からない。分からない。ずっと考えてる。
考えてるけど、それは沸騰するような感覚というより(ブログを書くとき、そういう感覚に押されてのことも多い)むしろ、押されきれず、だからこそ悔しくてかもしれない。


2019年に上映された「楽園」がAmazon プライムに来たので、観た。


吉田修一さん原作の『犯罪小説集』から「青田Y字路」「万屋善次郎」を『怒り』を映画化した瀬々敬久監督が映画化した。

Y字路から起こった二つの事件からある男ふたりと少女を中心に重く苦しい物語が始まる。




綾野剛さん目当てで見てしまったこともあり、また佐藤浩一さんが演じた善次郎のことを掴みきれないままだったので、今回は綾野剛さんが演じた中村豪士を中心に感想というか、文を書きたいと思う。



中村豪士、生かされるだけの男、ふたりの少女に見つめられた時だけ生きた男。
彼を中心にしてあの作品を観るとそうしたことを後悔するくらいに苦しい。
特にラストシーン、本当に「勘弁してくれ」と思った。心底嫌だった。
嫌だった、言葉を選ばずに言えば。あれはたぶん、真っ直ぐ、嫌悪だったと思う。
もっと衝撃的なシーンは中盤にあるんだけど、それよりも紡が現在軸で観た「光景」……というよりも、その光景を見たこと、が本当に嫌だった。


で、なぜそんなに嫌なのか、を考えた。



まずあのラストシーンの捉え方は「犯人は中村豪士である」と考えるかどうかでも変わってくる。
まず、犯人だとしたら、という話で書いていきたい。


犯人だとして、では浮かぶのは何故殺したか、だ。いや正直何故、とかまじでどうでも良いと思うんだけど、でもこの作品で彼が殺した、という物語としたら当然「何故?」を考えたくなる。



人に疎まれ、いやむしろなんなら疎まれもせず、存在すらしなかった中村豪士。
綾野剛の他の作品での姿の記憶が霞むほど、豪士は気を抜くといなくなるような雰囲気がある。いや、儚いやいなくなるというよりは悲しいことにそもそも「そこに存在してない」気がするのだ。
演じた綾野剛さんの言葉を借りるなら「人は人に見つめられることで人になる」とすれば、だから、豪士の輪郭はあんなに曖昧なんだろう。誰も、彼を見ないから。


そしてその彼を"見てしまった"あいかちゃんを殺したとしたら。


そう考えながら思い出したのは『怒り』の「一杯の麦茶」だった。
怒りの中に出てくる凄惨な時間のきっかけは一杯の麦茶の善意からだった。
善意をひとに向けて悪意を返されること。それは理不尽といってしまえばそうなんだけど、でも、分かる、んだよなあ。
善意という一点がなければ、その周りに息苦しいくらい敷き詰められた絶望を知らずに済むし、手の届かない希望に焦がれる苦しみも知らずに済む。悪意だけならそれは悪意じゃない。世界がズレずに済む。
だとしたら、彼があいかちゃんを殺した、ということに納得もしたのだ。


ら、ですよ。
色々と調べると「豪士が殺した」というのはミスリードの見せ方なのではないか?という仮定が生まれた。
あの紡が観た光景は、後撮りで急遽追加されたシーンらしい。


では、豪士は殺していないとしたら、という話の前に「凄惨な物語」を観ることについて考えたい。
私はどちらかといえば、むごい話が得意ではない。テレビをつければいくらでもそんな話を見てしまうので、どうせならエンタメでは楽しい話が観たい。
でもそんなジャンルが人気があることもわかるし私も時々観たくなることがある。
例えばグロテスクさが好きとか、あの救いのなさが面白いとか、理由は人の数だけあるんだと思う。あとは、凄惨な物語を見ることによるセラピーもあるという話も聞いたことがある。
酷い話を見ることで「これよりはマシだ」と思うということらしい。
でもなんか、楽園の惨さとかってなんとなく、それとは違うというか、それには向かないような気がする。
凄惨さを見て溜飲を下げたり、あれよりマシだと思うようなカタルシスはそこにはないように思えて仕方ない。




