えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

宴会 鳳凰編

音楽をやっている星野源が好きだ。
先日放送されたおんがくこうろんをはじめ、色んなところで話されている悲しいことや苦しいこと、辛いことを明るく歌い上げる源さんが好きだし、音楽をしている源さんを見ていると嬉しくなる。
ああこんなに面白いこと、楽しいことがあるのだと何度も思う。


私は星野源を面白いの天才だと思っている。



いつだか、面白いが人生で一番大切だと語った言葉を体現するように源さんは次々と面白いを生み出すし、それを楽しそうに言葉にする。
この宴会だってそうだ。クローズドな配信ライブでいつもはなかなかやらない曲を色んなアレンジで聴かせてくれる。
何度も聴いた音楽を奏でる姿を初めて見てああそんな曲だったのかと知らない一面を観る興奮はすごい。音だけではわからなかった楽器を演奏する姿、歌うときの表情が伝える歌詞の景色。
そうして音楽で遠慮なくあちこちに連れて行ってくれたあと、打ち上げパートを見せてくれるというのだから至れり尽くせり、あまりにフルコースすぎて、けっこー、ビビってしまう。
思い付かないような面白い、に私はいつもわくわくするし、どきどきする。知っていたつもりになっていた世界の知らない一面が増えるたび、なんだかもう、言葉が心の奥底、ぼこぼこ沸き立って分からなくなる。楽しいとか好きだとかそういう言葉だけがひたすら埋め尽くしていく。



イデアをずっと聴いていた時があった。どん底で何も良いことがなく、楽しくもなく、全部嫌だなあと思って、せめてもと思って好きな曲を聴こうとアイデアを道端でダウンロードした。
曲としては知っていたし何度もMVをYouTubeで観ていたから、それは本当に何気ない行動だったんだと思う。
耳につけたイヤフォンから源さんの歌声が流れる。それを聴きながら大丈夫だと唱えて、でも唱えながら虚しくなる。こんなにすごいものがあるのだという嬉しさすら、その時は自分のちっぽけさを際立たせるものでしかなかった。
それでもそういうものからなんとか目を逸らそうと何度も何度も繰り返し、アイデアを聴いていた。


半ば呪文のようなそれががらりと変わったのは何度も聴いたはずの歌詞が飛び込んできた時だった。

あなたの胸から
刻む鼓動は一つの歌だ


何もない、クソ面白くもない、しんどいことばっかりだと自分を心の中で罵っていた気持ちがぴたりと止まった。意味なんてないと思っていた心臓の音も、今この耳で流れる素敵なものと同じだという。同じ、音楽だという。
そんなこと言われてしまえばそうかもしれないと思ってしまった。だとしたら同じように大事にしたいと思った。



今回も、好きな曲が流れて何度も聴いたはずなのに出逢い直しをたくさんした。
最初のエピソードも、ダンサーも、ストーブも。挙げ出すときりがない。慣れ親しんだ曲たちが「宴会の○○」としてやあと手を振る。
音楽は表情でも、動きでも楽しむのだな、とその時初めて聴こえた歌詞について考えながら思う。
さらには、リアルタイムで観た初見と、寝れないなか再生したアーカイブとではまた表情が違うんだから、楽しくて仕方ない。きりがない。ずっとずっと、楽しい。



本当は宴会の感想で大袈裟な物言いをやめたかった。
でも、あの数時間でもらったものがどれくらい嬉しくて愛おしかったのかを表すには持ってる言葉を総動員するだけじゃ足りなくて、そうなると私はなるべく強い言葉を使いたくなってしまうのだ。それもまた、ほんとに、悔しい限りなんだけど。



楽しいことだけがあるわけじゃない。面白いことばっかりがあるわけじゃない。
むしろそれを打ち消すようなことばかりで、それを誤魔化すために好きなものを見ていると思われるのが癪なことが多過ぎる。
そんなものにしたくないくらい素敵で大事なものなのだ。それからそんな誤魔化したりできないクソばっかりでもある。

星野源が最後、「本当にもう、本当にやなことばっかりだよ!」と力いっぱい叫んだ時、ああほんとだよ!と画面前で叫びたくなった。
それでもなんだかニコニコ笑っていた。べつに嫌なこと全部を忘れたわけじゃない。好きなものがあるから良いかなんてことも思ってない。怒りのようなものはいつだってお腹の底にある。
だけど、楽しいと面白いをとびきり詰め込んで笑って大きな声で音楽を奏でる星野源を観ていたら、絶望しきるみたいな簡単なことよりも面白いを探し続ける難しいことをやりたくなったのだ。それはしんどいこともあるだろうけど、はるかに、楽しいと思うので。


そうした先に、きっと笑顔で会う日がやってくる。好きになったこの数年、何度目かの源さんとの約束を噛み締めながら、そんなことを思うのだ。