えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

図書室の先生

最初に「本の世界」に逃げ込んだのはあの時だったんだろうな、という時がある。
関西の田舎から急遽九州に引っ越してきた私は、言葉の壁、価値観の壁にぶち当たった。その上、ちょうど「難しい年頃」で学級崩壊真っ盛りだったそのクラスにうまく馴染めず、瞬く間に「異端児」かつ「標的」にされた私は、ちょうどその頃、兵庫で長期休暇を利用して流れていたアニメ「小公女セーラ」の原作の小説を図書室の「持ち出し禁止書棚」で見つけ、毎日夢中になって読んでいた。
みんな仲良く、いじめは格好悪く、ハッピーに過ごすことが正義という不文律で生きてきた人間には強い奴が弱い奴を殴り蹴り、順番に「いじめられる側」が回ってくる世界線は理解し難くて、それを理解する前に好きな物語のその後を知ることに集中した。






以来、友だちこそクラスに作ったり立ち回りを覚えるようにはなったものの物語と図書室が逃げ場な生活が高校に入るまで続いた。






嫌なことがあればひたすら本を読み、物語の世界に没頭し、自分でも書くようになった私を中学の時の司書の先生はよく気にかけてくれていた。
健康状態を心身ともに気遣いながら、自分からは手を伸ばさない古典の魅力なんかも教えてくれて転勤後、直接の関わりがなくなってからは自宅に招き、ともかくたくさんの「本」に囲まれる時間をくれた、あの先生のことをふとこの間思い出した。



先生は、繰り返し私に言った。





「とにかく、本をたくさん読みなさい」






生きるのが下手くそ過ぎて誰かと仲良くなることを拒否し、仲良くできないくせに仲間はずれも怖がり傷だらけで生きていた七面倒な私に直接的に説教するわけでもなく、本を読みなさい
と勧めた先生。しかも、読みやすい本ばかりではなく、中国古典とか、読んでもよく分からない本を「分からなくてもいいから」とくれた先生。






あの時間のありがたさを最近ようやく肌で感じることができるようになった気がする。
日々のやるせなさやどうしようもなく塞ぎ込む時、私の手を引くのはあの時読んでいた言葉であり、何より「逃げ場はどこかにある」という実体験からくる学びだ。






この間、部屋の大幅な模様替えをした。収納を増やしたので、棚から棚へ、DVDやCD、本を移す。特にCDはここ一年で急激に増えて、その結果、しまう場所がなく平積みにしていたのをアーティストごとに並べる場所を変える余裕まででた。関連するグッズを近くに並べてニヤニヤする。
自分の好きなものが系列ごとにずらりと並ぶと精神的にいい。久しぶりにそんなことを思い出し、部屋に入るたびについつい「良いねえ」と呟いてしまう。





また、並べながら、お気に入りの本が数冊、見当たらないことに気付いた。エッセイの一巻やハードカバー版がない。なんでだ、と気付き、心内がざわざわする。ちなみに私はこの「ざわざわ」も苦手だ。なんとなく、ついさっきまで気付いてなかったくせに視界に入った途端悲しくなる自分の薄情さ含めて許せずにざわざわといらいらが競い合うことになる。それが、ともかく本当に苦手だ。
とはいえ、私は私との付き合いがそこそこ長いので「大丈夫ですよ」と言ってやる。大丈夫、大事な本が見当たらないと当然その瞬間不安になるし、必ずどっかにある。これをバタバタと探し出すと疲れもするから余計イライラするだろうし、落ち着いて。
そうしてその日は見ないふりして、落ち着いてから違う収納を見るとちゃんと並んでいた。そこで最近じゃ見なかったお気に入りの本があって、そこも含めて安心する。ああここにあった、という気持ちとここにある本があれば大丈夫、と思う。






自分の好きな言葉に出逢いに行くことができるということが、安心感になったりするのだ。たくさんブログを書いていて思う。
そして、それが思いがけないところからも出てくることが誰かの表現の面白さだと思う。







人と変わらず、うまく繋がれない。関われば関わるほど毛羽立って行くし、誰かのことをぼろぼろに損なってしまう気がする。誰かの人ごみの中にいるときは、私はとても嫌なやつだ。
だけど、誰かの表現に触れて「理解したい」と思うときは、ほんの少し、マシだと思う。傲慢な話だけど「理解したい」と思える感覚を思い出せれば、驕り昂り、嫌なのびかたをした鼻っ柱を折れると思う。冷笑や失笑を感嘆に変えれるのだ、と思える。





好きものがあって良かった。自分だけでこの世界が完結していなくて良かった。
そう思ってあの日、本を読め、と言った先生の言葉に時々私は深めに頷いてしまうのだ。