全体的にそうなんだけど、私本当にこの映画に対してはどう話して良いか分からない、んだよな。
そこからどんな教訓、感想を抱けばいいかわからない。ただべとりとした疲労や嫌悪、だというのにほんの少しのなんかぽかりとしたとのがあって「いやこれなに?」と困惑しているのだ。


そうなんだよ、例えば、一杯の麦茶だとして、
「だったら善意も好意もいらない」と投げ捨てるには作中で描かれたそれが色鮮やかで困る。しかも、それはじゃあ縋るだけの力強さがあるかというと吹けば消えるような些細なそれだから、わからなくなってしまうのだ。


そういえば、あいかちゃんと紡に見つめられたその2回の瞬間だけ生きていたのかもしれないと言った剛さんが、その間の12年間を「何も変わらない」と言っていたな、と思い出す。


楽園のことを考える上でも、それを抜きにしてでも大好きな記事だ。




やってらんないな、と思ったのは。
もしも紡があの光景の幻を見たとして
そしてそれでもそれはあくまで幻で、やっぱり豪士は殺していないとしたら、
その幻の意味は紡のためにある。


自分のせいで、と背負い続けたあいかの失踪と豪士の死を「彼が殺した」と思うことで、下ろすことができるのだ。
それは確かに「あんたも他の奴らと一緒だよ」に他ならない。他ならないけど、でも、だって、生きているから「仕方ない」のだ。

楽園はない。
勘違いして擦りつけながら、人は生きていくのか。そうやって勝手に仮初の楽園を作って、人は生きるからにはそういう幻覚を見ていくしかないと嘯いて。



いやもうそんなん、やってらんねえよ。



ただ、映画というのはそもそもなんでも「教訓」を得るため、救い・もしくはスカッとするために存在してるわけではない。
(好みとしては、エンタメでくらい幸せが観たい、と思うけど)



ある意味でただぼんやりと「生かされているだけ」の人間が描かれ、救われず生き、死ぬということは「見つめる」行為なんだろうか。
"劇的な救済"なんてものもなく、ただ淡々と、透明人間にせず。
でもそんなのは、あまりにも、切ないじゃないか。

星野源のオールナイトニッポン リスナー大感謝パーティー

凄まじい夜だった。
星野源オールナイトニッポンリスナー大感謝パーティー
あまりにも楽しくてげらげら笑ったり泣いたりしながら過ごした3時間(!)が奇跡のようで、まだ頭が興奮している。睡眠時間は短くなってしまったはずなのに「楽しかった」という麻薬でちっともその疲れを感じない。
(だというのに、あの観ていた楽しい時間があまりにも奇跡的過ぎて薄れていってしまうのが惜しくて堪らないので覚えてる限りの感覚を使える言葉全部を使って書いていたいと思う)



企画が発表されてから、毎週知らされる企画内容に一体何が起こるんだろうとドキドキそわそわしていた。
それは源さんが何をするんだろうということはもちろんだけど、一体どんなイベントになるのか、というワクワクに他ならない。


星野源」が何かをするのではなく、「星野源オールナイトニッポン」が面白いことをする。


思えば、今回のイベントはそんなイベントだったように思う。し、何よりそもそも、「星野源オールナイトニッポン」はそんな番組だと思う。
私は、MIU404をきっかけに源さんを好きになりこのラジオを聴くようになったけど、きっと約1年、このラジオを聴き続けた理由は"星野源"が好きだから、だけではたぶんない。この番組が好きなのだ。寺坂さんをはじめ、スタッフの皆さんのことが好きで、リスナーのことが好きで、あの2時間が好きなのだ。
そして今回のイベントはそんなラジオそのものだったので、私はたまらなく嬉しかったのだ。


そう、ラジオそのもの。
今回、イベントが始まって早々、興奮したのはその点でもある。
始まって冒頭、前説で(いい意味で)気が抜けながら突如ハマったコンテンポラリー(風)のダンスにびっくりしてげらげら笑いながら不思議な感動を味わっていると、画面にはマイク前に座った源さんが映る。
そばにはパソコンを持ってスタンバイしてる寺坂さんもいる。そして野上さんをいじりつつ、爆笑して、みんなの声が少し入ったりする、その空気感はまんま火曜深夜1時なのだ。


