えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

#つくのラジオごっこ(23.8.7更新)

#つくのラジオごっこ


メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。

ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。

どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。



またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。

AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。


また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。


ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。


よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


ひとりでの #つくのラジオごっこ

エピソード1 "ラジオ"の話

エピソード2 エンタメの話

エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話

番外編1 withセンパイ

エピソード4 THE TAKESの話


エピソード5 HIPHOPのライブを観て考えた話

#つくのラジオごっこ 日本語ラップ


日本語ラップって面白いな?!って話をソラちゃんに聴いてもらった回


#つくのラジオごっこ 雑談回


友達のしーくんとごった煮雑談をした回


#つくのラジオごっこ 畳屋のあけび


配信で観た畳屋のあけびが面白かった話をソラちゃんとした回


#つくのラジオごっこ アンサンブル・プレイ


2022年9月に発売されたCreepy Nutsさんのアンサンブル・プレイについての妄想を語る回


#つくのラジオごっこ 1周年だよやった〜!


なんとこの遊びを始めて1年が経ちました


エピソード6 伝わりますか?

今更ながらに伝わるって難しいな〜と思った話をひとりでしている


#つくのラジオごっこ 最近楽しかったこと


最近どう?何が楽しかった?の話をソラちゃんとする回



#つくのラジオごっこ(録音) 「好きに値する」ってなんだろう

色々あったので「好きに値する」ってことについて考え込むのにソラちゃんに付き合ってもらう回



#つくのラジオごっこ コチラハコブネ、オウトウセヨ


ポップンマッシュルームチキン野郎さんの22年12月公演「コチラハコブネ、オウトウセヨ」の感想をソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ FLOLIC A HOLIC


フロホリこと東京03さんとCreepy Nutsの公演についてソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ 好きなチャンネルが増える話

「推しを複数作ってリスクヘッジ!」は無茶言うなと思うけど好きなチャンネルが増えるのは楽しいという話


#つくのラジオごっこ ノンバーバルパフォーマンスギア


ソラちゃんと京都でロングラン公演されているノンバーバルパフォーマンスギアについて語りました。



#つくのラジオごっこ エブエブと映画を贈ることwithなっぱちゃん

友だちのなっぱちゃんと映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の感想を。それから、映画体験の話。


#つくのラジオごっこ 毛布みたいなエンタメ・カツ丼みたいなエンタメwithなっぱちゃん

なっぱちゃんと一緒に「救われたエンタメ」の話から毛布みたいなエンタメとカツ丼みたいなエンタメ、人が作ってることの話になりました



#つくのラジオごっこ あの頃のインターネットあるいは発信することされることwithづめこさん

前回エピソードでその人にとっての大切なエンタメの話を聴きたくなって2人目づめこさんに聴いてきました。インターネットやそこで出会ったあるいは運営していた個人サイトの話から何故かラップバトルの話まで?!

数字と連絡

友だちと何かを食べに行く日、ご飯を食べ損ねる。嬉しいと楽しみに気を取られていたらご飯を食べ損ねて集まって「お腹空いたかも」となる。

こないだそれをやって「お腹空き過ぎると気持ち悪くなるからおにぎりとか食べな」と言われてもしゃもしゃおにぎりを食べた。この歳になっても自分の胃のことがわかってなくて情けない。

 

 

なんとなくの落ち込みって難しい。

原因が分かってるけど解決する類のものではない落ち込みが苦手だ。苦手なくせに見つけるのが得意すぎて困る。

なんとか反応とかいう、あの苦手なものを見た時にぎゅっとなる、あの感じに似てる。

そういうのが積み重なると蓋が開く。

やばいかもの気配はあったけどまあいける、と思って無視したら蓋が開いた気配がして困ったな、と思ってる。

 

 

自分の感覚を信じ過ぎているから良くないと言われるけど本当によくないのは、本当には信じきれていないところじゃないか。

だから外の音をよく拾う。

自分はこうなんだ、と胸をはれないくせに誰かの言葉を聞くのは下手で、そのくせ他人の評価をともかく気にする。

 

