えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

#つくのラジオごっこ(23.8.7更新)

#つくのラジオごっこ


メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。

ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。

どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。



またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。

AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。


また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。


ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。


よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


ひとりでの #つくのラジオごっこ

エピソード1 "ラジオ"の話

エピソード2 エンタメの話

エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話

番外編1 withセンパイ

エピソード4 THE TAKESの話


エピソード5 HIPHOPのライブを観て考えた話

#つくのラジオごっこ 日本語ラップ


日本語ラップって面白いな?!って話をソラちゃんに聴いてもらった回


#つくのラジオごっこ 雑談回


友達のしーくんとごった煮雑談をした回


#つくのラジオごっこ 畳屋のあけび


配信で観た畳屋のあけびが面白かった話をソラちゃんとした回


#つくのラジオごっこ アンサンブル・プレイ


2022年9月に発売されたCreepy Nutsさんのアンサンブル・プレイについての妄想を語る回


#つくのラジオごっこ 1周年だよやった〜!


なんとこの遊びを始めて1年が経ちました


エピソード6 伝わりますか?

今更ながらに伝わるって難しいな〜と思った話をひとりでしている


#つくのラジオごっこ 最近楽しかったこと


最近どう?何が楽しかった?の話をソラちゃんとする回



#つくのラジオごっこ(録音) 「好きに値する」ってなんだろう

色々あったので「好きに値する」ってことについて考え込むのにソラちゃんに付き合ってもらう回



#つくのラジオごっこ コチラハコブネ、オウトウセヨ


ポップンマッシュルームチキン野郎さんの22年12月公演「コチラハコブネ、オウトウセヨ」の感想をソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ FLOLIC A HOLIC


フロホリこと東京03さんとCreepy Nutsの公演についてソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ 好きなチャンネルが増える話

「推しを複数作ってリスクヘッジ!」は無茶言うなと思うけど好きなチャンネルが増えるのは楽しいという話


#つくのラジオごっこ ノンバーバルパフォーマンスギア


ソラちゃんと京都でロングラン公演されているノンバーバルパフォーマンスギアについて語りました。



#つくのラジオごっこ エブエブと映画を贈ることwithなっぱちゃん

友だちのなっぱちゃんと映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の感想を。それから、映画体験の話。


#つくのラジオごっこ 毛布みたいなエンタメ・カツ丼みたいなエンタメwithなっぱちゃん

なっぱちゃんと一緒に「救われたエンタメ」の話から毛布みたいなエンタメとカツ丼みたいなエンタメ、人が作ってることの話になりました



#つくのラジオごっこ あの頃のインターネットあるいは発信することされることwithづめこさん

前回エピソードでその人にとっての大切なエンタメの話を聴きたくなって2人目づめこさんに聴いてきました。インターネットやそこで出会ったあるいは運営していた個人サイトの話から何故かラップバトルの話まで?!

休むのだ

体調がそこそこにすこぶる悪く、朦朧としている。私が何をしたって言うんだい。
昨日の息苦しさはもしかして花粉じゃなかったのか、と思っても今更後の祭りだ。明け方、「うお、これはやばいぞ」と思いながら起き上がって「やばいなあ」と思いながら行く準備をした。
おはようございます、の声が笑ってしまうほどに掠れていて後輩からも「大丈夫ですか」と聞かれたし私も喋れば喋るほど自分に「大丈夫ですか」と思うけど、しかし、休むというのは難しいよな、と仕事のスケジュールを見ながら思う。うっかり今日休んだ時の帳尻合わせのスケジュールは考えるだに恐ろしい。

 

 


とはいえミーティング中にぼーっとしたりとか、あともしも、これが感染症のなんらかだった場合、ちょっと不安にはなる。
誰かの大切な予定を潰したりとか、健康上の問題を抱えてる人もいるかもしれないし。
ところがどっこい、咳き込み続けてるわけでもないし、なんならそもそも発熱がない。
喉の不調と、あとはうっすらとした倦怠感だけなのだ。無理をすればなんとかなるけど、その無理がしたくない。
なんてことをうだうだ考えながら過ごしていた。

 

 

 

これが他人なら「休め」って言うところを「休む」難しさって、ずっとある。なまじ、普段の身体が丈夫なこともあって「まあこれくらい」とも思ってる。ただ、友達にも言われたがたぶんそろそろその「まあこれくらい」が比喩でもなく命を奪うこともあり得る歳だ。だから、他人なら休めって言うんだろうし。
でも自分だと「いやちょっと心配されたいとか休みたいの感情でだるさを傘増しにしてるな」ってすけべ心が見えてしまったりすることを知っている。
そして、「休む」ことの手間とを無理をすることのリスクを考えて「無理をした方が諸々都合がいいな」と結論出すのだ。

