えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ミルクレープと考える


ドトールのミルクレープが好きだ。
生クリームが得意じゃないこともあるのかもしれないけれど、ミルクレープを見ると安心する。し、じゅわりと滲む感覚が食べているとあって、私はそういうことが、とても好きなんだと思う。
そんなわけで、頭がふらふらとしているなかで、ドトールに行った。
ただもう、ミルクレープにしか用がないのである。自分の扱いにくさだと自覚はあるけれど「こうしたい」を強く思うとそれ以外へのガッカリ感が人一倍強くなってしまう。
だから普段はなるべく「こうしたい」や「この段取りで」と思い過ぎず、まるで他人をあやすように気を逸らしながらおそるおそる行動することがある。
だけども今日は合間合間に「ミルクレープ」と思い過ぎていたので、それ以外の選択肢をなくしてしまっていた。もちもちのロールケーキやシュークリームなど、自分の好きな食べ物を代替え案にして考えてみたけど、みればみるほど、頭の中はミルクレープでいっぱいになっていた。

 

そんなわけで、少し散歩がてら、ドトールへと足を運んで、ミルクレープを頼む。直前、ショーケースを見て、なければ店員さんと話す前に店を出ることも考えた。取り扱い注意状態の自分が凹むリスクは最大限なくしたい。
そう思いながら、吃りがちになるのにうんざりしつつ、音楽のバリアを張ってくれているイヤフォンを外して「ミルクレープはありますか」と聞いた。
初心者マークを胸元につけた店員さんは「あ、」と言う。それで、ああないのか、と思う。落下に備える時のようにお腹にぐっと力を入れる。ただ、隣にいた店員さんが「ちょっと待って」と店の奥へと引っ込んだ。見守るようにふたりで視線を動かして何か、箱を持ってきた店員さんにレジ前に立っていた初心者マークの店員さんが言う。
「あ、ありそうですね」
その声が、嬉しそうで、なんだか、私が嬉しいことのはずなのに、なんでだよ、なんて思いつつ、にこにこにしてしまった。ほんとですね、ありがとうございます。そう言って、ケーキを待つ。待ちながら、会計をする。
ふたりで試行錯誤しながら大切に私のミルクレープを準備してくれる。
その様子を見ながら嬉しそうな「ありそうですね」を思い出していた。いい人だな、と思う。
いい人だし、ここから先、良いことがあって欲しいな。保冷剤を断って、またのろのろ、家に帰りながら思う。

 

傷付くことを、考えている。
世間というものを聞くとどんよりと重たい気持ちになるのは、きっと私がそこに馴染めないかつ、その馴染めないことへの引け目のようなものがずっとずっと、あるからだと思う。
最近、そのことに向き合う場面が積み上がりに積み上がってしまい、どうにも、歩き方が思い出せない。
仕事でも、プライベートでも「自分はおかしいのか」と考え込む時間が増えた。
自分なりにおかしいを埋めようと色んなことを試しているけど、どれもこれもうまくいかない。そうこうしてると疲れや苛立ちが溜まって、前ならやらなかったようなミスや不誠実で、にっちもさっちもいかなくなる。


おかしいって言っても、それ、そういたいんでしょ、と言われた。
それは「変わっていたくてそういう振る舞いをしているんでしょう」ではなく
好きなものも、譲れないことも、それっておかしいんじゃないかって思うことも、日々の過ごし方も、全部自分なりの「好き」を詰め込むんだものでしかないのだ。

 


「そんな風に考え込むのは、しんどくないですか」「今すぐは変えれないかもですけど、変わった方が過ごしやすいんじゃないですか」

 


うん、すげえそう。分かる。そしてそもそも「しんぞうなひと」がいることが迷惑なんだろうなってことも想像はできる。
だけど、私は考えたいんだよ。考えることを正解だって信じられてもいないけど、考えて、考えた結果、何も言えなくなっても、やりたいんだよ。
ミルクレープ、ありそうですよ、と嬉しそうに笑ったつもりなんて、あの店員さんはなかったかもしれない。勝手な感情移入の逆、感情反映なのかもしれない。だけどそれを嬉しいな、と思う自分を明日も好きでいれますように。
好きで、というか、まずは、許すところから。