 

いらないと思っていた。いちゃダメで、おかしくてそれは社会もそうだけど、親しい相手との関係性の中にも気を使わせてるポイントだとか面倒だと思われてるポイントを一つ一つ積み上げて数えて、怯える。

そう怯える。たぶんあれは怯えなのだ。怯えるくらいなら考えなきゃ良いのにと言われるまでもなく私が思う。

営業をなんで選んだの、と当然面接の時に聞かれる。

ひとつは、ひとよりもたぶん「営業として喋る」が得意だからだ。星野源が言っていた。人よりも少ない努力で(それは努力しないではもちろんない)うまくできることを天職という。ニュアンス大盛りの言葉だから実際には違ったかも。

ともかく、私はそれを聴いて「あ、なら私は営業の仕事が天職かも」と思った。数字のプレッシャーも嫌いだし、人と喋るのも好きではないけど、でも、たぶん、これは天職。

あとひとつ。数字は明確なのが好きだ。

学生時代、作った手応えのあるものを「子ども騙し」と笑われたことをたぶん私はずっと根に持っている。だからか、数学は、というかなんなら算数から苦手だけど数字が好きだ。

好きだとか嫌いだとか贔屓だとかが入る余地がない数字。

気を遣っての結果では、なんて怯えも入らないし、数字でだったら「あんな変なやつ(笑)」と笑ってくる相手にも勝てる、と思ってる。

 

 

なんてことを思ってるから極端な成果主義になっちゃうのかな。

 

 

なんか最近こうありたいをよく考える。こうありたい、はここが好きを自分の中から探す作業にもなる。あまりにも外にしか目が開かない時は疲れているのでさっさと寝た方がいい。

 

 

友だちと呼びたい知り合いから、私が9月に出した本を読んでると連絡がきた。

感想はなかったけど、なんだかそれが無性に嬉しかった。誰かの生活に自分の文があって、それをわざわざ(そうわざわざ!)教えてくれる。たぶん私が大事にした方がいいのは、こういうことだ。

花嫁はどこへ?

最初の印象は「静か不穏」。
不穏というとちょっと言葉は強過ぎるかもしれないけど、もっというなら見過ごせる違和感、かもしれない。

もののように取引されること、金品の話が優先されること、呼べない名前やなかったことにされる不満たち。
その片鱗にぐっと口を押さえながら観ていた。やがてそれが大きな違和感へと繋がることに心の底からああ、良かった、と思う。
誰かが閉ざしていた口をそれぞれ、少しずつ開きだす。

 


好きな映画だった「きっと、うまくいく」
あの彼がこの映画を製作したことが嬉しかった。私にとっては、そんな映画だった。
光に背を背けないこと、自分一人で幸せになるのは難しいけど、身につけたら苦しくなくなること、才能を使わないことは失礼だということ。世の中は見えているのとは全然違って面白い。
果たして私はそう思えているだろうかとふと考えた。面白い、と思えるか。私はすぐにそれを悲観して分かったよう顔をしてしまっていないか。それこそ、「受け入れて諦めた場面」が、何度もなかったか。

まるで宝物のようなお守りのような台詞たちを振り返りながら、ずっとあの映画のことを考えている。


「女性へのエンパワメント」と簡単に片付けてしまうこともできないような気がする。
もちろん「女性だから」の描写もあった。あったけど、そうじゃなくて、それだけじゃなくて、女性とか男性とか老いとか若いとかでもなくて全ての人への「自分の人生を生きているか」の問いかけだった。そんな風に思う。
そしてそう生きて良い、むしろそう生きなきゃいけないと背中を押された。そんな気がしているから今、ぽかぽかとあたたかい。

 


例えば私は駅の彼らがたまらなく好きで、それはたぶん彼らが誰よりも「自分の人生を生きていた」からじゃないか。

 


