えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

私はいったい、何と闘っているのか


安田さんのお芝居が好きだ。



無類の不器用、と言われる彼は役でもそういう役を演じることが多い気がする。私はそんな役を演じる彼に出会うたび、なんとなく、安心する。
自分だって「うまくやっていけない」を自覚している私にとっては、安田さんの不器用なひと、のお芝居は私だけじゃないという思いと共に、だからまだもうちょっとやってみよう、という思いへと繋がる、そんな優しい指針なのである。



春男は、わりとよく脳内劇場を展開する。
抜けてるわけでもないし、冒頭のスーパーのシーンなどを観ればわりと仕事ができる方だとも思う。
しかし、彼の脳内妄想を考えるとひとりぐるぐる考え込む節があるし、器用!というわけでもないんだろう。
何をそんなに悩む必要があるのかというところで悩むし、言葉を飲み込む。自分が、と走り回って解決しようとしてくれる。いっそお節介すぎるようにすら思える彼は人が良くて、生きるのがほんの少し下手だ。
もちろん、そんな人の良さを周りの人たちひとたちは愛してくれてもいるし、不幸なわけじゃない。だけど時々、うまくいかない。
何と闘ってるのか、何にこんなに必死になってるのか。
そんな虚しさが襲うような描写を、しかしこの映画はコミカルに描くからぎりぎり辛くなりすぎずに観れる。


そう、そんなところが安田さんのお芝居の大好きなところなのだ。
コミカル。一生懸命やっているから面白い、というと言葉は少し悪いかもしれない。だけど、きっとそこに照れや恥ずかしさ、面白いだろうという色気があったらきっと面白さを私は感じなかった。
本人が驚くほど真剣で本気でやってるからこそ、ほんの少し生まれたズレが微笑ましく愛おしいし、面白いのだ。


さらにはこの映画にはたくさん食事のシーンが出てくる。
その中で度々繰り返される「それだけ食べれてりゃ大丈夫」という言葉が私は大好きだった。
ご飯を食べるということはそのまま生きることだし、美味しいは正義だ。食べて飲んで眠れれば、とりあえずは大丈夫なんだ。


『私はいったい、何と闘っているのか』はそのコミカルさの中にしんどさもある。
伊澤家は平凡で幸せな家だ。だけどその中にだって、ちょっと触りづらいじくじくした悲しさがあったりもする。
春男の働くスーパーも基本的にはみんな良い人で明るい職場だけど見えているそれだけが全てではない。



春男の脳内と一緒だ。表面でどれだけにこにこしていても頭の中でぐるぐると悩んでたり悲しんでたりはする。それは、見えたり、しないのだ。



大きな悲劇、日常、平凡、そのアンバランスさの中で、物語は進む。逆剥けみたいな居心地の悪い傷は小さいように見えるけど、その分治りが遅かったりする。それでも、毎日は進むのだ。
食べて叫び、妄想して一人相撲して生きてること、そんな春男の毎日は、私の目にはとても幸せに見えた。
羨ましい、と単に言いたいわけじゃない。
なんだかそれは、自分の目の前にある日常を愛せるような気持ちになる、そんな愛おしさだ。


観に行く前、いくつかのインタビュー記事を読んだ。その中で春男みたいな良い人はなかなか現実にはいない、という問い掛けに監督がそんなことはなくて、春男のような「ヒーロー」はむしろ、日常のなか、たくさんいるのだ、と答えていたのが印象に残っている。

今こうして、感想を書いていて思う。
そうかもしれない。
春男は、色んなところに、いるのかもしれない。
やることなすこと裏目にでたり、から回ってたり、でも一生懸命だったり優しかったり、少し情けなかったり。

「なんでこんなにうまくいかないかなあ」とボヤキながら、それでも美味しいものを食べてまだまだ、とつぶやく人は、確かに、いる。



それでも誠意を持って生きること、家族を大切にしていること。
なんでもない人生、なんて言われるかもしれないそれがどれくらい得難くてかけがえのないものかは、知っている。


この映画を観た2時間、そんなことをたっぷり考えて、まだやれると思った。だから、私も、いったい、何と闘っているのかと苦笑いしながら自分なりに頑張ろうと思う。