えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

マスター/先生が来る

何が好きって多分、音楽や映画の表現だったんだと思う。
マスター、先生は、大酒飲みで音楽を聴き、映画が好きだ。最高に格好良く、大切なことを教えてくれるし喧嘩も強い。子どもだから、学生だからと適当に流さずに信じて話をしてくれる。



先生は、圧倒的に強い。めちゃくちゃ強い。もう本当にビビるほど強い。冒頭のアクションシーンは思わず笑ってしまうくらい強い。



生きることはしんどい。
マスター/先生が来る!の中では、それを更に容赦なく、暴力や死・痛みの恐怖、理不尽、諦めを濃く描きながら、綴る。
これだけなら、結構しんどい。
いや、これはマスター/先生が来る!だけではなく、RRRでも話題になっていたことだ。




バーフバリ、RRRからマスター/先生が来る!を見たわけですが、毎回そのエネルギーに驚く。画面から伝わってくる熱量は圧倒される、と単に言ってしまうことを躊躇う。
それこそRRRで話題になっているナートゥをはじめ、歌い、踊る姿の印象が焼き付いている。
容赦ない暴力や痛み、人の死を描く作品で、そういう「暴力描写」が苦手なのに何故か何度も思い出しているのは、きっとその、姿があったからだ。あの「踊るということ」そのことにこんなに惹かれている。
そのことに動いた心分、言葉を尽くしたいけど本当に全くうまくいかなくて感想を書きたがりの私にしては書くのに苦戦している。




予告でライトに受け取ってしまっていた子どもたちが、子どもだけではない、続くあの街、国で暮らす人たちが抱える苦しさ。
それを闇と表現するのも躊躇する。善と悪、光と闇、正しいと間違い。そんな自分の知る二つの比較じゃ、きっと追いつかない。無理やり押し込めればどこかはみ出してしまう。
ただ、どうしようもなく塞ぎ込むような、逃げ出したいような、だというのに「逃げ出せない絶望感」が隣に暮らす、身近にあるあの湿度を暗さを思い出している。ずっとずっと考えている。



先生が大学で説くこと、少年院で説くこと。その内容は少しも変わらない。
幸せでいることと祈ること、行動すること、誰かを傷付けないこと、対等でいること。暴力以外の方法で、訴えること。
信じること、更生することを祈ること、そのために手を伸ばすこと。




マスターを観ると、観客たちは彼の生徒になったような錯覚を覚える。いやきっと錯覚じゃない。彼が子どもたちに、生徒たちに説いた言葉を私たちも確かに受け取った。



そして、そんなことを描きながらこの映画は同じ力で否定する。それが追いつかない現実、理不尽を描く。




大人が子どもを搾取する。
誰かの誠実を踏み躙ること。





マスターの中でバワーニについて語らないわけにはいかないだろう。
親を殺され、理不尽に晒され、搾取される側から搾取する側に回った男。
同情してしまいそうな境遇だけど、それをさせないくらいの圧倒的な暴力を彼は振るう。酷い、なんて言葉じゃ軽い。
そして思うに彼は「俺だって辛い」なんて言わない。同情される余地を残さない。




「待ってやる」と口にし、相手に「行動」を促すこと。ある意味で、先生と同じなんだな。
でも、スタートから平等ではなく、確実に「相手を殺す」つもりとその算段がついた上での「平等」。





映画の中、仕方ない、偶然、運命。そう思わせようとするバワーニが描かれる。誰の目にも「いやお前のせいだろ」と言われる余地を残しながら、でも圧倒的な力と悪意でバワーニが嗤う。「仕方ない、俺は神様をたくさん信じてるから救われたんだ」



もうね、この構図がすごい。
そんなわけがないのだ。でもそうだったんだ。バワーニ自身が知る世界は、きっとずっと。
形だけの平等、ひっくり返せない悪意を浴びるのはいつも弱者で、そこから自力で這い出したバワーニが今度は暴力を振るう。




先生とバワーニの生い立ちが重なる部分があること含めて「誰と出会うか」「何を選ぶか」が決定的にわけてしまう道を残酷なまでに鮮やかにこの映画は描き切る。



それでも、誰もバワーニが裁かれてくれるな、と願うことができないくらい決定的に、彼は、間違え続ける。でも、じゃあ、一体彼に誰が正解を選ばせてくれたんだろう。そうずっと思ってる。正解を選ぶことが死ぬことにだってなりかねない社会で、生きることを選んだ、殺すことを選んだ、彼のことをずっと考えてる。

どこでなら、正せたのか。RRRもだけど、マスターも、ずっとそれを考えてる。もしかしたら、人間には到底無理なことなのかもしれない。





人とか、生きることとか、なんというかそういうものを信じたり、大切にしたり、そこまでいかなくても心を動かすことは結構しんどい。
疲れるし、動かした分傷付く。
だからもうやめたい、なんで、って思うのに、先生は絶対に、やめない。



正しい、を信じる。
誰かを守ることを、理不尽を受け入れ、ならと暴力を振るう側にいこうとすることを止めてくれる。なんのためにそこにいるのか、と口にする。そっちにいかせないために、陽の当たる場所を選べるように全身全霊で、先生は、立ち続ける。




でも、その先生だって特別な人ではない。出来ないことがある。不安なことがある。進み方が全て、分かっているわけではない。


それでも、だからこそ、そんな男が立ち続けていることに打ちのめされている。かつ、これはこの映画の凄いところだけど、彼の悩みや苦悩をこれでもかとは書きはしない。ただ、想像させる。少ない言葉や描写で。
だから、彼を悲劇的に捉えられない。そう、もう、どこまでいっても「大将!!」なのだ。



(そして、そういう意味である映画のシーン、心が震えまくる。あの瞬間、スクリーンがなくなって明確に彼が「私」に話しかけてくる。




そして、そんな先生が映画と音楽を愛しているキャラクターであることが嬉しかった。誰も寄り添えない悲しさや苦しさ、怒りに寄り添う。
それを映画で描かれているのが、嬉しかった。
助けてはくれない、だけど、寄り添ってくれる。それは映画で、そしてこのマスターもそんな作品なんだろう。




人生は短い、幸せであれ。
そう、ささやかな話だと言いながら繰り返し歌ってくれた歌を、思い出している。