春だからか、最近恋バナを振られることが多い。とはいえ、私には本当に恋バナの引き出しがなく、盛り上げられる気もしないし価値観が合わずで終わる可能性が高すぎてやんわり「あんまり相手に適してないですよ」とお伝えするようにしている。
が、まあ、分かりやすい共通項、盛り上がれる一番ナイスな話題と捉えられがちなのでまあしゃあなし、恋バナなんぞに興じる。そして高確率で「え…」みたいな顔をされるのだ。
だから言ったろうが、と悪態を吐きたくなりながら、そこから延々と考え続けてしまうことを覚悟してあーあ、と頭の中で大きくため息を吐く。だから言ったのに。
好きだという感情、あるいは恋愛感情に基づく関係が第一に優先される、とされることに「なんで?」とずっと言い続けていて、それが変わらずそこそこのいい歳になった今に至るまで続いているのはなんなんだろうな、と我ながら思う。
ただ最近「好き」とは恋愛の話である、としているのもまた、違うんだろうな、と思う。
ついこの間、星野源のプレイリストをぼんやりと見ている時にAppleが作った星野源のプレイリストのなか「ラブソング」というのを見つけた。
ふーん、と思いながら開きラインナップや説明を見ると、恋だけではなく、様々な愛についての曲を集めたのだということが分かって思わず、「ああ」と呟いてしまった。そうか、そうかあ。
そうだ、私は星野源の「恋愛」や異性間、人間同士だけに限っての「好き」や「ラブ」の描き方じゃないことにずっと惹かれているんだ。だから、こうして誰か分からない方の作ったプレイリストだけど、「ラブソング」をそうした定義で集め、並べたことに嬉しくなる。そうだよ、そうだよな、と思う。
学生時代に書いた恋愛がテーマの物語の中で、もうあなたと次の季節、季節を過ごすことを想像できない、想像させてあげられないから別れたいと言う男を出した。今思えば、当時の自分の拗らせた自我なんかを思い出して悶絶してしまう。
ただ実際、あれから数年、年を重ねて周囲含めて色んな「恋愛」を観ていると、事実もう一緒に季節を過ごすことがないことがかなしい、と言ったひとがいた。花を見ることも、季節のイベントを過ごすことも、旬の食べ物を食べることも。真っ先に浮かぶその人と一緒にいないことは、なるほど、確かに、寂しい。
「次のあの季節をもう一緒に過ごせないのだ」と悲しむひとがいるのだ、ということに感動した。感動しながら、あの頃の私はきっとそれを悲しんでいたんだろうな、と思う。
去年の秋、どうしても許せないけど好きなのだ、と思い日々ぐるぐると悩んでいたことがあった。許せないと許す理屈をそれぞれにこねにこね、にっちもさっちもいかなくなった私は事情をいくらか知る友だちに「どうしたら良いか分からない」と話したりもした。友だちはあっさり言った。「好きだから善悪の理屈を超えちゃっても仕方ないよ」
衝撃だった。
そうか、そういうものか。
と思うし、同時に、私はあの人のことが好きなのか…とびっくりした。そうか、好きなのか、だとしたら確かに、なんか、仕方ないような気がする。
例えばどの関係であれば、どういう人であれば「好き」なのか、とはたぶん、永遠のテーマだ。
色んな言葉、表現、シチュエーションを尽くして、ひとは「好き」を表すことを探す。好きの正体が知りたくて、ずっと考えている。
そうして同時に人は、自分の求める「好き」の方法で好かれていたい愛されていたい、と願うんだろうなあと思う。好きなのにと言いながら酷いことをしてしまったという話を聞いて、思う。自分の好きが価値のないものに成り下がったのだと悲しくなりながら思う。
ひとって、自分のされたい優しさじゃないと気付けないんだよな。
「あるよ」って言われても違うんだよ、ってなっちゃうんだよなあ。
そう思うと好きだと思って、それが相手にも正しく「好き」として伝わるのって、奇跡的確率の上じゃないと成立しないんじゃないか。
なんだよそれ、大変過ぎるだろと悪態をつきたくもなるけど、それくらい大変じゃないと考え続ける甲斐もないから、仕方ないか。