7月に「彼女ができましたー!」のジングルが好きすぎて書いたブログでも書いていたけれど、


『そういえば、星野源オールナイトニッポンのCMで、深夜に友達の家に遊びに行くような感覚という表現があった。』

『そうなんだ、だからくだらない話でげらげら笑ったり時々真剣な話をしたり、その直後にまたふざけたり。それは、確かに深夜、友人と眠いねなんて言いながら過ごすあの感覚に似てる。』

日常の中の、妙に居心地がいい友達の部屋のような星野源オールナイトニッポンが好きだ。
そこには色んな面白い人がいて、口々に面白いことを話したりふざけたり、時に真剣な話をしたりする。


そしてその空気がまんま、イベントにはあった。


目を閉じればまんまいつものラジオだし、目を開けていてもああいつものラジオだ!と興奮した。

そしてかつ、映像がついたことでこんな表情で彼らはいつも届けてくれているのかと思う。だけど、私たちはそれを知っていたような気もする(それは編集後記やSNSで番組での様子を写真で見ることができるからというのももちろんあるだろうけど)
色んなスタッフさんの企画やリスナーから送られてきたもの、佐久間さんとの話に目を輝かせげらげら笑う星野さんを観て私たちも笑う。
笑ってひたすら楽しそうで楽しくて、そんな景色を観続けるのが、本当に嬉しかった。


だって"面白い"ことも"楽しい"ことも必需品なのだ。
星野ブロードウェイの「娯楽を失った星」での物語を描いた『娯楽の星』。創意工夫で切り抜け、なんでもない瞬間を面白がり、笑って、斬り抜けること。
こんなに星野源オールナイトニッポンに似合う物語があるだろうか。
特にここ最近はラジオを聴くたびに「ああよかった、まだ笑える」と思うことが増えた。2時間げらげら笑った後、私はいつもほっとする。色んなことが嫌になる瞬間を忘れられる2時間は娯楽、で不要だと切り捨てられてたまるか、と思う。必需品だ。

にしても本当に、星野ブロードウェイ、凄かった。見事なあてがき。それぞれのキャストだからこその設定、活かした台詞。
そして、源さんの"実況"。
熱量を増していく台詞と表情に、映像でこれを観れることの奇跡に感謝した。

なんという理不尽!
理不尽に抗うことが最後の我々の希望!!


叫ぶように、しかしはっきりと届けられた台詞がもう嬉しくてたまらなくて、朝からもっかいおかわりしてしまった。すごい脚本だし、すごいお芝居だった。
これがイベントの一部でしかないの、どういうことなの、だし、だからこそ星野源オールナイトニッポンだな、とも思う。余すところなく、全力なんだよな、全部。


そうして最後、番組内で作った『君と星』が流れる。
この企画の間、本当に我々、すごく愛されてるな、と思った。リスナーから歌詞を募集する、と発表があった時、源さんが言った「こういう時、誰が採用された、されなかった、みたいな気持ちにどうしてもなると思うけど、そうじゃなくて、みんなで作る、だから」という趣旨の話をされていた。
それを聞いたとき、なんて細やかな気遣いをされるんだろうと思った。ので、何一つ、不安でもなかった。一応、メールは送りはしたんだけど、でも採用されたい!というよりかは「送れた」という満足感があったのは、そんな気遣いのおかげだと思う。

そしてそんな気持ちは、昨日の放送で増した。
なんというか、本当に"みんなで作った"と思った。すごいな。
だって、どんな気遣いをしても「採用された/されなかった」は発生し得ると思うし、して良いと思うんだ。でも、「秘密作りたいなと思って」といい、送られてきた言葉で色んなひとがあげていた言葉を中心に歌詞を組み立てていく姿に本当に「みんな」で作ったと思わせてもらった。


ばらばらという歌を歌い、ひとはどこまでいっても独りだと言い続けた源さんの作り出す"みんな"はとんでもなく優しい形をしていた。
それは、"同じ"のみんなではない。
そこにある"ちがう"を一つ一つ掬い上げて作った別の"みんな"だからこそ、響いたんだと思う。