自分の人生を生きることは難しい。
邪魔されることもあるし、自分が自分のことを邪魔してしまうこともある。


そういうものだと諦めて受け入れる。
考えない方が楽なことがある。そもそもそれだって頑張ってないわけでもない。
むしろめちゃくちゃ頑張ってる。
頑張って諦めて、それで生きていることを否定されたくない。されたくない、と思いながら生きる。だけど、でも、そうなんだよな。


諦めて良かったの?と問い掛けられたら全然、全然全く、良くないよなあ、と思う。


だってそれじゃダメだ。どんどん不幸になる。
なにを不幸と呼ぶかはわからない。これはだから私が「そうであれ」と思う幸せの話なのだけど、だってあのおばさんはじめ、ジャヤやそういう「自分の人生を生きている」ひとは格好良いじゃないか。

 


少しずつ彼女たちが自分の人生を生きる。それがなんか、嬉しかった。嬉しいと思うことを大事にしておきたい。
自分の人生を生きていく、それで表情が綻んで、その様子が周りに伝染していく。そうだよな、こういうのが、良いよなあ。

 

 

何より。
そうして「自分の人生を生きる」ことは引きこもることじゃない。自分だけ良ければそれでいい、と思うことでもない。
手を伸ばす。誰かが幸せになるように手助けをする。自分の出来ることをする。
それが、私はより嬉しかった。

 

 

自分の人生を生きるには実はいろんな人の優しさと助けがあるんだよな。そういう助けで自分は在れるかな。そうして、その助けとか優しさにちゃんと気付いてありがとうと思いたいし返せるようにいたい。

 


どう生きたら良い、とかじゃないんだよな。どう生きたいか自分で考えて自分ができる最大限の優しさと良く生きる、を繰り返して、そうやっていけたらいいなあ、と思う。
そうやっていけるはずだ、と思う、思えるそんな映画だった。

すきというもの

「しんどい時もこのラジオがあるから頑張れる」

 

 

そういう支えられてる人たちの言葉をぼんやりコメント欄で眺めていた。

なんだかそれが無性にうれしい。不思議だ、普段コメント欄が苦手なくせにこのチャンネルに関してはほぼ確実にコメント欄を見る。

朝イチランダムで再生した動画の再生のコメント欄で見る。

そこにはこの動画を楽しんだ人たちを眺める。そうするとなんだか自然と顔が緩んで「さて」と朝を始まることができる。

 

 

 

気が付くと自分のリズムのなかに入り込んだ好きがある。

私の中で生活のリズムは大切だ。

リズム感はないけれど「ルーティン」が好きで、自分のルールを守れてる感じがする。それが、なんだか、無性に好きだ。

色んなことを守るのが苦手なくせに、でも自分のルールは守りたい。そういう面倒臭さに直面するとうんざりするんだけど、そうじゃなくて、面倒だな、ではなく、「自分の中のルールに好きが含まれていること」をにこにこと確認する。

 

 

昨日、職場の仲の良いひとと飲みに行った。

もはやそれは「職場の」ではなくてほぼほぼ友だちのような感覚をもっているし、今までもエッセイの中でたびたび話題に出してきた、おおよそに「友だち」と呼びたい相手である。

(文に書く時は極力、書いてもいいですか、とは聞く)

職位も何もかも上なのでやらないけど。でもそう思うと友だちって思ってもいいですかって問い掛けるためだけに仕事辞めちゃうのもありだな。

 

 

ともあれ、そのひとと遊ぶことが好きだ。その人と延々と話をするのが好きだ。

オチのない、解決策も何も求めてない、でも「なんでだろう」を延々とやる。

怒ったり慰めてもらったりするつもりもなく、ただ、「なんでだろう」を話し続ける。めちゃくちゃ楽しい。

特に今回は調子をしっかり崩して、ようやく回復期に差し掛かっていることもあって、この暗黒時期に鬱々と怒っていたこと、苦しかったこと、その中で好きだったものや支えの話をした。

 

 

「ああ、つくさんはその人に憧れてるんだね」

 

ブログにも度々書いてあるみくのしさんさんやかまどさん、かまみくの話をしている時ににこにこと聴いていたその人が言った。

確か、雨穴さんの「人が惨めな思いをするのが1番嫌だ」のエピソードを話してる途中だったと思う。それが自分にとってどうだったか、を話し切る前に「ああ」と頷かれて、あ、それだわ、と思った。

