えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

だが、情熱はあるが終わった

このドラマを心底好きになったのに結果として、おいそれと語れなくなってしまった。そんな気がする。心の大切なものフォルダにしまわれたドラマは全身に新鮮な血液を送ってくれる。だけど、だからこそ、適当に語るには大切すぎて言葉を選んでしまう。し、相手の言葉に敏感になってしまう。
そういう意味では、逆にそれぞれのアンテナの形を確認し合うリトマス紙みたいだな、と思うし、なんならそもそもの「たりないふたり」がそんなものだったんじゃないか。




ともあれ、私にとって大切なこのドラマ……「だが、情熱はある」のことを終了後数ヶ月経った今もずっと考えている。



「そうだよ、ただの漫才」
最終回、たりないふたりの漫才に向かう若林さんが笑いながら言う。そうだよな、その通りだ。
別にエモい話でもない、友情ストーリーなわけでも成功譚でもない。ただただ、笑わせようと自分を削り相手を落とし、ひたすらに、そうして笑わせようとしたふたりの、あるいは、もっと多くの人たちの一瞬だった。




漫才を作るのが楽しいとふたりが言った瞬間、無性に泣きそうになった。追体験的に「物語」として彼らの物語を見せてもらった私たちは、彼らがどれだけ、「漫才」に向き合ってきたか知っている。
そして、それを「物語として魅せる」ためにキャストが、スタッフが、どれだけの心血を注いだのか、ずっと観てきた。
だからこそ、驚く、驚くし、そうだよね、と頷く。





幸せになる、ということに怯えることがあるんだ、とも思う。

「自分の話以外をする人になる」
私にとって、若林さんはそんな人だった。自分の話もしながら他人の話もとても深くまで聴いてくれる。そんな印象がずっとあった。



妬み嫉み以外の魅力がある。
私にとって、山里さんはそんな人だった。抜群の語彙力と注意深くひとを見ることができるその人は、思わぬ切口で物事を表現するしもちろんキレのある言葉だってあるけどその根底はずっと魅力があった。



だけど、ふたりがそれぞれ「じゃない方芸人」と呼ばれるまで、呼ばれながら、どれだけもがいてきたかを、考える。
幸せになれなくても苦しい、幸せになっても苦しい。なんだ、それ、と思う。しんどすぎる。だけど、確かに「満たされていない」彼らの表現で幸せだった、笑ってきた私だってそこに加担しているんだよな、きっと。




人間味みたいなものを見て聴いて楽しむ、それが漫才。そうかもしれない。


元々、お笑いが好きだと言うのになんとなくハードルを感じていた。熱心なファンが多いジャンルは、変にいっちょかみするにはハードルがある。
だけどある日、職場の知り合いに連れて行ってもらったお笑いライブで驚いた。


また、このドラマをきっかけに「山里亮太の140」の存在を知り、ほとんど勢いでチケットを取った。
ちょっと足を運んで、滋賀公演に行ってきた。
具体的には語れないけど(何故か会場の外に出た瞬間全てを忘れてしまったので)とんでもない公演だったことは感覚が残っている。





いずれにせよ、普段の日常ではどうしようもないものになるものをそれぞれに笑いに変えていることに驚いた。そこで思い切り笑って楽しんで、ああそういうのもありなのか、と思った。

特に山里亮太の140は終わった後も度々「なんであんなに好きだったんだろう」と考え込んでしまう時間だった。無性に好きだったのに言語化するとしたらたぶん、ズレる。



他人への妬み嫉みや劣等感、良いところわるいところ。そう、ネガティヴな感情だけじゃない、良いところもただちょっと違うところも全部詰め込んで「芸」にする。
人間味を濃縮させて、なんなら臭みだったり苦味だったりすら滲みそうなそれが、たまらなく癖になる。なんか、そういうものなのかもしれなかった。



そしてHuluでスピンオフを観て思う。
ドラマで軸となったふたりだけじゃなく、その横に、近くにいたふたりがどうだったのか。
ただ「コンビ愛」を描くわけじゃない。それぞれにも、それぞれの人生がある。人生があって大切な瞬間があった。そこにクロスするようにそれぞれの人生があって、影響をしあっていて。




描かれた台詞にも、題材にも、あのスタッフの人たちの「ひとが好きだ」という感情が爆発していた、そう思う。
ドラマのスタッフさんたちはあのふたりが大好きな人ばかり集まっていた、と何かで言われていた。そうなんだろうな、と思うし、きっとその人たちは「人間」がたまらなく好きなのだ。人間が、ただただ人間臭くちょっとおかしくて厄介で面倒くさくて、でもたまらなく愛おしい。そんな瞬間を、愛している人たちだからこそ、あんな物語になったんだろう。





「ほとんど生まれてきた意味そのものみたいな」
その言葉は、明日のたりないふたりで若林さんが口にして、ドラマの中でも台詞としてあった。
本当に、そうだと思う。奇跡みたいな瞬間だった。それは、ドラマを見終えて、「明日のたりないふたり」を観てからも思うし、ドラマとしてもぐんぐんと熱量が増していく中で飛び出してきた言葉みたいだった。
そんな奇跡みたいな瞬間を経て、漫才は終わり、ドラマも終わる。だけど、人生は続く。




奇跡みたいな瞬間を越えた後も平気な顔をして恥ずかしげもなく、人生はくだらない瞬間を寄越す。
でもだからこそ、奇跡みたいな瞬間を私たちは一瞬でも多く観たいのだ。まだ大丈夫、と思うために。




それはずっと探している「人生の正解」に少し似てる。「こうすれば幸せになれる方法」にも似ている。だけど、同時に決定的にそんなものじゃない。


生きていくための正解は欲しいけど「これで満足だろ」みたいな百点満点を見せられたらもしかしたら私はブチギレてしまうかもしれない。違う、そうじゃない、そんなもんが見たいんじゃない。




「こうしたら良いんだ」なんてことは思わない。真似なんてできない。だけど、大丈夫だ、と思う。そういうものだった。





私たちは、毎日なんとか生きている。
そのなんとか、はさまざまだ。
それは誰かに自分の言葉が届いた時かもしれない。
自分だけのものだと思っていた鬱屈した感情を同じように抱える誰かに会えた時かもしれない。
そんなものが笑いに変わるという奇跡に触れた時かもしれない。

そして、その一瞬を打ち砕くようなクソみたいなことはたくさんある。どれだけ素晴らしい瞬間がたくさんあっても、明日も、次の瞬間も、ちゃんと世界はクソなままだ。
だけど、それでも。たぶん、私は明日も生きていく。
後生大事に、と笑われても、どこかに確かに届くものがあると知っているから。
自分の何かが届くことを、そして誰かからとびきりの贈り物が届くことを知っているから。情熱は、確かに届くのだ。それがそのまま、幸運を、あるいはハッピーエンドになるかは分からない。それでも、そのガソリンがあれば、走れることを、知っている。



そうだ、だって、だが、情熱はあるんだ。