えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

スクリーン向こうのあなたのファンより

言葉にしておきたい、と思っているのだと思う。溢すように呟きながら、ああ、言葉にしておきたいなと思った。だから今こうして携帯にぽちぽちとフリック入力している。

 

 

最初に断っておきたい。私はたぶん、熱心なタラパティアンか、と問われたらきっとそんなことはないんだと思う。限りなく、ライトでにわかな「彼のファン」だ。
だからだ、と言われたら「本当にそうだと思う」と返してしまう。そうだと思う。

 


それはそれとして、彼の作品が好きで、そこから知った少ないながらの彼の人柄を好ましく思ってる人間として。今回の決断に思ったこと、感じたこと、考えたことを書き記したい。これからの彼の道が少しでも明るく暖かなものでありますように、という願いを込めて。
言葉にもしも力があるというなら。祝福が、彼のこれからの道を少しでも明るく照らしてくれる何かになったら良いなと思いながら、文字を打つ。

 

 

 


ヴィジャイさんが、政界へと進むことを発表した。現在契約している映画については変わらず出演されることを発表されており、それ以降についてはまだ分からない。

 

 

 

 

ところで、それそのものについて書く前に私が初めて「ヴィジャイ映画」に出会った時のことを書いておきたい。RRRを観た2022年11月、マスター先生が来る!の予告を観てぼんやり認識したくらい。友だちの感想を聞いてタイミングが合えば観たいな、と思っていた、その時は2023年の1月にやってきた。

 

 


当時、私は好きなエンタメの一つの終わりが発表されたばかりだった。
週の始めに発表され、動揺し調子を大いに崩して迎えた週末、私は「マスター 先生が来る!」を観た。

 

 

当時の私は結構しっかり参っていた。エンタメが終わる、そのことにもだけどそれ以上にそれでこんなにダメになってしまう自分に嫌気がさしていた。
眠れないし、寝ても起きるし、周りの人には心配される。会ってる間、まともに笑ってられる自信がないから随分前から約束していた友人との約束をキャンセルことも検討する。結局、会ってくれた友人たちとの飲み会でバカみたいにお酒を飲み、結構ダメな感じに酔って二日酔いになる。
いつかエンタメ一つで情緒がぐちゃぐちゃになることが弟として恥ずかしいと言った弟にすら心配され、毎日生存確認のようにLINEが送られてくる。

 

 


他人に言われるまでもなく、そんな自分が情けないと思う。

 

 

 

 

恥ずかしかった。「たかがエンタメに」と笑われるのが怖くて悔しくて、自分に何度も思った、その言葉を向けていた。たかがエンタメに。こんなぐちゃぐちゃになってどうすんだよ情けねえ。


そうやって責めながら1週間過ごして、そうして二日酔いでふらふら友だちと向かった(本題とズレるけどそんな中「気になる映画があるんだけど一緒に行ってくれないか」という誘いにいいよ、と言ってくれる友だちは本当にすごい)映画館。そこが、全部、私にとっては始まりだった。

 

 


マスター先生が来る!は二日酔いの頭にすら、ど真ん中に突き刺さった。格好いいアクション、音楽にダンス、魅力的な役者たち。最初こそ「結構体調戻ってないけど3時間の映画とか大丈夫か」と不安になっていたのに、途中から二日酔いは完全に醒めた。
魅力的なストーリーに夢中になり、笑い、泣きそうになる。
そうして突き進む物語の中、ヴィジャイさんが演じるJD先生がスクリーン越し、しっかりとこっちを見据えるシーンがあった。
(どのシーンかは、あの映画を観た人はみんなわかるだろう)

 

 

そこで観客を信じてくれる、真っ直ぐこちらを観るJD先生に、いや、ヴィジャイ・タラパティに私は心を奪われた。

 

 

 

「たかがエンタメに」こんなにボロボロになってる自分だなんて下げる必要なんてなかった。スクリーンの向こう、エンタメを作る人たちが、こんなに自分たちを、私を信じてくれる。ただ、楽しむだけじゃなく、楽しませるだけじゃなく、そこに込めたものは届くのだと信じてくれる。
それは見当外れかもしれないけど私にはあの時エンタメに心を動かし、頭を持っていかれることを、そこから生活が人生が変わることを、肯定してもらえた、そんなような気がしたのだ。