 

 


そんなわけ、ないのにな。
ないけど、そうやって今日一日中しっくり間違えたやらかし分は、自分で取り返そう。ひとまず、今日はいつもより1時間多く寝る。

分からない

今日は年末年始ぶりに姪っ子と会っていた。手を繋ぐ場面が何度かあり、そのたびに乳児の手の熱さに驚く。し、この間まではよちよちと歩いていた子がはしゃぎ回ってぴょんぴょんとジャンプしようとするのを見ると「生きてるなあ」と思う。

なんだい、この間の12月には私や父に人見知りをして泣く寸前、身を捩って逃げようとしてたのに。そんなことをくすぐったく思う。父からこしょこしょされて笑いながらはしゃぐ姿は、「孫」過ぎて面白かった。

 

 

 

わからない、と思うことが結構ある。
父と久しぶりに食事をする時も「正解」がわからなくなるし、しみじみ、せっかくきてくれてるけど楽しいのか?そもそも、少し離れて生活した後だと「生活のリズムのズレ」が生まれて、会うたびにそれを確認することになるからしんとくないか?なんてことを思う。それでも父の反応から総合評価で考えるに、たぶん、会いたいと思っているらしいから時間を作っては「ほんとか?」と思う。

 

 


姪っ子と会っていたので当然、義兄とも会うのだけど、義兄もかなり正直わからない。
面白くない、と思ってしまうし、「おお、なんでそんな言葉選び、そんな話題選びをするかね」とびっくりする。不謹慎って別に随分歳の離れた人間の専売特許ってわけじゃないよな。
自身だってそこそこ不謹慎や強い言葉の笑いは好きなくせに「苦手」もあるのだな、とこの分野の幅広さを考えるタイプの現実逃避をすることにもなるし、こういう「社会」の人間が自分の属するコミュニティとエンカウントした不思議をしみじみ考えたりする。人生って、何が起こるかわからないものだね。

 

 


そして夜は、友達と飲みに行った。
友達とはほぼ夏ぶりで、夏に「ちょっと諸々の連絡を控えますね」と話をした相手だった。そんな相手に私が会いたくなって「もし嫌じゃなければ二人で飲みませんか」と誘ったのだ。
客観的に見たらこれは「私が」わからないだなあ、と思う。
というかなんなら、あの頃は、というかここ数年はずっと私は「分からない」の状態でそれで度々、人間関係の事故を起こしてきたな。
でも、しみじみ、私はこの友達が好きなのだ、と思って、好きなんだよなあということを確認したかったので、ツラの皮が厚すぎるけど会った。そしてそのツラの皮の厚さを詫びつつ、でも会いたかったのだ、と話をしたら「そういう風には思ってなかったですけどね」と言われた。これもまた、ある意味で「どんな風に見えているかは分からない」だ。
ともあれ、この、会ってなかった半年の話をしたり、各々の好きなものの話をして「またこういうことをしましょう」と約束をして帰った。
今日の日中は「どのツラ下げて」と思っていたけど、こういうことにもなるから、本当にわからない。

 

 


分からないことが苦手だ。それでも「わかる」という顔をしていないといけないと過度に思ってしまう。そうして頑張って頑張って、そしたら、疲れて、「全部無理だな」と思ってしまう。そんな自分がどうやって生きていくんだよと分からなくなって深めの自己嫌悪に落ちていたけど、こんな感じなのかもしれない。

 

 

 

姪っ子は、滅多に私の名前を呼ばない。呼ばないけど、今日おむつ替えで離れて私の姿が見えなくなった時に「つくは?つくはどこ?」と言っていたらしい。


君の中に、私はいるのか。全然そんなの、分からなかったよ。

 

 


分からないことばっかりだから、すぐに自信をなくしてしまう。だけど、それで引きこもるのってやっぱりなしなんだろうな。間違えるんだとしても。

料理をする

人に料理を振る舞うというのが根本的ににかてである。一緒に料理をするのは有難い友人たちのおかげでちょっとずつ慣れてきた。でもそれもいつも緊張する。緊張はするけど、嬉しくもある。
自分が作ったご飯を誰かに食べてもらえる、というのはかなり人間だと思うからだ。私は、食事をするのが好きすぎるから、というのも、大いにあるけれど。

 

 

 

