えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

私にとっての「ポルノのライブ」の話、あるいは姉との話

すぐに何事も言葉にしたがる人間だからと言って、どう表して良いか分からないものがないわけじゃない。
ポルノグラフィティ」という存在はその「どう表して良いか分からないもの」ボックスに長年入れてきたものかもしれない。それは幼い頃から身近な存在で自分の生きてきた中で大切な瞬間を彩ってきた一方で「自分よりも大切にする人がいる存在」かつ、転じて「自分が特別好きになるにはなんか違う存在」だったからだ。

 

 

ポルノグラフィティは、姉がずっと好きで私はその音楽をおこほれをもらうように楽しみ、好きだと考える前に当たり前に生活の中にあって考え方に影響され、そして、気が付けばライブに足を運ぶようになったバンドだ。
人気曲は、と言うまでもなくきっと彼らの名前を聞くだけで流れる音楽がそれぞれにあるんだろう。この25周年を彩るツアーでたくさんの曲を聴きながら思った…彼らは本当に多くのヒット曲、人生に寄り添う曲をずっと生み出し続けてくれているんだ。

 

 

声出しが解禁された25周年ライブ、19th LIVE CIRCUIT PG WASN'T BUILT IN A DAY。それは、私にとってもコロナ禍に入って以来初めての「ポルノグラフィティ のライブ」だった。
歌い出し、あの曲!と心が躍ること。チェックできていなかった曲も、その時間ですぐ好きになること。躍ること、手を挙げること、シンガロンすること。
そこは変わらない幸せな空間で、そしてあの頃以上に魅力が増した時間だった。

 

 

一曲目、二曲目、とライブが進む。ステージのモニター映し出された客席で、お客さんがタオルで顔を押さえる。それでも目を逸らさず、この時を見ていたい、覚えていたいと真っ直ぐステージを見つめるその姿にああ、と思った。映し出される歌詞が、昭仁さんの歌声が、何かを溶かしてくような気がした。
ああ、疲れてたな、と思う。疲れてた、私は。

 

 


ああ、伝わらないんだな。
そんなことをここ最近、何度も思ってきたんだ、と気付いた。
言ったんじゃん、説明したじゃん、伝えたじゃん、聞いたじゃん。
そういう取りこぼされた言葉に勝手に「軽んじているんだ」と幻滅し、そしてそんな自分に嫌な気持ちになって。
私はきっと、ずっと「伝わらない」と傷付き続けいるんだと思う。本当に、どこまでも情けないな。

 

 

 

言葉を音を受け取り、自分の感情や心に沁み渡らせて、また新しい波が生まれる。そんな光景を「ああこういうのが好きだな」と思いながら、自分の中にあった嫌だな、の形を自覚する。伝わらない、言葉にしても意味がない。だったら、口を開かない方が関わらない方が、何も見ない方がいいじゃんか。

 

 


それは例えば溜まりに溜まってその日一緒にライブに足を運んだ姉にも向いていた。チケットの段取りや当日に会う約束をして、落ち合って話しながら、以前と違う会話のテンポにばかり思考がいった。最近、私は本当にダメで、そんなんばっかだ。
ああ、前はもっと普通に喋れたのに。全然、伝わらないじゃないか。

 

 

家族だったとしても……いや、体感に沿わせて言うなら、家族だからこそ、うまく話せなくなることがある。小さな「伝わらない」がビリビリと痛くて許せずに、どんどんと溝が深くなってしまうことがある。
変わってしまった、と自分にか姉にか分からず、多分その両方に思いながらがっかりする。

 


あーあ、傷付くことばっかりだと身勝手にも思う。

 

 


姉の影響で好きになったロックバンドだから、姉が楽しく過ごして欲しい。だから、最初、隣に立つ姉側、左半身がやけに緊張していた。
そんな必要ないのに。
だけど、飛び跳ね、手を挙げ、踊ってるとそれすら馬鹿馬鹿しいというか実感として「そんな必要ないんだ」と気付いた。

 

 

私たちは、今までもライブ中、何を話すわけではなく、それでも各々楽しむこの時間の終わり際「楽しかった」と叫ぶことが好きだった。

 


今まで、一緒にいろんなライブに行った。

 

大阪城ホールで興奮しなから帰ったこともある、喧嘩して噴水のところでバラバラに帰ったこともある。東京ドームで帰れなくなって探したドミトリー、急遽追加した三重公演でドライブ中歌いながら向かったこともある。帰り道聞き込んでなかった曲の歌詞をネット検索して覗き込んだこともある。
私はそういうこと全部ひっくるめて、「ポルノグラフィティのライブ」が好きだったのだ。

 

 


思い出に25年積み上げてきた音楽が寄り添ってくれる。口ずさめる曲、口ずさめない曲、そのどちらも紛れもなく「ポルノグラフィティ 」の曲で私は毎回にまにましてしまう。うっかり手拍子を間違えてしまう。だけどそれでもいい、楽しいのだ。

 

 


ところで、ポルノグラフィティの音楽と聴いたらなんの曲が浮かぶだろう?
アポロ?メリッサ?アゲハ蝶?サウダージにオー!リバル……アビが鳴く……。名曲がいくつもある。
アガる曲、癒される曲、言葉にならない恋心を失恋の苦しさを歌う。
繊細な言葉に、洗練された音楽。そのどれもが私は好きだと思う。
そしてその言葉の一つ一つにああそうか、ここにあったのか、と思った。
伝わらないこと、音楽で伝えたことが伝わらないこと、それでも歌うこと、愛や希望、憎しみや、悲しみについて。
幼い頃漠然と音楽に興味を持って最初に「歌を練習」したロックバンドの音楽は、音楽の楽しさとそれ以上にそれを通しての価値観を私にくれた。
奏でられる音楽一つ一つに自分の日々の中でつぶやく、唱える言葉を見つける。
更に言えば、ここ最近の彼らの曲では「ここでゆっくりしていきなよ」と声をかけてくれるような温かな毛布をくれるような、そんな感覚になることもある。
それは数年前から私が感じるようになったことで、もしかしたら世間やファンの間の中では違う認識もあるかもしれない。なんならそもそも疲れ切ってライブに足を運ぶことが増えてしまったから、そんなふうに感じる可能性だって高い。

 

 

だけど、こんな世界の中で。毎日の中でなんとかギリギリやっていくような毎日の中で、「ここで思い切り楽しんで、明日からの活力にしてもらえたら」と音楽を奏でてくれる彼らの姿に私はどうしたってそんなことを思ってしまうのだ。
そうしてそこで休んで大きく息を吸って、楽しんで過ごしたら明日からきっとまた大丈夫になる。
バカになって踊って歌って、飛んで跳ねた私は大丈夫だ。

 

 

大仰なことを言えば、生きるのすら諦めそうになる日がある。シリアスさなんて微塵も滲まずただ積み上がった「やだなあ」に放り出したいな、面倒なことからは逃げ出したいなくらいのフランクさで。
だって、家族にすら伝わらないんだ。一体、何をどうやってやっていくんだ。家族なんて、とも思うのに。
だけどそうじゃない、そうじゃないよな。
音楽を歌い、踊り、聴いた私は思う。

 

 


そういえば、終わった時、姉と「やばかったね」「最高だったね」と口々に言い合った。そこにいるのは、よく知る姉だったし、きっと彼女にとっての私もそうだった。
その時には始まる前の「どうやって話したら良いんだろう」という戸惑いは嘘みたいに溶けていたのだ。