えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

火花 Theri

ヴィジャイさんを好きになって、もうすぐ一年が経つ。

 


初めて観た「マスター 先生が来る!」からいくつかの作品を観て、それだけじゃなく学生たちへの支援や自然災害の際の行動、またファンへのメッセージなどスクリーン以外での「タラパティ・ヴィジャイ」の姿を知れば知るほど、好きになってしまう。

 


私は、彼の「生きている大人」としての在り方が好きだ。スーパースターであり、それが出来る状況にあるからだ、と言ってしまえばそうかもしれないけど、そんな簡単なことではないと思う。
映画の中のヒーロー像そのままに、自分の信じる道を自分の信じる方法で歩く、そんな姿に惹かれて彼を好きになったんだと思う。
もちろん、それがなくてもきっと彼のお芝居が好ましいことは大前提だけど、自身が脚本を読んで魅力を感じた作品に出演するという彼の考えを聴いた時に「ああもう好きだ!」と叫びたくなった。

 

 

 

自分の信じる道を歩くこと
それは、彼を好きだと思う私たちの気持ちを大きく肯定してくれるような気がする。前提、そんなことを求めることは多少、行きすぎた行為だとは思いもするのだけど、だけどやっぱり、嬉しい。
映画の中の、弱い立場のひとたち、子どもたちや女性のそばに立ち、励まし、自身も行動する彼に物語を通して力をもらう。それだけでも、すごいことだ。
さらにその上、作中、彼の言葉に行動に励まされたその先、現実でもその姿に惹かれることは、なんというか、物凄く奇跡的なことだと思う。
芸事の提供をしてくれる人を過度なまでに「良い人たれ」と思ってしまうことは個人的には危ういと思うんだけど、それでも嬉しい、と思ってしまう。

 

 

 

なぜこうまで彼の「スクリーンのそと」の姿に惹かれているか、ということを書き連ねてしまったかというと、私の中で「火花 Theri」の好きだったところはそんなところとも繋がっているような気がするからだ。


アトリ監督の作品を最初に観たの「ビギル 勝利のホイッスル」だった。


 

ビギルを観た当初、監督自身もヴィジャイさんのファンだと知った時、「わかるよ…!」と叫びたくなったのをいまだに覚えている。

 

 


「こんなヴィジャイさんが観たい」がともかくフルコースのように出てくる。
その上、それがストーリーの中にうまく組み込まれていく気持ちよさ。
それは今回の火花 Theriでもたくさんの瞬間で観ることができた。そもそも、冒頭の「小さな女の子とのバディ(親子)」の描写なんてもう、心、踊るしかない。
ちょっと情けない感じにも見える野暮ったい雰囲気のヴィジャイさんとそして娘と戯れ合いながら過ごすその姿!もう、まじで、最高。
始まって数分でものすごくワクワクした。

 

 


そしてその上で「いつもの格好いいスーパーヒーロー」なヴィジャイさんも観れるとなると「アトリ監督、ついていきます…!」と叫びたくなる。ダンスシーンのわくわく感、怖いくらい強いヴィジャイさんの描写。どれも大満足である。

 

 

 

だけど、私が何より、「アトリ監督大好き!」と叫びたくなるのは、その「映画でどんなメッセージを届けるか」というその一点がかなり大きい。

 

3時間の映画の中でこれでもか、と要素を詰め込む。それは何も、ヴィジャイさんの魅力だけではない。
女性への暴力、そこから命を奪うこと。不正な労働。賄賂。
身近にある不誠実を、映画の中で扱う。

 

 

 

私は、先述のビギルの感想ブログの中でビギルを観た時に「ははーん」と思ってしまったことを書いた。
そういうトピックに関心がある。あるからこそ、そういったものが題材、あるいはモチーフ的に使われることに慎重に向き合おうとしてしまう。

私的には、センセーショナルに描け、というつもりはない。リアルに描くこと、あるいは「こんなにも酷いことだ」と描くことは、そこにある悲しみや怒りを無視したり悪意や無知を煽ることにもなってしまうようにも思う。

 


あの時、ビギルの感想の時はうまく言葉に出来なかった「もやもやするならいっそ表現されないほうがマシ」という感情。
それは、軽んじられることに慣れすぎてしまっていることなのかもしれない。
そこまで言うと、多少悪く言い過ぎだろうか。だけど、ともかく、過度な描き方に不安がつきまとう。

 

 

 

 

だけど今回、火花 Theriを観て、現実に起きたことを想起させるようなモチーフが選ばれたこと含めて思う。
ああそうか、アトリ監督も、あるいはこうして出演しているヴィジャイさんはじめ、一緒に作っている人たちもそこにある悪意や無知に怒っているのか。

 


そう感じた時に、ああ私はこの監督のことが好きだな、と思った。
面白さも楽しさもお茶目さも、そして現実での怒りも、良い方向に変えたいという思いも全部おなじに、一緒に描いていく、彼の作品が好きだ。
そしてその時に大好きなヴィジャイさんがああして描かれることが嬉しい。

 

 


何かを表現することはどうしようもなく、何かを主張することでもある。
それは、映画もそうで、なんならこうして、ブログで感想を綴ることだって、どうしようもなく何かを「主張」する。

 

 

 

そして、その主張や思いを面白さとともに伝えることで少しでも広く深く伝えようとしてくれることが、私は嬉しかった。大好きだった。

 

"ヴィジャイさんの圧倒的強さは描く、その上で、そうじゃない強さ、そういう武力ではないところから生まれる強さや光を大将は映画で描こうとしてるんじゃないか。"

 

 

 

映画の中で、暴力だけではなく、子どもとの関わり方をああしてファンシーに描き、その先にあのシーン、あの台詞を持ってきたこと。楽しそうに笑う彼らを愛おしく思ったこと。伝わるのだ、ということ。
そして確かに、伝わった、と思っていること。
それはそのままこの映画を好きだと思う気持ちがきっとこれからの自分の毎日をよくしてくれると信じられる気持ちへと繋がっていく。

 

 

 

「たかが映画」ではないのだ。

映画と現実は違うとか、映画を初めとするフィクションで描かれることにマジになるなよ、とか、言われてしまうことはあるけど。そうじゃないんだ。
伝えようとする、そのことにこんなに嬉しくなる。そしてそこで触れた言葉、考えを自分の生活や人生に持ち帰りたいと思う。

 

 

スクリーンを通して伝わった熱は、確かに映画館を出た後だって続くのだ。それを、彼らが信じてくれる。それが、こんなに嬉しい。

 

 

ヒーローがいるのだ、という表現であること
映画と現実は地続きであること
そのことを年末、火花 Theriを観たあの日からずっと考え続けている。