「違国」という表現だったことを繰り返し繰り返し思い出している。それを理解しきれているかわからないけど、私はそれが嬉しい。異なるではなく、違う国。
ほんの少し前、面と向かって「あなたは、そういう世間とずれている価値観を持ってることで人を気遣わせているんですよ」と言われた。また、その少し前、身内から「つくは、そういう考えを持ってるけど、それ世間ではあんまり言わない方が良いよ」と親切な忠告を受けた。
なんだろうな、とずっと考えてる。ズレてるらしいこと、違うらしいこと。なんだか最近、ああ、自分だけがおかしいんだなあと思うことが増えておかげで息苦しい瞬間が多くなった。
槙生の冒頭「私はあなたのことを決して踏み躙らない」という、そのシーンを見てしみじみと噛み締めてしまった。その時ふと思う。たぶん、私はいま、槇生に会いたかったのだ。
原作を知らないままだったけど、他人と共に過ごすこと、理解できなくても理解しようとすることを、私は見届けたかった。そして何よりそのために努力を続けようとするその人と、私は出会いたかった。
違国日記で、突如交通事故で両親を失った中学卒業を目前に控えた「朝」を引き取ることにしたのは、槙生という一人の女性小説家である。硬い表情で登場した彼女は振る舞いや言動からどうやら「少しズレた」大人であることが描かれる。
事故で亡くなった朝の母の妹であり、その母、つまりは自身の姉のことを憎んでいるひと。それをストレートに朝に告げるところももしかしたら「大人」の規格からほんの少しはみ出している。
原作者ヤマシタトモコさん自身が、そうした責任から少し外れた場所にいるからこそ自由に接する叔父叔母の存在に憧れた、というとおり、その姿は昔から物語の中に存在する、憧れる大人、だ。
私は劇中、片付けは苦手で、という槙生に「え?!」と朝が驚くシーンが好きだ。それ以外にも結婚について問われるシーンの言葉を、そして目の前にいる朝や自分自身、そして自分にとって大切なひとのことを慮り尊びながら話すシーンなど、ああこの瞬間が見れてよかった、と思うシーンがたくさんあった。
そうだ、私はもう大人が「大人」という生き物ではないと知っている。もっとしっかりした生き物だと、こんなことに泣いたり悩んだりしない、強い生き物になれるのだと思っていた。
そのことに悩んだ時期ももう通り過ぎて最近では「っていう時間を積み重ねてきたこのままで果たすべきことはちゃんとしたい」と思っている。
子どもの頃に思っていた漠然とした大人には到底なれなかったし、たぶん今後もなれない。だけど、子どもに対して、申し訳が立たないことはしたくない。そう、それこそ……踏み躙るようなことは絶対にしたいと決めた。
槙生は、そんな大人だと思った。情けなく、片付けもできず、人と関わるのも下手くそだけどその責任を知り、全うしようとしている。
劇中、朝や朝の友人たちの描写に何度も胸がぎゅうっとなった。
朝の「誰かの1番になりたい」という寂しさとそれに対しての槙生の言葉を今でも思い返している。
分かること、分からないこと、分け合えなくても一緒にいれること。名前のつかない、つけてしまえば少しずつ足りなかったり、いきすぎたりすること。そういうことにギシギシいいながら過ごしている私にとって、あの映画の、綺麗な光に満ちた光景はなんだか、お守りのようになる気がした。
人は人と関わった方が楽しい。
それは苦しさと裏返しだ。だけど、それでも、諦めてしまうには勿体無い。そう思った。人と人が関わって、でもそこに「理解しきる」なんてことはないかもしれない。ないのだ、ということを理解した方が良いと近頃はぼんやり思ってる。だけど、その先にはこんな暖かな時間がある。
温度感がある。
そう、あの映画を思い出している。
それは、あなたを理解した・私を理解してもらったと思うこと以上の幸せでももしかしたらあるのかもしれない。
音声コンテンツ、つくのラジオごっこでも15分で感想を話してみたので良ければ📻