えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

岡崎体育Zepp Tour 2024〜献身的グリフォン〜

ひたすら笑わせて、踊らせて、最後に残ったのは「音楽って最高」っていう気持ちだけだった。

 


今回私が行った大阪公演は半分くらい、もしかしたらそれ以上の人が「初めて岡崎体育のライブに来た人」だった。
例に漏れず私も「完売させたい」という岡崎体育さんの熱量にあてられ、「このライブは観ないと」と思ってチケットを取った人間である。

 

 

しかし実は完全な初見だったか、と言われるとそうではなく、実は配信で岡崎体育さんのライブを観たことがあった。
2年前のSONY PARK展のCreepy Nuts岡崎体育の対バン。Creepy Nutsのファンであり、岡崎体育さんの曲も数曲「なんか好き」だったので、迷わずその無料配信を観た。観て、なんだこの人、と本気で思った。

 

 

 

まじで空間掌握力がすごい。しかもそれが「爆笑させながら」やってのけるからすごい。
当時はまだ声出しが解禁されておらず、その中で岡崎体育さんは「パンゲーム」をしていた。呼びかけに対して手を叩いていくゲーム。
たまにフェイントをかけられたりしながら手を叩くのが楽しくて、画面越しなのに気がつけば手を叩いていた。そして、RさんとのMCバトルの演出にはお腹を抱えて笑ったし、何よりCreepy Nutsのふたりも爆笑していて、私はそんな光景に「ああ、これはいつか生で観なくては」と心に決めたのだ。

 

 

 

そうして本当は去年行くつもりだったのにモタモタしていたら一般が先着なことに気付かず買い逃し、そんな中で今回、岡崎体育さんからの「完売したい!」という呼びかけに真剣に「今回行かなくていつ行くんだ!」とチケットを取っていた。

 

 

 

行って思う。最高、最高、このライブは、やっぱり生で行って良かった。

 

 

 

なんせともかく楽しい。一曲目からブチ上がり、踊り、観客全員が、各々、好きに過ごす。みんながばらばらで、でも楽しそうで、なんだか凄まじい光景だった。
もうそれこそ、「観客のボルテージは一気に最高潮に」である。

 

 

更に言えば、そもそも岡崎体育さん初心者の人が半分を占める中で、丁寧な曲への振りや毎MCごとに言う「こんばんは!岡崎体育です!」と名乗られることに感動していた。

 


前提、ここにいる人たちはあなたが岡崎体育であることは知っているのである。
だというのに、岡崎体育さんは繰り返し繰り返し言ってくれる。

 

 

こんばんは!岡崎体育です!

 


その声を聞いてるうちに愛されるということは、こういうことなんだなあと思ったし、なんだか無性に泣きそうになってしまった。

 


チケットを完売したいと、繰り返し岡崎体育さんは「曲を知らなくても大丈夫です!」と言っていた。それはただ完売したい……「誰でも良いから来て欲しい」ではなく「あなた」に来て欲しいのだと訴え続けてくれた、彼のプロモーションと一貫していた気がしたのだ。
ラスト、全員の顔を見つめてくれたこともそうだけど、ひたすら「あなた」……とどのつまりは「わたし」に音楽を届けようとしてくれていた。名乗って、紹介して近くでいてくれる。果たして、あの大きなステージに立ちながらそんなことできる人が一体どれくらいいるだろうか。

 

 

 

岡崎体育さんの音楽は面白い。
コミックソングが有名ではあるけど、聴けば聴くほどに「こんな曲もあるんだ!」とライブ前後、わくわくした。ピアノのバラードも打ち込みの良さを活かしまくった色んな音がおもちゃ箱のように詰め込まれている音楽も、あまりにも楽しい。
Apple Musicの説明の中で自身の強みとして「どんな音楽もできる(やりたい)」ということを挙げてくれていた。すごい。
楽器も曲調、ジャンル、テーマや音楽性も全部全部、ばらばらなのに全部が「岡崎体育」の音楽だった。
何が違うか、何を持って私は「岡崎体育の音楽」と感じたのかまだ分かっていないけど聴くほどに「岡崎体育の音楽」なんだなあ、と思う。
面白い曲も、切ない曲も、全部が岡崎体育節を感じるのだ。

