えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

カラオケ行こ!

映画カラオケ行こ!の好きなシーンは数多くあるが、どれか一つだけを選べ、と言われたらあの大人数のヤクザたちに囲まれながらのカラオケ教室のシーンだと答えると思う。
それは狂児にしがみつく聡実くんの可愛らしさもあるが、それ以上にあのシーンを観た時にこの二人が出会った時間や、あの愛おしい作品を生身の人間が演じることの意味のようなものがストン、と自分の中で腑に落ちたからだ。

 

 

 

 

聡実くんの「声変わり」の描写をはじめ、合唱部の、そして映画オリジナルである映画部とのやりとりで「中学生なんだよな」としみじみ思う。大人びて思っていた彼は中学生なのだ。
25歳歳の差のある彼らがあの距離感で関わり惹かれていくこと、そして離れることのなんとも言えない感覚がとんでもなく面白かった。

 

 

 


そうしてそう思うと狂児のきちんと線を引く姿は「大人」だと思う。
今回、随所にそんな「大人」と「子ども」のことを思った。ヤクザ……ブラック企業に勤めながら、カラオケを教えてくれ、と中学生に頼む男ではあるけれど、それでも「こっからはダメ」という線をきちんと引くことができるし、度々「子ども扱い」してくる。
それはすごく、大人だ、と思うとともにずるい男だな〜!と叫びたくなる。
そもそも、この狂児という男を演じる綾野剛さんのお芝居はすごい。見た目、声の抑揚や目が追う表情、役によってがらりと雰囲気が変わるところ。すごいところ、魅力を語ろうと思うといくら文字数があっても足りなくなるくらいなんだけど、何よりも彼のことをとんでもなく好きになってしまうというところにあると思う。
善人の役をやっていても、悪人の役をやっていても「彼をもっと観たい」と思わせる。そんな魔力が、彼のお芝居にはあると思う。
そしてそれはスクリーンのこちら側だけじゃなく、スクリーン内でもその魅力は爆発していた。そもそも狂児という男は作中でも「ヒモの才能」があると描かれていたし、実際言葉選びや行動一つをとっていても「良い」のだ。
そうして、それが綾野剛の魅力と掛け合わされる方でとんでもない存在になるのである。

 

 

 

ともかく、カラオケ行こ!は魅力に溢れる登場人物たちがひたすら出てくる映画だったように思う。
狂児と聡実くんという目の離せなくなるふたりはもちろん。ヤクザの方々も画面いっぱいに魅力的だし、家族や合唱部の、そして映画部の彼など、画面が常に魅力的な登場人物で溢れていることがすごく良かった。
聡実くんの日常パートが豊かであればあるほど、狂児とのシーンがたとえほのぼのしていたとしても若干の異質さを孕んでいるように感じられたのもあの日常パートがあったからじゃないか。

 

 


合唱部の和田くんが、特に好きだな、と思った。
部長への憧れや聡実くんの変化に思い至らないところ……いや、もしかしたら思い至ってるかもしれないが、それがああして発散されるところなど、聡実くんとは違う意味で「子ども」を際立たせていたように思うし、というかそうだよな、中学生って子どもだよな、と改めて思う。
苛立ち、部員から「子守」と呼ばれてしまうような危うさ・面倒臭さは聡実くんの自分の変化への戸惑いや不安をより明確にしていたように思うのだ。
そしてそれは映画部の友人とのやりとりの現実と地続きというよりかはもう少し生活の遠いところにあって、でも同時に心の奥底にあるものと共鳴するような空気感と、それぞれ魅力を発揮していた。本当に一瞬足りともダレることもなく、また無駄もなく進む映画だったのだ。
そしてその時間の一つ一つが聡実くんがどんな人かを教えてくれ、また狂児の関係性を鮮やかにしてくれる。

 

 

 

 

そうしてその中であのヤクザたちとの大人数カラオケが光るのだ。
大人数カラオケはテンポ良く、バカバカしく進む。どう観てもコワモテないかにものヤクザたちが真剣な顔をしてカラオケに向き合う。
その姿は、聡実くんにはどんなふうに映ったんだろうとふと観ながら考えた。バカバカしくて「なにしとんねんこの人ら」と呆れてしまいそうにもなるその真剣な様子を私は、とても好ましく思った。間違いなくバカバカしいのだけど、私はそんな様子が妙に嬉しかったのだ。なんならそれはどこか「そうそう、大人って結構くだらなくてバカバカしいんだよな」と思えたからかもしれない。

 

 


そうして「聡実くん、大丈夫だよ」と言いたくなる、嬉しい時間だった。
大丈夫だよ、大人って案外、悪くないよ。

 

 

 

 

狂児はそれをどこまで思っていただろうか。でも別に「大人も悪くないよ」なんてことを言いたいわけじゃなかっただろう。ただただ、子どもの彼を愛おしく可愛く思っていたんだろうな、と思う。
それは単に憐れみという話というよりかはそうして過ごしていく中で、確かに狂児にも満たされる何かがあったのだ、と思う。

 


そうしてそれがどんどん加速して、弾けきったあの一生に一度の紅を聴くことができて本当によかった。あの歌声を聴くためだけに劇場に足を運ぶ価値があると、心底思う。

 

 

 


大人はなんでも知ってるわけじゃない、寂しくないわけじゃない。だけど、そうして生きてきた数年分を使って、大切にしたいことが、あるんだよな。そうしてそれは狂児がきちんと引いた線が、逆に彼が聡実くんのことをどれだけ大事にしているかの証左なような気もするのだ。
そして、何より、そんな狂児とってあの紅は本当に嬉しかったのだ、と思うととんでもなく心があたたかくなる。ああほんと、愛だな。

 

 

 


大人から見た子どもで、子どもから見た大人で、
だけどそれすら全部最後は野暮になるような「狂児と聡実くん」のお話だった。

 

 

 

どちらがどちらにより、という話ではなく、互いに互いのないところ、足りないところや過ぎるところを愛おしく思うことはきっと、あるのだ。
なんなら「愛」や「愛」に似た何かのつもりで手渡したもの以外に惹かれたりもしたんじゃないか。そのくらい、しきりに画面上、ぱちぱちと弾けた、あれを愛と呼ぶのかもしれないし、そんな現象を青春と呼ぶんじゃないだろうか。

 

 

 


好きだ、ということすら追いつかない、鮭の皮をあげるような、そんなどこか可笑しさすらある愛の話だったと今、私は思うのだ。