それは今回のイベントがオンラインの配信限定イベントであるということからも感じる。
今、有観客でのイベントへ賛否が再び(それは状況的にもどちらも仕方ないと思う)湧き上がっている。その賛否どちらであるかのスタンスについてはここでは書かない。というか、書けない。

しかし、今回のイベントが「誰も寂しくないように」観たいと思う人が可能な限りみんな観れる形式でやってくれたことが私はずっと嬉しかった。
みんなで同じように楽しめることが本当に本当に、嬉しかった。
それにきっとそれは、コロナだからというだけじゃないんだろう。思えば、今までのソロでのオンラインイベントの時でも、源さんは病院にいる人や小さな子どもがいるひと、コロナに関係なく外に出てイベントに行けない人のことを口にしていた。


みんなで楽しいって、本当、嬉しい。



そして、優しくて胸に迫るようなメロディにのせながら、いつかちゃんと発表するときは楽しくなるようなアレンジをする、と宣言する星野源に歓声をあげてしまった。
本当に、どこまでも「楽しい」に貪欲な人すぎる。
そんなところを、私はきっと好きになったんだ。



どんな時でも、楽しい、ということ。面白いはあるということ。
聴きながら、たまらなくなって、私はノートに色んな言葉を書き殴っていたんだけど、呆れるくらい繰り返し、楽しい、面白いと繰り返し書いていた。湧き上がるような気持ちだったし、その時もそして一晩明けた今も、まるで血液が急に巡り出したような感覚がある。


楽しいし、面白い。


そのことが、寿命を延ばすような生きていけると思わせてくれるような夜がある。
それをあの大好きな友達の部屋のような空間で私はまた、思い知ったのだ。



まだなんとアーカイブでこの凄まじく最高なイベントが見れます。

キネマの神様

はー生きるのが難しい。もはやここまでくると難しい!とライトに言って誤魔化したい。ちょうむじぃ。難関。はー大変。
テレビをつけようが街を歩こうが目を閉じようが「嫌なこと」が襲いかかってくるのはまあいいとして(何一つ良くないけど)それをまあでも乗り越えたらこれがあるから、という楽しみさえ遠いと、それはもう、まんま地獄というのではないだろうか。

はーたいへん!




ある男の物語を良いとも悪いとも言えず、困ったなあと苦笑いしていた。困った。面白かった!とも面白くなかった!とも言えない。いや、頑張ってどちらかに振り切ってその理由を書き連ねることはできるのかもしれないけど、なんだかそれはどんどんとズレていく行為なような気がしてならないのだ。

何より結局、思い出そうとすると笑ってる顔ばかり思い出すものだからなんというか結構、タチが悪いよな。


キネマの神様は、ある男の現在と過去が交錯する物語だ。
現在、男……ゴウはどうしようもない。アル中でギャンブル中毒だ。借金もある。結果、家族に迷惑をかける。
ざらりとした手触りの息苦しさがゴウの家族のもとにはあってその全てがゴウのせいではもちろんないけれど、まあ、でも結構な割合がゴウが原因である。
そんなゴウは、過去編では映画監督を志しながら撮影所で働く青年である。
良いやつなんだけどなんというかちょいちょいズルい片鱗はこの過去編でも随所に見える。なんかずるい。
何が一番ずるいって菅田将暉なんでそれはもうきらきらきて見えるんですよ。きらきらっていうか、いやきらきらなんだけど王子様!みたいなきらきらではなく、どちらかと言えば命そのものの輝きというか、なんかそんな感じ。
映画が好きで、面白い映画を撮りたくて、そんな姿が愛おしくて誰からも好かれる。


いやでもやっぱり、どっかずるい。


言葉を選ばずに言えば、なんとなくナルシストっていうか「自分に酔ってるのか?」と胸ぐら掴んでガクガクやりたくなる雰囲気があるし、
でもやっぱりそんな彼にひとは惹かれていくし、
はーーーーーーやってらんねえー!!!!!
って打ちながら気付いたんですけど、私花束みたいな恋をしたでも延々とやってらんねえー!って嫉妬のろくろを回していた。