 

感覚として持っていた「好き」の輪郭をほかの人が言語化してくれることは、なんだか、心地よかった。し、より自分の中で宝物になった気がする。

 

そうかも。

私は自分の中でつけたい折り合いをずっとこねていて、それをどうしたものか、と思っていたけど、それを通り過ぎたひとが、笑顔で楽しそうに生活したり怒ったりする。それが妙に嬉しくて、希望になる。

 

その人とも「そういう人たちっているよねえ」と話していた。というか、たぶん、我々の「好き」はそうなんだ。

自分のなかのものと共鳴するような、だけど「ああいいな」と思う、決定的に違うもの。そういうのがあると、なんだかなあと思う毎日がちょっと「なんとかなるかも」と思える。

もしかしたら良いルートがこのまま続けたらあるかも。簡単だとは思わない。だけど、生活を好きでいれるかも、と思える可能性があることはそこに自分がいけるいけないにかかわらず、嬉しい。

 

嬉しいのだ。

 

なかなおり

寝ててもよかったんだ、と気付いた。朝がゆっくり。それはありがたい。洗濯もできたりするし。助かる。

 

だけど今日は仕事前に行きたいカフェがあるので、寝るじゃなくて動くを選んだ。起きた瞬間には後悔したけど。もっと寝た方が良かったんじゃない?にはそんなことないよ、と言い聞かせて外に出る。

 

 

頭の中がそわそわしてる。やりたいことがある。元気になった気がするし、明るい方に進める気がしている。

 

でも怖いのがそれが気のせいだった時だ。

もし、それが気のせいだったら。今までだってそれはまあまああった。仲直りができる!とはしゃいで、そんなこと全然なく、落ち込んだことがもう繰り返し何度だってある。

 

 

伝えてる言葉がどんどん離れて、なんなら真逆で伝わって「もう翻訳こんにゃく持ってきてよ!」とキレそうになる。

でもほんとに仲直りしたい相手ってたぶん、自分なんだよな。

 

 

 

自分っていくらだって仲直りできそうな相手なのに全然無理なのが面白い。たぶん、世界で1番仲の悪い相手だ。

だけど、こいつが面白いことをしたい!とはしゃいでるのを見るのは嫌いじゃないので、なんとかそういうことを企ててお互い「お、やるやんけ」と思い合えたらいいのに。

 

 

勘違いしないためにはそもそも許さなければ良い。

代わりに怒ってくれたひとからしたって、「やっぱり良いや」ってするのってどうなの、とも思う。そんな時に良い子になろうとするなよ、とも思う。だけど諦めたら、それこそ、生きてること自体がばからしくなりそうだな、とも思う。その天秤だな。

 

決めきらなくていい、とメモに書いていて、それは本当にそう、と夜、寝る前に頷いた。本当にそう。そうしてたい。

 

 

 

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楽しいさがし

心理的安全性という言葉が身近になった気がする。もしかしたら個人的な流行りかもしれないけど、何かと「心理的安全性」なんてことを考える。
ちょうど今読んでいる本でマズローの5つの欲求の話から帰属意識の話があって、とどのつまりは「心理的安全性」ってことだよなあ、と思う。
要は「ここなら大丈夫」という感覚である。

 

 

 

自分がいてもいいんだ、という安心感は結構大切だ。「ここにいていいのか?」を自問自答しながら過ごすのはしんどい。

例えばこれを書いている今、なんでか左肩が唸るように痛いのだけどやっぱり痛い部分があると「心理的安全性」は下がる気がする。ちょっと違うかも。

 


逆に私は朝ごはんを大体決めて食べる。ある程度ルーティンがあるから「いつもの」で過ごす。
そうするとなんか妙に安心する。毎朝のコーヒーもそう。
お気に入りの店もそうだし、お馴染みの友だちとのやりとりも安心する。
美味しいわけではないけど安いだけど居酒屋も行き慣れてると安心する。
聴き慣れたラジオのパーソナリティの繰り返しのおしゃべりが好きなのもそういうのかも。

