えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

石子と羽男-そんなことで訴えます?-3話

※石子と羽男-そんなことで訴えます?-三話のネタバレを含みます




石子と羽男が面白い。
もともと楽しみにしていたドラマではあったけど毎話観るごとにどんどん好きになっていく。
そんなことで訴えます?とサブタイトルで付いてることを3話を見てから考えてる。
そんなこと。
大きな刑事事件は今のところ確かに扱われていない。人も死なない。民事事件。そんなこと。
思えば、このドラマでは法廷のシーンはほぼ描かれない。リーガルドラマではあるけど、法廷での勝敗は本軸ではない。事件のどんでん返し、とまではいかなくてもそこに最初に見えてなかった「新事実」を見つけることはあっても、やっぱりそれも本軸ではない。



どこが本軸か、と言われればそこにいる人たちの心が動くこと、だろう。
それは事件や判決によって、というだけではない。むしろ、その「訴え」がそもそも生まれるに至った経緯まで立ち返り、そこに石子と羽男が……硝子と羽根岡が心を寄せるまでが丁寧に丁寧に描かれていく。



ところで、このドラマの好きなところの一つは扱われるテーマのチョイスだ。
一話ではパワハラ、二話では中学受験や親ガチャ、そして三話ではファスト映画。
ここ数年のトピックに寄り添って問題提起をするように題材が提示される。
そんなところにアンナチュラルやMIU404で何度も唸らせてくれた新井プロデューサーがが関わっていることを感じさせられて、頷いてああ好きだな、と思う(が、実際のところ、脚本家の西田さんの話題選びの妙の可能性も大いにあるし、どちらかといえば、TBSの金曜ドラマでやりたいこと、なのかもしれない)(いずれにせよ、私は毎話、そんな話題選びにわくわくする)

ただ、そんな「問題提起」的な題材選びであっても贔屓目もあるとはいえ「説教臭くない」と感じるのは演出面や、役者陣のお芝居が終始エンタメに全振りされているからなような気がする。
同時にそもそも「説教くさい」ことはマイナスなのか、とも考え込むけれど、ただ、やっぱり金曜という多くの人にとって週末の夜、いや週末じゃなくても「娯楽」として楽しまれるドラマにおいて、あくまでまず前提「楽しい」を120%味合わせてくれた上で考える余地、立ち返る余地をくれるという関わり方は、私は好ましいと思うし居心地が良いのだ。



そんな中迎えた三話。
題材はファスト映画。羽根岡は、国選弁護士としてファスト映画を作り動画サイトにアップして訴えられた「映画監督志望」の男の弁護を行うことになる。
なんとか最低でも執行猶予を勝ち取りたいものの、男には反省の色はない。
それどころか「映画の宣伝をしたのに何も悪いことはしていない」と言い放つ。



この男の設定を「映画監督志望」にしたことも、そんな彼のお芝居がああいう演出なことも
争うことになる映画監督の設定も、なんというか、一つ一つ挙げていくとキリがないほど唸りたくなる構成だった。



それら一つ一つを解説したいというよりかは、私はこの話が迎えた結末に結構打ちのめされているということを書き残したい。



どうしたってMIU404やアンナチュラルのことを思ってしまう人間の感想だけど。
罪に対して「償う」手段の裁判を扱ってるんだけど、同時に単に「償う」ことの難しさを容赦なく描いててすごい。
かつ、裁判ものにありがちな(それは悪い意味ではなく持ち味として)裁判の「勝ち負け」あるいは「あっと驚く解決方法」に焦点を持っていかないの、すげえーーーー面白い。意地を感じる。だって正直、裁判についての記憶が最初に書いたようにそんなにないもんな、このドラマ。



ファスト映画を作りアップして、それの何が悪いと言い放っていた彼に「彼自身がやったこと」を理解させる。
法廷のシーンやいやそもそも接見のシーンでそんな彼の心情の変化、をしっかりと気持ちよく描いてくれていた。


私はファスト映画が嫌いだ。
一時間や二時間、それ以上の時間をかけて物語を描くことを無駄だと言い、なんとなくのつぎはぎだけを見て全部を理解してると思う人が嫌いだ。そもそも十分で説明できるのに、と笑う人が嫌いだし、そう笑った言葉を私はたぶん、一生忘れない。
それでも、彼の心情が変わっていくことに「何も受け入れてくれない相手を相手にするのは、苦しいよ」という羽根岡の台詞に頷いてたくせに心を動かされた。いやむしろ、頷いてたから、動かされた。

彼の……山田遼平の気持ちが分からないしあの無なことにも安易なことにも一切共感も理解もできない。
だけどそんな彼が「自分のやったこと」を自分が被害者あるいは第三者の立場になれば怒る。そうして、理解する。
ああ良かった、と思った。


そして被害者である山田監督に頭を下げにいく。


そこで、許されるのか。許さないまでも、自分もこれからも映画を撮り続けるというのか。
そんな"美しい物語の終わり"を想像していた。たぶん、そうなんだと思う。
だから、私はあの終わりに、監督の台詞に、お芝居にぶちのめされている。




望む通りのエンディングは訪れない。だって彼が消費したのは、踏み躙ったのは、物語でもエンタメでもなく、ひとりの男のあるいはそれに関わる人々の人生そのものなんだから。



石子と羽男はリーガルドラマではある。だけど圧倒的にその華やかさ、派手さを描くのではなく、そこにいる人たちの連続の生活を描く。
どんな罪も被害も、そこにいるのはひとで生活だからだと今更、深く深く考えている。罪を犯しても、傷付けられても、彼らは生活を続けるのだ。
その途方もなさを噛み締めている。
そんなことで、とサブタイトルについてるのがいっそ怖い。そんなこと、なんてことはないんだ、きっと。