えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

すきというもの

「しんどい時もこのラジオがあるから頑張れる」

 

 

そういう支えられてる人たちの言葉をぼんやりコメント欄で眺めていた。

なんだかそれが無性にうれしい。不思議だ、普段コメント欄が苦手なくせにこのチャンネルに関してはほぼ確実にコメント欄を見る。

朝イチランダムで再生した動画の再生のコメント欄で見る。

そこにはこの動画を楽しんだ人たちを眺める。そうするとなんだか自然と顔が緩んで「さて」と朝を始まることができる。

 

 

 

気が付くと自分のリズムのなかに入り込んだ好きがある。

私の中で生活のリズムは大切だ。

リズム感はないけれど「ルーティン」が好きで、自分のルールを守れてる感じがする。それが、なんだか、無性に好きだ。

色んなことを守るのが苦手なくせに、でも自分のルールは守りたい。そういう面倒臭さに直面するとうんざりするんだけど、そうじゃなくて、面倒だな、ではなく、「自分の中のルールに好きが含まれていること」をにこにこと確認する。

 

 

昨日、職場の仲の良いひとと飲みに行った。

もはやそれは「職場の」ではなくてほぼほぼ友だちのような感覚をもっているし、今までもエッセイの中でたびたび話題に出してきた、おおよそに「友だち」と呼びたい相手である。

(文に書く時は極力、書いてもいいですか、とは聞く)

職位も何もかも上なのでやらないけど。でもそう思うと友だちって思ってもいいですかって問い掛けるためだけに仕事辞めちゃうのもありだな。

 

 

ともあれ、そのひとと遊ぶことが好きだ。その人と延々と話をするのが好きだ。

オチのない、解決策も何も求めてない、でも「なんでだろう」を延々とやる。

怒ったり慰めてもらったりするつもりもなく、ただ、「なんでだろう」を話し続ける。めちゃくちゃ楽しい。

特に今回は調子をしっかり崩して、ようやく回復期に差し掛かっていることもあって、この暗黒時期に鬱々と怒っていたこと、苦しかったこと、その中で好きだったものや支えの話をした。

 

 

「ああ、つくさんはその人に憧れてるんだね」

 

ブログにも度々書いてあるみくのしさんさんやかまどさん、かまみくの話をしている時ににこにこと聴いていたその人が言った。

確か、雨穴さんの「人が惨めな思いをするのが1番嫌だ」のエピソードを話してる途中だったと思う。それが自分にとってどうだったか、を話し切る前に「ああ」と頷かれて、あ、それだわ、と思った。

 

感覚として持っていた「好き」の輪郭をほかの人が言語化してくれることは、なんだか、心地よかった。し、より自分の中で宝物になった気がする。

 

そうかも。

私は自分の中でつけたい折り合いをずっとこねていて、それをどうしたものか、と思っていたけど、それを通り過ぎたひとが、笑顔で楽しそうに生活したり怒ったりする。それが妙に嬉しくて、希望になる。

 

その人とも「そういう人たちっているよねえ」と話していた。というか、たぶん、我々の「好き」はそうなんだ。

自分のなかのものと共鳴するような、だけど「ああいいな」と思う、決定的に違うもの。そういうのがあると、なんだかなあと思う毎日がちょっと「なんとかなるかも」と思える。

もしかしたら良いルートがこのまま続けたらあるかも。簡単だとは思わない。だけど、生活を好きでいれるかも、と思える可能性があることはそこに自分がいけるいけないにかかわらず、嬉しい。

 

嬉しいのだ。