 

 


ずっと苦しそう、と昨日言われた。

そりゃそうだろ、と思ってしまった。ここにいていいのか、ずっとわからない。いや「いちゃいけないんだろうな」ということだけが分かってる、と思う。
そんなことない、と思おうとしても「いちゃいけない」証明の方が容易く感じてしまってダメだな。


無自覚な悪意に気付くのが得意なのかもですね、と違う人に言われた。そうかも。でもそれって結構失礼なことだよな。
楽しいことが下手くそな自覚がある。ずっとなんだか楽しそうなひとが羨ましくて憧れる。
卑屈や悲観は、見ていても心地よくないし。
とはいえ、ネガティブは性質でもあるから早々変わる物でもないだろうし。でもなんとか、楽しいや面白いくらいは探すのがもう少しうまくなりたい。
マイナスのことを考えるのが得意な分、楽しいや面白いことを探して行けたら、と思う。そういうので、なんとかトントンに持ち込めたらいいのに。

あながあいてる

明け方、目が覚めた。夜中だと思ったけど全然朝だった。私は大体こうで、憧れている深夜ラジオのパーソナリティみたいな夜型に全然なれず、かと言って昼の街もなんとなく苦手だ。
そうこうしてると落ち込んでくる。
最近、いつもこうだ。穴の空いた貯金箱みたいに楽しいや嬉しいをどれだけ詰め込んでも気を抜くとこうなる。

 


誰かの役に立ちたいと思う、喜ばれる自分でいたいとも思う。だけどジクジクとした痛みが「でも」と騒ぐからじっと立ち止まる。
そういえば、20代の頃、同じようにどうにも立ちいかなくなった時に友だちから「余裕がない時に誰かを助けようとするな」と怒られたことがある。
余裕があるならともかく、ないなら人を助けたりできない。言われてみればそれはそうで、分かっているのに30代になっても同じようなことが頭を過ぎる自分の身勝手さと成長のしてなさに呆れる。

 


このままだと地の底まで落ちれそうだったので、着込んで散歩に行くことにした。幸い、まだ外は暗い。

 


楽しいことや嬉しいことに貪欲になりすぎて、なんかずっとお腹が空いてるみたいだ。強烈な飢餓感。足りないわけじゃない、十分過ぎるくらいに恵まれてる。なのにもっともっとと思うこの感覚が苦手だ。
それよりも一つ一つを本当は大切にしたいのに。そんなことを思うし、引っ張られるような空腹を気合いを入れて無視したい。
私の手の中にある嬉しいや楽しいは、軽んじて良いものなわけがないのだ。

 

 

 

耳元で賑やかなお喋りが聞こえる。夜と朝の真ん中、若干朝寄りの街は特に人通りもないから遠慮なくくすくす笑いながら歩く。普段なら行かない道をいく。


川沿いを歩くのも、整った道を歩いてビルを眺めるのも好きだけど妙に商店街を歩きたかった。ほんのすこし、さみしかったのかもしれない。


古びた店や居酒屋、チェーン店。その一軒一軒をちょっとだけ丁寧に覗いた。普通の時間なら気を遣って見れないかも。そう思うと、表に出されたメニューすらひとつひとつ丁寧に見たくなる。想像以上に好みのお店が多くてくすぐったかった。
コーヒーとだけ書かれたカフェは朝活というにも早すぎる時間なのに、もう開いてるみたいだった。人影が窓の向こうで揺れる。いっそ何かの縁だし入ろうかとも思ったけど何もかもがボサボサな状態だったのでほんの少しだけ覗いてやめた。

 

 


お喋りは相変わらず盛り上がっていて、楽しそうでばかばかしくてたぶん、しばらくしたら楽しかったということ以外、忘れてしまう気がした。だけど、そんな会話があることが無性に嬉しかった。
朝は来るし、ラジオも終わりそうだし家に帰ろう。缶コーヒー片手にぶらぶら歩こう。何にもならないこの時間が、わりと好きだと気付けただけで、上出来だと思う。

