えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ジッラ 修羅のシマ

やり直せることを、ずっと考えている。
ジッラを最初に観たのは配信で、それが映画館で観れるということで、楽しみにして映画館に向かった。

 

向かって、観ながら「ああそうだ、こういう話だった」と正直に言えば、冒頭、気持ちがしんどくなった。
主人公は地域を支配するギャングのボスに息子として育てられた、右腕的存在。ギャングで、警察を毛嫌いしており、そんな彼が父のために警察に潜入することから、物語は大きく動き出す。

なんせ、ギャングである。めちゃくちゃ悪いことをする。いや、もちろん、大将ことヴィジャイさんの映画であり、その主人公なので、バリバリのギャング描写の中にも悪い奴をシバき、街の人を助かるところもある。だけど、主人公シャクティ自身がはっきりと口にする「俺は良いやつではない」。


そのとおりだ。街に蔓延る犯罪に対して「友達がやってる」ことだと見逃すように恫喝したり、父を取り締まりにきた警察に暴力をふるう。それ以外にも「良い人じゃない」描写を観ながら、そうだったなあ、と思っていた。

 

これは、私の問題である。私のコンディションや思考が、彼の「改心」をただ良いこととして受け止められるか不安になった。
暴力や、誰かを虐げることについてここ最近考えていて、そこに直結したこと。また、彼自身はこのあと「改心」するけど、でも、それでも、と思ってしまった。それでも、傷付いて、苦しんで、人生が変わってしまった人はいる。
ヴィジャイ大将の映画だからこそ、「彼が正しい」前提だからこそ、どう観るか、2回目のストーリーが知っている中で、ほんの少し複雑なものが絡んでしまった。

 

だけど、それも観進めながら溶けていくような気がした。

 

彼が変わるきっかけとなる爆発事故。その描写は、2度目であっても、いやむしろ、2度目の今回こそ、目を背けたくなるような気がした。誰かが、誰かの利益のために全く無関係にも関わらず、いやむしろ無関係だからこそあっさりと、命や生活を奪われること。
例えば病院の描写など、そのショッキングさがより伝わるように描かれていることに私は画面を食い入るように見つめてしまった。
その一連のシーンは主人公の改心をただ「良いこと」として描こうとしていないんじゃないか、そう思った。
シャクティが、あるいはシヴァンが今まで見てこなかった「暴力の結果」をまざまざと見せつける。見ていて苦しくなるようなシーンや事実、それにシャクティ……ヴィジャイさんが、ぼろぼろと涙を流す。

 


マスターをきっかけにヴィジャイさんに出会った私はついつい「ヴィジャイさんの涙」に特別な思い入れを持ってしまう。初めてスクリーンで観たジッラは特にその「ヴィジャイさんの涙」が美しく、また、特別なもののように思えた。
今まで気付かなかったこと、あるいは目を背けていたこと、彼自身の目を覆っていたものが一つ一つ、剥げていく。そこから何をどうするのか、観るのか、感じるのか、そして行動していくのか。
生まれ変わるようにその涙一粒一粒が、彼を変えていく。


とは言っても、生まれ変わる、じゃない。なかったことにはならない。
だけど、その時思った。やり直せないことの方が、ずっとずっと、辛い。
やり直せない。でも、きっと彼が暴力をふるい、直接的ではなくても苦しめた誰かはもう「やり直せない」人たちだっている。でも、だからと言って、彼らがやり直さない理由にはならない。

 


シャクティは完全に「変わった」わけではない。警察を動かすのに多少ズルいことだってする。だけど、彼は鏡に映った自分から目を背けたくなるような生き方はしない。あの日流した涙に恥じるようなこともしない。そうしてそれを、大切な人に伝えていく。

間違えない方が、そりゃ、良いのだけど。でも、そうできない。そうできなかったどうしようもない恥ずかしさや消えてしまい感覚を捩じ伏せて、生きて、生きながら正していく方がずっとずっと、難しくて、そして大切なことなような、そんな気がしている。

 

 

やり直せる、と思った。やり直していく、そうして、自分の誇る自分でいる。
今まで観てきたヴィジャイ作品とはほんの少し違う、だけど、変わらないいつもの大好きな結論をこの映画もくれた。そう思うのだ。