 

 


そうして考えながら、等身大の表現のことを考えた。
あんなにでかいステージを作り上げる人だけど、岡崎体育さんの綴る言葉、MCでの言葉は本当に身近に感じる。それは、きっと、なかなか出来ることじゃない。

 


わかる、と思うことと、いつかの感覚を言語化される面白さ。そういう等身大を彼は作り上げてる。

 

 

それがどこから生まれてきているものなのか。
音楽の側面からはどうしても知識不足で分からない部分もあるけれど、私はそのインプット量と感性じゃないかと思っている。なんせ岡崎体育さんの曲にはあまりにも「あるある」と感じることが多い。

 

 


それはともかくもうカルチャーとしても日々の風景、感覚としてもかなりの量の色んなものを「インプット」して受け取り、自身の言葉に考え続けてるのではないか。
そう思うと、なんとなく彼の曲から感じる「分かる」の理由が分かる気がする。常にいろんなものを観て、聴いて、それに全て形を付けて、言葉をつけて、いやある時は「付けないで」いるからこそ、ああした私たちの感覚と地続きな音楽たちが生まれるんじゃないか。それは、私たちが日々の中で「なんとなく」感じているものの言語化でもあって、その心地よさに「あるある!」と叫んでしまいそうになるのだ。
そしてだからこそ、初めて行ったのに、全然「初めまして」の感じがしなかったのではないか。

 

 

 

ジャパニーズポップ、どんな音楽もできるということ。
あんなふうに等身大で居続ける難しさを、ふと考えた。明るくて楽しくて、何度も「こんばんは!岡崎体育です!」と挨拶してくれて、そうして、観客の歓声とも楽しそうに会話して(この辺りも岡崎体育さんすげえな、と思った。ともすれば「構ってほしく」なりかねないくらい丁寧に対応されてたのだけど、でもさばきがめちゃくちゃ上手いから、声を飛ばさない観客のことも誰一人置いていかないのだ)

 

 

 

途中、格好いい!可愛い!と飛んでくる歓声に対し(完全に余談だけど、登場の瞬間、その笑顔の可愛さにめちゃくちゃにやられてしまった。可愛い、可愛過ぎる。あの顔で笑える、もうその時点で大好きだ)
「何でイケメンかわかるか?」と問いかけるシーンがあった(記憶で書いているので細かいニュアンスは違うかもしれない)
顔がいいからルックスがいいからスタイルがいいから性格がいいから、そのどれでもなく、命。命が、燃え盛る命が彼をイケメンたらしめているというのである。
こんなにしっくりくる表現があるだろうか。
生命力があるから、というのも、ほんの少しニュアンスが変わってしまう気がする。
ただ、岡崎体育さんはただただひたすらにその命を使い切る気満々で、私は、そんなところが好きなのだ。自分の命を全部、フルスロットルで、味わい尽くす。
そうして全部面白がろうと轟々と燃え盛る命は、なるほど、確かにイケメンだ。

 

 

途中、岡崎体育さんと約束を三つした。私は、そのことを何度もライブの日から思い出している。

 

 

 

健康でいて、誰かの悪口を言わないで、おじいちゃんになってもライブをするからライブに来れるようにいてね。

  

 

 

 

ライブに来れるようにいる、とは健康もだし、きっと経済的な余裕というか生活の余力のこともだし、精神状態もだろう。最近、苦しくていろんなことに難しさを感じていたからだろうか、ふとそんなことを思ってしまった。
だってきっと、ああしてライブに行けたことは当たり前じゃない。
それは、私も、観客全員そうだし、岡崎体育さんもだし、そうだよね、ああしてまた、みんなが笑ってライブで過ごせる未来でありますように。

 

 

 


こうしてもらった元気が、大切過ぎてそんなことを思う。
これからも、燃え盛る命が、健やかでありますように。良い曲は、良い人とともに。その言葉を実感したあの夜を、思い出しながらずっとずっと、そう思っている。