コミティアの特別な一日と「みくのしん_ちゃあ」のこと


何かの感想の時の冒頭の自分語りは、嫌われるらしい。冒頭だけではなく、そもそも自分語りは嫌われる。いつでもだいたい嫌われると思うけど特に何かの感想における「自分」は好まれない。らしい。
確かに食べログなどの日記みたいなレビューは、時々揶揄されたりはするし、まあそんな感じか、とも思うけど、でもそもそも自我を入れずにの感想ならそれは批評にならないか、とも思う。
どう感じた、を言葉にする時点で、それは「わたし」の話になるじゃないか。

 


と、まあつらつら書いているのは今回、たまらなく好きな本の感想を書きたいんだけどどうしたっていつも以上に日記になるし、なんならそれは最早いつも以上にわざとそうしたい、と思ってる。

 

そう、「そうしたい」。この本を手にしたあの日のことをまるっと言葉に、可能な限り残していたいので。


そしてそれだけじゃなく、私が今この本のことをこれだけ大切に思ってるのは、今の私だからだ、と思うからだ。
今の私、がどんな自分でどうしてこの本をどうやって手に取ったのか。それが私にとっては大事なんだ。
そして、この本を大好きだ、と思える自分だと思うと、私はほんの少し、私を許してあげられるような、良いじゃん、と言ってあげられる。そんな気がするのだ。

 

 

何故こんなに強烈に惹かれてるんだろう。
もともと読書記事が好きだったとはいえ、8月に単行本を買ってから転げ落ちるように惹かれている。



元々オモコロ読者だった友だちに「かまみく」の存在を教えてもらい、そうこうしてるうちに「みくのしん_生」もちゃっかり通販で手に入れて、我ながら「転げ落ちる」とか「ずぶずぶ沼にハマる」という表現がしっくりくらい、好きになっている。

 


そもそも「本を買う」まで好きなわけではなかったのに、そんな数ヶ月前が思い出せないくらいに生活の一部にかまみくはじめ、みくのしんさんやかまどさんの存在が大きくなっている。

 

読書本の感想にも引用した、今回の読書本で雨穴さんの協力するに至った経緯が、私はまず、大好きだった。

 

 

「俺は人が惨めな思いをするのが一番嫌なんだ」

 

 

そしてそれを「今」のみくのしんさんがしっかり感動する。なんだかそのことにひどくやられてしまったのだ。

 

 

私事ではあるが、今、仕事とプライベートで色んなことがあって、ありすぎて、我ながら自分のことを全く信用できずにいる。自分の好きなものや自分自身の輪郭がぼやけて、よくわからない。
それは、元々数ヶ月前から積み重なったもので、たぶん、そんな折だったからこそ、みくのしんさんのその言葉やエピソードが響いたんだと思う。
 


そして、そんなぼやけた私にも真っ直ぐすごい速度で届いて、かつ、適度に「何も考えずに楽しい」とも感じられるかまみくふたりのコンテンツは大袈裟でもなんでもなく、ここ数週間の私にとっての支えだった。

 


パーフェクト算数教室で笑って、食べ物の話で笑って朗読動画で泣いて、やっぱり笑って。そうしているととてつもなく楽しい。

 

 

だから、私はコミティアに行って本が欲しかった。「みくのしん_生」をゲットした時と同じように通販で買うことも考えた。考えたけど、どうしても、コミティアで買いたい。

 

 

 

この数週間、何度も「みくのしん_生」を読み返して諦めそうになることを耐えてきた。
大好きな山月記の読書記事に倣っていえば、今、私は限りなく虎に近い。そんな気がしている。
諦めて、尻尾を身体に巻き付けてどこかに行ってしまいたい。
そう思う度に「でも、トラになったのなら人間に戻れてほしい」というみくのしんさんの言葉を思い出した。

 


 

 

人間の頭に戻る時間、「みくのしん_生」を何度も読み返した。今でも、から始まる文を何度も読んだ。何度も何度も読んで「続け続ける」という言葉を心の中で呟いた。

 

