えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

黄色の花によせて

小さい頃、探検家になりたかった。今思えば、いやふりかえらずとも私は落ち着きのない子どもだったので、世界のあちこち、なんなら宇宙すら飛び出すような人になりたかった。
だから、校区外にだって平気で遊びに行くような子どもだったし、どんな自然にもわくわくした。旅行も好きだった。
それが、だんだんとああ無理かもな、と思った時のことを覚えている。

 

 

塚口サンサン劇場さんが、大好きなヴィジャイさんの作品を上映してくれている。私はそれが嬉しく、体調と時間が許す限りは、と足を運んだんだけど、そのうちの一回は会社の同僚と観ることにした。彼女にあらすじを送り、好きな作品を選んでもらえたら、と伝えたら選ばれたのは「ビギル 勝利のホイッスル」だった。
なんとなく、伝わるといいなあと思いながら観た。結局、伝わったかは分からないけど「パワフルだった」と言っていた、彼女がしんどいな、と思う時にこの映画のことを思い出してくれたら良いなあと思った。

 


例えば、ヴィジャイさんが「社会派作品を手掛けているから」好き、というとなんとなく「そうだけどそうなのか?」と思う。
弱者に寄り添ってくれるから、うん、まあ、そうなんだけど。
ルックス、ダンス力やチャーミングさ、お芝居、長台詞の美しさ。そういうものの全てを好きだと思う。


そして、そう思いながらもやっぱり、と思い直す。やっぱり私はそれを大前提として彼が作品の中で訴えかけること、選んでいるテーマが好きなのだ。
そうして、その中で「私」に目を向けてもいてくれるんだ、とは、確かに思ってきたんだ。間違いなく。

 

フェミニストというと身構えられることを、「褒め言葉というよりかはどちらかというと下げの文脈で使われがちなことを考えている。

 


「家族を作ることの幸せ」を選んだ時、多くの場合、高確率でキャリアのストップを受け入れるしかないことについてこの間早朝に思い至って考え込んだ。

 

分からない。こうして書くのも「ああなんか、面倒なことを言ってるな」と思われるのかもしれない。まあ、そうなのかもしれないけど。
そうかもしれないけど、これは誰かを叩くための何かを固めてしまうための文じゃない。そうしたいとは、思ってない。ただ、なんだろうな、この感覚。街中にあちこち咲く、ミモザの花を見ながら思った。言葉にしたくなったのだ。

 

ビギルを観たのはもう何度目か分からない中で、オープニング、あのマイケルの縄張りでの音楽の歌詞を噛み締めて泣いた。肌の色のくだりで、ああそうか、と思った。
それを理由に嘲られるとしたら、その何倍もの強さで、誇りに思う。そういうことなのかもしれなかった。

 

 

あの日、なんとなく探検家になるのを諦めた方が無難だな、と選んだ幼い私に、誇っているぞ、と思う。大変なことはたくさんあるけど、私は楽しいぞ、この人生。
そう言い続けるために、そして、そう思う人がひとりでも増えたら良いと思ってる。それこそ性別に関係なく。