料理をするのは大変だ。料理のクオリティ、それは味もそうだしセンスもある。片付けだってあるし、何より衛生基準が含まれてくる。私はわりとここってかなり大事な気がする。
自分はおかげさまでそこそこ料理を楽しむための舌は持っている気がするけど、ズボラなのでやっぱり、ところどころが怖い。え、もっと野菜を洗いなよ、と言われたらどうしよう、と思う。

 

 


なんなら料理のどこからを失敗と呼ぶかも結構個人差がありそうだ。人によったら生煮えの野菜なんてこの世の終わりかもしれない。私はあら歯ごたえがたくさんあっていいですね、と言ってしまいそうだ。
美味しいものをたくさん食べさせてもらって生きてきたわりにそのあたりの気配りを気付くセンスをおいてきてしまった。

 

 


ともかく、だ。
そんなわけで、今日は父が我が家にやってきた。いろんな案があったが「もう私が料理するから家で食べよう」となり、鍋を作る。料理というほどのものでもないものを作った。
それでも、緊張する。
ただ、料理をしながら、「ああ、彼なら確か水のまま材料を入れていいって言ってたっけ」と購読してるnoteを思い出して素知らぬ顔で材料たちを並べた。そうすると、安心して、落ち着いた気持ちで料理ができる。くつくつと鍋が湧き出したして不安になったら火を止めて調整する…いざという時は火を止めていいといつか、言っていたので。

出す直前「ああやだ、逃げたい」と思った。別段ダメ出しをしてくるわけでもないけど、料理に一過言ある父だ。面倒臭いとはどうしても過ってしまう。それでも「これでいいのだ」という気持ちで作った料理はどこか誇らしい。

 

 


それを「美味しい」と言われて大いに頷く。別段自分の手柄だけでないそれが、だからこそ嬉しい。

話し方

なんの話をしたらいいんだろう。ずっと「だって伝わらない」と思ってる。さて困った。
とりあえず、家に帰りながらこれはもう「ガツンとしたものを食べよう」と思ってインスタントのまぜそばを食べる。ダイエットキャンセルだな、と思うし今日もしっかり残業したから「こんな時間に食べるものじゃない」の極みだ。
だけど濃い味付けににんにく、アルコールに脂質は心地よくて困ったもんだよなあと思いつつ噛み締めた。そのくせ美味しいから、本当に困るよ。

 

 


いっそ言いたいことを全部書こうか、とも思った。
ここ数日インターネットを見るたびに飲み込んだ反論に始まり、いつかの時に言えなかった一言だとか「ぎゃふん」に繋がる言葉たちが「出番らしい」と胸の真ん中、良い位置を陣取っていてそれが良くない。
会話への期待をしすぎだ、と冷静な私が言う。
ひとはそんなに会話の中から新しい何かを見つけることはできない。

 

 

 

だとて、伝わらないにしろ殴られっぱなしはなしだろうとイキリたった言葉たちが言う。それを思想と思考がヤジを飛ばして盛り立てる。聞くだけで終わってどうする。たとえ、お前一人が悟った顔をして「終わらせる」ことを背負わされるひとたち。そうじゃなくて言い返してやったらいいのだと元気いっぱいに頭の中で主張がぐるぐるするものだから今日一日中、考えていた。

 

 

 


それこそ例えばTwitterで書くにはリスキーなことかもしれない。だけど、ブログになら、良いんじゃないか。ここまで読みに来てくれる人なら伝わるんじゃないか。そんなことを考えて「いやそれでも悪意をもって拡散することもできるし、意図しない伝わり方をして誰かを傷つけることだって十分にあり得るのだ。

 

 

 

というところまで書いて、寝ていた。
ここ最近、夢見がずっと悪い。仕事をしていたり、悩んでいることを確認するような夢ばかりだ。
今日の夢もそんな夢が大半で頭のどこか「ああ、これは疲れるぞ」と思っていた。ら、場面が変わって好きな人たちの本を野良で売り出す夢に変わっていた。本を掲げて「これはこんなに面白いんだ」「こんな人に読んで欲しいんだ」と大きな声を出していた。
いつの間にか著者のふたりが来ていて、なんだか少し、話したりもした。うっかり途中の箇所を忘れてしまってわたわたしてたら「忘れてるじゃん!」とツッコミを入れられたり「いやでも、本当に大好きで大切なんですよ」と話したりしていた。そしてその「大好きで大切」はちゃんと相手に伝わっていそうで、それがすごく嬉しくてまた更に大きな声で、「本当にこれは、良い本なんです!」と叫んだ。

 

 

 

起きていま、思う。こうが良い。

 