正しくは菅田将暉に、ではなく坂元裕二作品に、なのでアレだけど、最近ちょっと自分のコンプレックスの塊っぷりに嫌気がさしちゃうな。はーちっちゃい。


ゴウの映画が好きなところも、それでもそこにしがみつききれなかったところも、
愛されるところも人が集まるところも
どうしようもなく好きで嫌いで愛おしい。


最近、フィクションでダメなひと、を見るたび、良いなあと思う。こういうひとがなんでもなく生きていける世界がいいよな。
あと、この映画の中でも描かれるけど、映画という限りなく現実ででも、どこかふわって飛んでいけるような世界がずっとあったらいいなと思う。もちろんそれを作ることはたまらなく苦しかったりしんどかったりするのかもしれないけど。
でも、逃げ込むように映画館に駆け込む姿にああわかるよ、と思ってしまったのだ。


結局、映画の最後に「お前それをやっちゃあおしまいだろ!」と盛大にズッコケ、おかげで良いも悪いも言えなくなってしまった。
とはいえ、それはそれとして、RADWIMPS feat 菅田将暉の「うたかた歌」はめちゃくちゃ良くて、やっぱりずりぃよーと叫んでしまった。


言葉で片付けられないような、ままならないこと全部含めて苦笑いするような、悪態つくような、でもそんなことを愛しちゃうようなどうしようもなさがあるな。


うたかた歌

うたかた歌

疲れと『夜』と詞の話

疲れている。疲労困憊を通り過ぎて頭の中でずっとカーニバルと喧嘩が繰り広げられてる気がする。その上、段取りが下手くそすぎてやることがいつまでたっても片付かずろくに寝れない。


休むということの大切さを叫ばれるように久しいけど、でも実際「やるべきこと」はたくさんある。それこそ、食事すらエネルギーや手間暇がいるし、寝るのだって体力がいる。
とどのつまりは休む、も体力やエネルギーがいるわけで、それって結構詰みじゃないのか。休んでいい、なんて状況、全方面が順調な時にしか成立し得ないボーナスステージ的なものだと思うんだけどどうだろう。



なんてことを延々と頭が考えている。考えなきゃいけないこと、リカバリーの方法、次の段取り。そういうもので頭がいっぱいになるとそれを考えたくない頭が皮肉屋を脳内に作り出し、延々と行儀の悪い、性格の悪いことを喚き散らしたり、かと思えば驚くようなポジティブ野郎がはしゃぎだしたりする。いずれにせよ、忙しくてしんどい時の頭には負荷が大き過ぎるので、落ち着いてくれと説得することになり、やっぱり体力を使う。



しかしたぶん、今、「元気120%、幸せいっぱい」という状況を維持することは私に限らずどんな人にもかなり難しいんじゃないか。私だけじゃなく、周りも、テレビやネットを通して見えるものもどこか苛立ったり悲しんだり疲れ切ったりしてる。もちろん、楽しいも面白いも変わらずにあるし、そんなものだってたくさん、見はするんだけど。
でもなんだか、「言ってはいけないこと」が増えていってるような気がする。それは、実際にだというのに言ってしまった、を見て思うのか、それとも飲み込んだ言葉や飲み込まれた気配を感じて思うのか、自分でも良くわからない。
ただなんとなく、頭の少し上、あるいは首のすぐしたぐるぐると溜まっていくなにかを見ているような気がするのだ。


増えていく嫌いなものへか、許せなくなった好きなものへか、
続けなきゃいけないいつもの日常と続けられない当たり前の齟齬からくる虚しさか。
なんか、そういうのがもうずーーーーっとあって、それがもうなんというか、しんどいよな。



そんな世界のイレギュラーに自分のごく個人的なイレギュラーもこれでもかというくらい重なり続け、
クラス替えをすれば毎年人見知りを発動して胃炎になり、
引越しのための内見をすれば新生活のプレッシャーに落ち込む私はもうなんというか、疲労困憊なわけです。
こんな意味のないような与太話をブログに書くくらいには。
でも、なんというか、忙しくてしんどくて訳分からなくなればなるほど呟きたくなる自分から察するに、たぶん言葉にすることで収まりを私はみつけたいんだろうな、と思う。



