えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

おげんさん 第5夜

奇跡みたいな夜だったな、と考えて、今年、何回こうして源さんが夜を変えてくれたんだろうと嬉しくなった。
何回あっても嬉しい、何回でも、噛み締めたくなる。そんな夜がまたやってきた。


おげんさんといっしょは「偏愛的音楽番組」である。
星野源がゲスト共にただ音楽を演奏するのか、と言われると半分イエスで半分ノーだ。私が今更書く必要もないほど人気で有名な番組ではあるけれど。
彼らは音楽を奏でるし歌うし踊るけど、それだけではなく、好きな音楽の話をともかく楽しそうにする。

そう、私がおげんさんが好きなのはここなのだ。楽しそう。もうそれは、ただひたすらに。



かかる音楽は彼ら自身の曲だったり今だから、この人だからの選曲ももちろんあるんだけど「大好きな曲だから」で紹介され、演奏し、歌う姿はなんだかとても幸せな気持ちになる。


音楽って楽しいや好き、があるんだなという当たり前のことを私は嬉しい気持ちとともに噛み締めていた。
次々と面白いことが起こるものだから、「楽しい!」と大はしゃぎして、嬉しくなって、画面を見つめていた。


そして、パペトーーークですよ。
パペトーーーク、凄かった。
ハッチポッチステーションクインテットとのスペシャルコラボ。発表当時から楽しみだったコーナーは、想像を遥かに越えて私の心に刺さりまくった。

ハッチポッチステーションを見ることは、小さい頃私の日常だった。特に意味がわかって見ていたわけじゃない。
なんなら、今回の放送で「そうか、ハッチポッチステーションって洋楽のパロディをしてたっけ!」と思い出したりした。



それがなんの音楽か、どういう内容かきちんとは分かってなかったけど、私はハッチポッチステーションが好きで、そこで流れる音楽が好きで、口ずさんでいた。
大きくなって「洋楽」がちょっとハードルが高くなったりしたけど、でも例えば『ボヘミアンラプソディ』を観て改めて出会った名曲の数々に「ああ!」と感動したこと。
それは、もしかしたらハッチポッチステーションの時間の影響も大いにあったに違いない。


詳しく解説できるほど覚えてたわけじゃないけれど、それでもグッチさんたちのやりとりを観ていると懐かしく嬉しくなったのは、彼らが私の成長と一緒にいてくれたからなんだ。
クインテットはどんぴしゃ世代ではないものの、横目で眺めてはいて、やっぱり懐かしくて、ああそうそう、と頷きながら聴いていた。例え、熱中して見ていなくても一緒に育ったなかで存在した番組はまるで故郷の景色の一つだし、そのキャラクターたちは故郷で出会う人々なのかもしれない。



そして、そんな彼らがうちで踊ろうを歌い踊ること、いつかの幸せは今も一緒に、同じ時代を生きてること。


うちで踊ろうはやっぱりなんというか特別な曲である。
源さん自身が「あの現象自体が作品」と口にした通り、2020年を、そしてそこから続く今を映し出したような気がする。
そして、そこにピリオドを打つために作られた「うちで踊ろう(大晦日)」を彼らが歌い、演奏する。
うちで踊ろう(大晦日)を初めて聴いた去年の紅白、私はわりとボロボロに泣いた。



私にとってこの曲は、どんな状況でも「楽しい」をするのだという反骨と強気な一曲で、
誰かを元気付けるとか、もちろんそれもあるとは思うけど、それ以上に
「絶対に絶望しきってやるか」という地獄で遊び続ける星野源の意地と狼煙のように思える。
そしてそれを口ずさみ続けた私にとって、許せないことや苦しいことも引っくるめて「諦めてたまるか」という曲なのだ。


それを、彼らが歌っていた。演奏して、踊っていた。一緒に。
一緒にただただ楽しい、を繰り返してきた彼らが「疲れたね」も「クソだね」も「僕らずっと独りだと諦め進もう」も口にしてくれること。
そしてそれでも変わらず、あの頃と同じ、
"音楽は楽しい"ということを奏で続けてくれること。




それは、私にとって、奇跡だった。
あの楽しかったころと地続きだという現実は悲しくもあるけど、力強さが圧倒的に勝った。


おげんさんは、そしてハッチポッチステーションクインテット
○○だからダメ、○○だからムリ、じゃなくて
楽しそうだからやってみた、なんだよな。
それが、本当にずっと嬉しかった。


POP VIRUSで源さんが歌ったように、全部の始まりが音楽から始まったならいいな、と願った。
何が正しいとか、何が偉いとかじゃなくて、
そういうのじゃなくて、
楽しいとか面白いとかそういうのがいい。
それは、希望だけ、面白いものだけが見たいって話ではないんだけど、大いにニュアンスだけしかなくて、伝わるか分からない。



言葉にできない
白黒ハッキリできない
伝わらない



そんなものが多すぎるなかで、それでも同じ音楽をまるで"おんなじ"みたいに笑って楽しんで愛せるならその中身に違いがあったとして、それは「ほんもの」だと思うし、
私はそんな瞬間を幸福だと呼びたいのだ。


そしてあの時、あのおげんさんを観ていた時間は、確かにそんなものを感じたような気がする。


創造で締め括ること、ズラして真ん中にして「面白い」ことをしよう、そう笑ってくれる彼らがたまらなく好きだった。
このまま進もうと、根拠もなく思えた。
面白いことをしよう。
そしてそれは突拍子もない「天才」にだけ許された遊びなんかじゃない。当たり前に積み重ねてきた常識をほんの少しずらした、そんな先にあるんだ。



源さんが、パペトーーークを見て泣いてるのが無性に嬉しかった。
彼自身が信じた、面白いを突き詰めたその先がああして形になること、それをああして嬉しそうにしていること、ああもうほんと、ちょっと幸せ過ぎたな。


年の暮れが近づく頃、今年できたこと、できなかったこと、嫌なこと嬉しいこと
そういうのを全部「おつかれ」って言って
しんどいねー、なんて言いつつ
好きなものの話などをして
「だから好きなんだよね」って笑いながら言い合って
なんとか嫌なことばかりな毎日だけど精一杯面白がってやっていきたい。

そんなことを改めて思う奇跡の夜を私は忘れない。