私もそうしたい、と思った。そうしたい、ということを覚え続けるためにも通販じゃなくて体験として今回は本を現地で買いたい、と思ったのだ。

 

 

 

コミティアで並びながらまだ距離もあるのに聞こえた「コンチャス!」やお客さんと楽しそうに・賑やかに話す姿を見て、ずっと観て聴いてしてきた「かまみく」が地続きに"存在"してる、と思った。

 


日常と地続きで、おんなじで、でも特別嬉しくて、それでもやっぱり、日常だった。
初めてお会いしたはずなのにまるで友だちに話しかけるみたいに「めちゃくちゃ並んでるからみんな怒ってる?!」と言う。

 

 


自分の番になっても全くうまく話せず(緊張しすぎてステッカーを買いそびれそうだったので「ステッカーどうですか?!」って言って頂けたおかげで買えました、まじでありがとうございました)でも、なんか、全然よかった。


たぶん、話せてもどれくらい感謝しててかまみくが楽しくて最高かなんて、言葉にできなかったと思うし。こんなに長々書いてても、全然伝えられる気がしない。
でも、それでも、全然よかった。全然いい。
YouTubeの画面の中だけで存在してるんじゃなくて自分の生活する「ここ」と「あそこ」は繋がってると知れたことだけで、今こうして思い出してても泣きそうなくらいに嬉しい。
全く意味がわからない、分からないけど、そうなんだ。

 

 

自分でもよく分からない感情だけど、でも、無理やり言葉にするならまた生活の中で「好き」が増えた実感が、それが絵空事じゃない事実がたまらなく嬉しいのだ、きっと。

 

 

そうして手にした本「みくのしん_ちゃあ」を、次の目的地へ向かう電車の中で読んだ。ライトに楽しむつもりだった。だけどやっぱりしっかりブッ刺さってダメだった。


ご飯と大好きなおもちゃについて書かれた文たち。そこには熱量と「これが好きなんだ」に溢れていた。

 


私にも、好きなものがあって、あったはずで、だったら大丈夫なはずなのに今、こうだ。
そんな黒々した気持ちにマシな風が吹くような気がした。

 


好きな「ちゃあ」ことピカチュウのおもちゃのこと。その一つ一つ(ああもう個人的には一人一人、もしくは一匹一匹と言いたい)(だってあんなん家族じゃん!)の話をする、あの嬉しそうな声で再生できそうな文たち。


時々冷静になりながらも「これが!好きなんだ!」というみくのしんさんの文がたまらなく好きだった。そうだ、好きだ。
好きだ、でいいんだ。それがあってどうこうとか具体的にとかどうでもよくて「これが!好きなんだ!」なんだよな。

 

 

なんか泣きそうになって、でも電車の中で爆泣きするのはまずいから噛み殺して、大阪に戻る新幹線でまた読んで、やっぱり泣きそうになって唸りそうになった。

 


いい一日だった。この本に出会えて、本当に良かったし、本人から直接買えた、特別な日だった。

今日が終わって、明日がくれば別に特別ハッピーになるわけじゃない。日常はクソだし、なんの問題も解決しない。

 

 

だけど、虎のままじゃなくて、人間に戻りたい、とは思える。そんな気がした。好きなものを好きだという、毎日の生活をクソだなーと言いつつ楽しめる、そういう自分に向かって進めるような、そんな気がした。
ぶっちゃけ、一週間経ってやっぱり今も「やだなー」とは思うけど。でも呪文のようにではなく、自分の気持ちと感覚で「続け続けたい」と思ってる。生活も、何かを好きでいることも。

 

 

また金曜日がきたらかまみくがあって、きっとそれ以外にも新しい記事もこれからも読めるだろうし、なんならまだ観てない・聴いてないものをたくさん観たりもする。
かまみく以外にも自分の大切な大好きなものを私も「大好き!」と思いながら生活していきたい。いま、そう思ってる。私は何より、そのことが本当に嬉しいのだ。

 

 

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増えた宝物