頑張りたいことも大事にしたいこともたくさんあるのに、もうやだって気持ちもずっとあって、それがしんどくて寂しいな。そういうことをぐるぐると限界を越えてにっちもさっちもいかなくなった頭で考えていた。
それでも数年生きてればこれが疲れによるものだとは気付いてるし、なるべく早く寝ようとApple Musicのライブラリの中からなるべく穏やかな曲が多いプレイリストを再生して、目を閉じた。



そんな中、星野源さんの「夜」を聴いた。
Yellow Dancerは持っているし何度か再生しているはずなのに、初めて聴いた気がした。



許せないこととか嫌なこととか不安なこととか、そういうのが溶けて、溶かしてもよくてその向こう側、それでもなくならなかった好きなものに困ったなあって笑いたくなる。そんな気持ちになったんだけど、言葉にすればするほど、聴いた瞬間、見えたものとズレちゃって困る。
見えた、って言っても具体的に心象風景として広がったわけじゃなくて、
どちらかといえば、「それを見た時の気持ちになった」が近い。見てないんだけど、見た、そんな気がする。





音楽に叶えようもない憧れを持っている。
音痴でリズム感のない私にとって、音楽は決して自分のものにならない"素敵なもの"だ。
そんな音楽のことを考えている時々、感情や意味の真空パックみたいだな、と思う。メロディにのった詞は、ただ言葉としてだけ触れた時よりも受け取りやすかったり違う響きになって、私の元にやってくる。
それが面白くてそして言葉をこうして書きたがる人間として羨ましくて、すごいなあと噛み締めたくなるような詞に出逢うたび、じっと言葉を追いかけてしまう。



もしかしたら、源さんの言葉を聴いたからというのもあるかもしれない。
最近、言葉にうんざりすると、私はその話を聴きにいく。

Apple Musicのショートラジオ(正しくはなんというのがいいんだろう、分からない)で、源さんが歌詞の話をした短いトークが大好きだ。


あと、星野源オールナイトニッポンに興味を出した頃聴いて大好きになった2020年の6月9日の放送の中での「選曲」の話も。



圧縮され、聴き手のもとに届いてそれぞれの花を咲かせ、実をつける音楽。
あるいは、誰かが選んだ曲を聴きながらそこにある気持ち」考えを想像すること。



言葉で直接「こう思う」と伝えてしまうことはシンプルだ。だけど、シンプルすぎて、伝わらなかったりすることが多い。言葉はだって、万能ではないんだ。


でもだからこそ、その「伝えること」や「言葉」は、すごく素敵に思えた。そうして受け取ってきた色んなものはひとつひとつ、宝物になっている気がする。
一方でそれは「誤訳」の可能性を大きく孕んでいる。
その人を通して自分の主義や主張、思いを代弁させかねないし、そこまでじゃなくても「自分の中のその人への理想像」を押し付けた「解釈」になって、いつのまにかそこにいたはずのその人を跡形もなく無くしてしまうことだってあるかもしれない。
でも、同時に物凄い明るく素敵なものの可能性も詰まっていて、だとして、それを信じたくなる。



どちらにせよ、私は「伝わりますように」と願った、そこにある気持ちが嬉しかったのかな。
そんなことを、夜を聴いて勝手に受け取ってしまったのかもしれない。なんだか、聴いてるとやけにオールナイトニッポンのことを考えてしまったので。
周波数を合わせて(radikoだから、この表現は正しくはないんだけど、ニュアンスや気持ちとして、だ)顔も見えない、声だけのその時間。どんな顔で話しているか聴いているか互いに想像しながら過ごすその時間は、対面で話す時とはまた違うやさしさが、あるようなそんな気がする。



妙に言葉に傷付いたり傷付けたりせず、ああそうだよなって、そんなことを、私は思い出していたいんだ。
そして、そういうことを見失わないように形や輪郭を確認しながら、言葉を使いたい。だって私は音楽を作りたい、と思うことは多分、ない。言葉をそのまま伝えることをしたい、と思うんだろう、きっと。伝え切れるか分からなくても。疲れて嫌になって言葉を振り回したくなる今だから、余計に、そう思えたことがすごく、嬉しかったので、ブログに書き残しておく。