えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

サッドティー

ひとつも共感できない、と言うとなんで強い言葉になってしまうんだろう。
だけど、本当に誰一人、共感できなくて、なんでってずっと考えていた。最近、そんなことばっかりだ。



いつも、分かんないことばっかりある。




職場で聞こえてくる雑談や
Twitterで流れてくる誰かの感情に
「なんで?」が募って仕方ない。なんでなんでって聞くのって幼児までは許されるけど、大人になると許されないんだよな。でも、幼児だってちょっとって思われたりするんなら可愛げもない大人ならもっとか。






今泉監督の撮る女性も男性も全員、軒並み、知らない世界、知らない言語を喋ってるみたいに思うことがある。今泉映画は、恋愛の絶妙な機微を描くのが本当に魅力的だ、と思う。思う、めちゃくちゃ思うんだけど、思うからこそ、ああきっと、だから理解できないんだろうな、って今回、サッドティーを観ている途中、諦めた。
浮気されてても付き合う理由も、分かんなくなってても付き合う理由も、殴られても結婚する理由も、少しもわからなかった。分からなくて、想像するしかなくて、でも、この映画を観ることができて良かったと思うことは思い出補正でもなんでもないと、思いたい。





当たり前と言えば当たり前だけど「愛情を絶対的に証明できる公式」なんてないのだ。
何をしたらあるいは何をしなければ、愛しているか・大切にしているとするかなんて途方もないような問いかけだ。だから、必死に生きているのだ、とふとこの映画について考えていて思った。





こうやって愛していたら正解もこうして愛されていたらえらいもない。どちらもないはずなのに、確かに自分にだけわかる幸福がある。
そしてそれが「勘違いなんかじゃ、ありませんように」と祈りながら私たちは生きているんじゃないか。
それは恋愛や生き甲斐やなんだかそういうものの話な気がする。それとも、そんな大袈裟なもんじゃないよ、お前はそんなんだから恋の価値観がズレてるとまた言われてしまうだろうか。






そんなことをなんだかんだと考えていたら感想を書くのに随分時間がかかってしまった。もう言葉にするのを諦めようかな、と思ったときに記念にと持って帰ったフライヤーを見た。
そこに今泉監督の思う<ダメ恋愛もの>と自身の作品が言われがちな理由を考えた文章が記されていた。



たぶん、言い換えるなら、<好き>ということに対する気持ちの温度が低いからなんだと思います。
温度が低いというか、そこを頭で考えてしまっているというか。
情熱的じゃないんです。どこか冷静で。まじめで。



人って、何かを好きって言うこと自体だって、快楽なんだよな、と思う。
理解できなかった、と言いつつ、一番状況的に肩入れしやすい……言い換えれば、解読、あるいは感情移入しやすい……のは、旭くんだった。
私は一体、何人の人、いくつの作品に人生レベルの感謝を捧げ、愛をこのブログで綴ってきただろう。
その全部が嘘じゃないと誇れる。
だけど、もしいちごちゃんのようにその対象者がその愛の永遠を信じて、もっと言えば望んで、かつ、それが自身の人生や生活を削るほどの切実なものだと思っていたらきっと、私は、ぶっちゃけ、良い気はしないのだ。
真剣なつもりではある。
だけど、きっと、私は自分の人生を差し出したつもりもないし、今後もそれは変わりはない。それは、ある意味では、情熱がないじゃないのか。




それでも、確かに、愛しているんだけど。
でもその愛は一人分の愛なのだ。旭くんの人生でいちごちゃんを愛していたことは変わらないように。だけど、永遠はないように。
いちごちゃんの人生を報いはさせても、彼女が望むそのものにはなれない。
愛し合うなんて言うけどそれって瞬間的な話で、結局、いつだって、一人分しか愛せないんじゃないか。それは、別に悲劇的な話でも、ないと思う。
わからないことは、多い。多いけど、どうしても、この観た記憶が「よかった」とひたすらに思って、なんだろうな、と思いながら、今泉監督の文の締めくくりに頷いた。うん、そうだよな。



わからない、だけど、私は好きだった。それが確かに、あるのだ。