それは「だから好きや楽しい、美味しいの話だけをする」ではない。政治や目を背けたい話だってしないとダメだとも思う。
だけど私は、こういう話し方が良い。伝わるように、傷付けないように。好きだという、その気持ち100%で。

意外に続く

どうにもこうにも、具合が悪い。
昼過ぎくらいからうっすらと気付いていた不調は、結局、夜までずるずると続いてしまった。
寝る前、いま、布団の中で「どうすんだい」と思っている。
どうすんだい、こんなに寂しくて途方に暮れたような心持ちを抱えたまま、果たして私は当たり前に毎日を過ごせるんだろうか。
そんな気持ちをぐるぐると抱えている。

 

 

 

夢見はなんだかずっと悪く、それでもまだ昨日日中が楽しかったので「まあまあまあ」と自分を宥めることが出来た。なにより、久しぶりにめざましをかけずに寝て、例え何度も起きてしまったとしても「起きなくても良い」と思いながら布団の中で過ごせたことはかなり嬉しかった。


荒れ放題の部屋を少しずつ片付ける。
返せてなかった連絡を返す。
それから、手帳の整理をした。

 

 


年末年始にセットアップしたはずの手帳がバラバラと外れてしまい、じゃあと、京都文フリの後に買った手帳はまだ空のまま放置されていた。
それを少しずつ「自分の手帳」へと変えていく。

 

 


そもそもが今年から「新しい手帳の書き方」に変えようとしたせいでなんとなくうまく足並みを揃えられていないのだと思う。
それでも「こういう手帳の書き方」を試してみたいし、ノートの使い勝手も大いに影響しそうだから、予定していたメモを書き込んで1月のページにチケットの半券やメモを貼っていく。嬉しかった予定を1月のページに書き加える。

 

 


書きながら「文字を書きたいな」と思った。
何が嫌なのか、嬉しいのか、何をしたいのか。
最初はブログでここ数週間書こうとしてたことをまとめていたけど、しっくり来ずに、ペンに持ち替えてから「ああこれだったか」と思う。
「あああなたか」とは、ほとんど、確認しないのだ。書こうとしていた言葉を潜って手を引いて表に出すのはいつだって自分次第で、書かれないならなくなって、それでも「書く」と決めるのはもっともっと、自分の責任の要素である。

 

 


考えてみればそうだよなあとつらつら思いながら紙の手帳に思いつくまま書いてみた。書いて、そうしたら「あ、あっちの手帳にもこのメモをしておこう」「これも書いておこう」と思う。

 


伝わらないし、もういいやと思っていたけど、ペンの走りは止まらない。そう思いたいだけだよ、そう思いたいだけだけど「そう思う」ことにちょっとは価値はあるはずでしょ。

一滴の水

あ、落ち込んでいたのか、と映画館から出て友達との約束に向かいながら気付いた。久しぶりに好きなロックバンドの曲を聴こうと思ったことも、そこそこ予定を詰め込んでいたのに朝イチの映画に行こうと思ったのもそう。そして今日の友達との予定が希望だったのもたぶん全部そう。
「話したら伝わる」なんてことは幻想だし、そんなこと今更無邪気に信じませんよ、とも思っている。思っているけど、でも「信じたいのだ」とも、心の底から思っているし、信じている「あなた」がいてくれますように、と祈ってる。

 

 

今日、ツーリストファミリーという映画を観た。
スリランカから密入国したとある家族を巡るインド映画で、公式サイトには

 

スリランカでの困窮を極める生活に見切りをつけて、命がけでインドに密入国した一家が巻き起こす善意の連鎖を笑いと涙で描く本作。

 

と描かれている。たぶん、なんとなくの大筋は分かると思う。分かると思うけど、映画として物語に触れてほしいと思うくらいにささやかで「人間」で「語らい」を描いている。あまりにも大好きな映画だった。

私はその映画で想像してなかったくらいに泣いたし、そしてめちゃくちゃに笑った。コミカルに茶目っけたっぷりに、人間への愛情をこれでもかと描いてくれたと思う。

 

 

 


そうして、昼からは友達とお茶をして、夜、鳥貴族に飲みに行った。私はこの日を約束していた日から本当に楽しみにしていたのだ。
友達とは初めて会った日にもあれもこれもと話すうちに興味関心がどんどん繋がって「じゃあこれは?」「あれは?」と生活の話や好きなものの話をたくさんしてきた。
普段メッセージでやりとりしている「これが良かった」や「これを観てこんなことを考えた」の話を対面で話していくと思いもしない言葉が見つかったり聴けたりする。そういう時、以前「ハチミツとクローバー」や「3月のライオン」で出てきた無限に広がる箱のことを思い出す。
「あれを開けたら何が見れるんだろう」とワクワクしてしまうそれは、きっと人生のびっくり箱なのだ。