 

 

 

 

だって、彼は、彼らは信じてる。自分の作る虚構が、現実を変えることを。ただの虚構でないこと、誰かの背中を押すこと、折れそうになる心を支えること、行動を始める第一歩をくれることを。
それは、もちろん、インドの現状に向いている。だけどそれだけじゃなく、この世界に生きる私たち含めて、全員に「あなたはどうする?」と問いかけてくれる。

 

 

 

それから、夢中になってヴィジャイ作品を観た。あの「マスター先生が来る!」がたまたまなのかと思った。だけど、そんなことはなかった。彼は、少なくとも私の観たここ数年作られた全ての作品で、私にスクリーン越し、語りかけてくれた。
あなたはどう生きるんだ、目を開いて現実を見て、一緒に暮らす人たちを見て、心を動かして頭を働かせて、あなたはあなたの生きる世界を手放してはいけない、投げ出してはいけない。
それが、その一つ一つが、私は嬉しかった。

 

 


観るたび、考える。
子どもを搾取すること、医療の平等性、選挙に参加すること、自分の生まれや育ちを誇ること、女性の尊厳、身近な人を大切に思うこと。
自分の人生は自分のものだということ。自分で、自分の人生を歩むのだということ、自分で人生を、描いていくこと。

 

 


その彼が、映画だけではなく現実でもチャリティを行い、映画の中のように「ヒーロー」でいることに驚き、惹かれ、誇りに思った。
そしてその道の先、それだけじゃ届かないところ、変えられないもののためにその政治のど真ん中に進むという知らせに、「ああそうか」と思う。
ほんの少し、悔しくもある。変えられない、と思ったのか、と少しだけ思う。だけど、そうじゃないんだろう、とも思う。それこそ「自分の人生を自分の思うままに描く」その中で、最短距離、届く場所が広い手段を選ぶ、そういうことなんじゃないか、とも思う。

 

 

 

 

その道が、少しでも明るく健やかな道であることを祈る。心身の健康を、周囲のひとの幸せを願う。

 

 


同時に、「彼のこれからのエンタメ」がどれだけ観れることへの不確実さへの不安や寂しさの気持ちもいくつも目にして頷く。私はたまたまこういう感じ方をしただけで、それ以外、寂しいが大半を占める気持ちになる、その心も(想像にはなってしまうけど)わかるよ、と思う。わかりたい、と思う。
彼の作品はそれくらい、魅力的だから。まだまだ、私もたくさん、観たいと願うから。

 

 

 

 

だからこそ、私はこうして今回、文を書いていたかった。好きだと思うこと、あの時、たかがエンタメではないと勇気つけられたこと、その先に、現実の世界を変えようとする姿を好きだと思ったこと、自分の背筋を正されたこと。それを、これから変わり続ける世界の前に形にしておきたかった。

 

 


私は文を書くのが、言葉にすることが好きだから。そして、もしよければ、色んなあなた、に思う。あなたの言葉や心を、言葉に、もし言葉がしっくりこなければ、絵に、料理に、音楽に、行動に、生活に。どうか、そうして表現してくれますように。だってそれは全部「それくらい」のことでも「たかが」でもない。生きて、出会ったから、心を動かしたからこそ、生まれたものだから。なんて言うのも、お前は何目線だよ、という傲慢さを孕んでしまいそうで、本当に難しいな、と思うんだけど。

 

 

 

なんというか、ともかく、私は、彼に出会えて良かった、と思う。そして、熱心なタラパティアンではないと言いながら、これからも「彼のファンです」と言い続けたい。だから、言葉を尽くす。好きだと思う。そして、生活の中、考える。自分の人生に真摯でいる。誰かを傷付けず、追いやられるひとに心を寄せて、自分の国に、街に、生活に関心を持ち続ける。
好きが、生活に続くこと、届くと信じながら届けてくれたいくつもの物語や作品を、愛しているから。

 

 

 

そうして、あなたのこれからを祝福して、幸せであることを祈らせてください。そして出来たら、またスクリーン越しでも、あなたに会えることを願わせてください。