 

 


話し上手で聞き上手な友達は色んな話を聴いてくれるから私もついつい色んな話をする。昔のこと、今のこと、どうしても飲み込めずにまだここにあること。
ふと、「嫌じゃないかな」と過ったこともあった。話すことは楽しい。楽しいけど、それが、暴力や重みになることはある。一方的な自己開示ってやっぱりそれは「コミュニケーション」ではないと思うし。

 

 

 

だけど友達が丁寧にそうして聴いてくれた内容を「こういうことですか」と開いて見せてくれる様子に「嫌じゃないかな」は違うよな、と思う。もちろん、楽しんでほしいし、気遣いは忘れたくない。私ももっと聞き上手になれたら良いのにとは反省もする。だけどこんな風に受け止めてくれる友達に思うことは「ありがとう」で良いはずだ。

 

 


うまく話せない、と思う。話しているのに、話せば話すほど遠くにいってしまうこともある。
毎日流れてくる誰かを責める言葉や、日常生活のなかに紛れ込んだ悪意に怯むこともある。自分だって、持ってるくせに。
「自分と違う」ことを排除したいと思う感情とその身近さに、私は心底、嫌になっていた気がする。

 

 


映画のなかで、主人公家族たちは話をし続ける。言葉が違うこと、国が違うことがバレたら酷い目に遭うと忠告されたのに、人と関わり話をする。手を差し伸べたりもする。
その光景が、なんであんなに泣けたのか、分かるけど言葉にすると野暮ったくなりそうで、ぐるぐると考え込んでいた。
その気持ちのまま「こういう映画を観てきて」と話した私に友達がいくつか話した後に言っていた「少し知るだけで変わるんですよね」という言葉をひたすら、大切に手の中で確認している。

 

 


知る、は話すことだし出掛けることだし出会うことだし、そして考え続けることだ。それを思い出せて良かった、諦めきってしまう前にちゃんと、私はそれを知れたのだ。

作っちゃえばいい

ああ、聴けて良かった、と思った。どんどん聴いてしまいたい気持ちと「まだもう少し」聞き続けていたくて終わってほしくなくて、ゆっくり聴いてしまった。それでも、終わってしまって、その中で聴いた言葉を噛み締めて「ああよかった」なんて思っている。

 

 


 

 


オードリーの若林さんがゲストの今回の回。元々は収録放送の予定が、体調不良により急遽生放送に変わった。これ、言葉だけ聞いたら逆では?と思いそうだな。合ってます。でも本当に、生放送でこの会話が生まれたの嬉しい。タイムフリーリスナーでありながらも、そんな風に思う。
佐久間さんがいる夜は、時々こういうことが起こるな。

 

 

 

お笑いのこと、客観視や冷笑のこと、それから今度出る本のこと。
そういう分からないけど、分かる話を聴きながら嬉しくなって過ごす夜が好きだ。私は時々反省が必要になるくらいに言葉に頼って生きている。

 

 

 

昨日は、友達とガストで飲んだ(なので平然と翌朝に日記をあげているのだ)
人気のもつ鍋が食べたくて誘ってきてくれた友達たちとあーだこーだ言いながらもつ鍋を食べた。会話は多くは溶けて消える。覚えていることもあるし、薄まったこともある。
でも、楽しかったな、と思うし、それはその時間そのもののことだけじゃなくて「ガストのもつ鍋が食べたい」と誘う相手のいることの嬉しさからきている気もする。

 

 


その中で友達が「文を少し書いた」というものだから私ももう一人の友達も「本だそう」と熱弁してしまった。いやでも、常に思う、本を出す、じゃなくてもいい。文を書くという選択肢が生まれたなら「書こう」と思い切り背中を押したくなる。友達曰く、私は「役者やろう」という時もそういう目をしているらしい。表現取り立て屋かい。
でも、思うのだ。別に誰だって表現をしてよくて、なんなら「何者でもない」人ほど、した方がいいじゃん。だし、何かを好きでそれをなんらかの方法で形にしたくなったならやった方がいい。だってそこには、何かがある。あるなら、確認したくなる。それは、私だけなのかも、しれないけど。

 

 


でも、完成してもしなくても、作ってしまえばいい、と思う。特に文は一人でも出来るから。
それはこのクソくだらない毎日の中に中指を立てるようなおかしさがあるし、水の中で呼吸が出来るような安心感がある。だからたぶん、私はこうして毎日文を書いてるのだろうし。