えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アンサンブル・プレイ 11月12.13日in神戸公演

※セトリやMCに言及しています、ネタバレにご注意ください。またMCについては記憶をもとに書いているのでうろ覚え&私の解釈です





アンサンブル・プレイ、群像劇。
色んな人がそこにいて、交わること。



アンサンブル・プレイ神戸2daysに行ってきた。
座席指定されてるライブでは生まれて初めてな神席を引いたり、個人的にちょうど山場直前だったりした結果、思い入れのある2日間になったと思う。
そしてなにより、参戦した3回が3回、全部違う思い入れ、景色になってるから不思議だ。いや、不思議ではないか。だってそこにいた人は、3回が3回ともみんなばらばらなんだから。




フィクション、ストーリーテリングに重きをおいたこのアルバム、そしてそのアルバムを提げたツアー。それに触れれば触れるほど、大好きになっていく、特別になっていく。
更に面白いことに「誰かの話」であるこの曲、このツアーがどんどん「Creepy Nutsの話」になっていくのがたまらなく面白い。




最初に入ったのがZepp Nagoyaだったからライブハウスとホールでの違いも楽しめた。



名古屋がもみくちゃになりながら楽しむライブで、神戸はそれぞれの席でそれぞれ、だったから違う味わいだった。それは名古屋とは違う「そこにいるひとたち」を感じるライブだったからかもしれない。




あの後ろからの熱気というか「いま死ぬ気で音楽を楽しむ!」の空気が愛おしくて何回かそれで泣いた。まじでみんなで奏でたアンサンブル・プレイだった、そんな気がする。
ここにいる人たちはみんな違う、違うけど、今、ここで同じ音楽を楽しんでる。
それこそ「ああ自分の曲だ」と思う瞬間はそれぞれ違うんだろう。なんなら、そんなこと思わず終わる人たちもいるのかもしれない。だけど、今、この瞬間、たまらなく楽しい。それが嬉しい。




スポットライト前MCでR-指定さんが言った「自分の人生や気持ち、出来事にバチっとハマる瞬間」があるかもしれない、だからそっちもスポットライトで照らされてることを忘れないようにという言葉(意訳)が響く。
そして、それは前年に実施されたツアーCaseやかつて天才だった俺たちへのMC、あるいはサントラが生まれた時のラジオでの言葉を思い起こさせる。


どこまでも「俺の話」あるいは、今回に関して言えばフィクション、ストーリーテリングなのに気が付けば「ああこれは自分の話だ」と思うこと、重なること。人生の節々に効いてくるサントラになること。
なんなら、2度目3度目のツアー参戦だったにも関わらず、入った公演それぞれに「ああこれは」と思ったのが違う瞬間なのが面白い。



それは、武道館での5周年記念ライブの時に思った「重ねることの居心地の良さ」にも通じている。
彼らの人生にタダのりしていないか?勝手に重ねることはありなのかと自問自答したことだってあった。だけど、どうしたってそこにある言葉に音に、全く関係ないはずの自分の人生が、気持ちが、出来事が思い起こされる。寄り添ってもらったような、色付けてもらったような、そんな心地になる。
それはもしかしたらR-指定さんやDJ松永さんがそうしながら重なるところ重ならないところ含めてHIPHOPを、日本語ラップを楽しんできたからこそかもしれない。



今回の神戸公演はいつも以上に「この人たち格好いいな」とともに「この人たち楽しそうだな、音楽が、日本語ラップが好きなんだな」と思った。私はそれが心底嬉しく、居心地良く、最高だと思った。



自分の話をしながらでもそれが届くことを楽しむ音楽。
たとえ、届いたとしてもそれが自分の思うような形であるかは分からない。
それでも、だとしても良いのかもしれない。各々が各々のやり方で好きなように楽しんで、それが一つの空間であんな楽しくて居心地のいい空間になるんだから。





そんなことを強く思ったのは、「泳がせてみませんか」というR-指定さんの言葉がお守りのようになったからかもしれない。
これは春の生業札幌からだけど、R-指定さんの言葉との向き合い方、色んな物事、気持ちへの付き合い方で出てくる言葉・表現が好きだと何度も思う。なんなら、出会った時からずっとそんな表現に「言い当てられる」ような心地よさを感じてきた。



かつて天才だった俺たちへの前のMC、どんどん好きになってしまった。

私には「これしかない」と思えるものがなかったな、って思うことすらあったけど、なんか神戸公演ではそうやって、整えてきたもの、今も整え切れてなくて、苦しんでるものを「それでいいよ」って言ってもらったみたいな、なんか、ゴリゴリ日々削ってる苦しさみたいなのが薄まるMCだった。

「泳がせたってください」って優しい言葉だな。

だし、なんというか、ダメなことはダメって言うけど、でも無駄だって言われたり、間違ってるって言われたりすることの向き合い方というか、「だがそれでいい」と言ってもらえたような気がする。矛盾もダメなところも余白も全部あるのがCreepy Nutsの音楽だといつかのインタビューで語っていたけど、それはこんな優しい形をしている。


「こうあるべき」に押しつぶされてにっちもさっちもいかなくなりそうになるたび、彼らの音楽が「ちょっと楽に息ができる場所」をくれてきた。



改めてR-指定さんってずっと本当に考え続けてるひとなんだなあと思ったし、なんというかそういう人が言う「泳がせてみませんか」はどこまでも優しい。いや、単に優しさというのもなんか違うかな。でもそうだよな、白黒はっきりしてこれって結論出せることなんてそう多くはないのかもしれない。
だって、私たちの毎日は生きて明日からも続くんだから。




ばかまじめのMC、のびしろのMCにも繋がるんだけど、頑張らなくて良いって言ってもそれでもどうせ頑張る、苦しむ、あとちょっとって足掻く人たちでしょ、って信じてもらえたことにも
あなたたちには届くでしょ、って言葉を尽くしてもらえたことにも、嬉しくて泣いてしまった。
なにより嬉しかったのは、大好きなアーティストが「この人たちになら届く」って信じてくれていることだったかもしれない。



何度だって彼らの話に、音楽に自分を重ねて奮い立たせてきたから、そう言ってもらえることが嬉しかった。声は出せなくても届いてるという言葉も、本当に嬉しかった。
自分にとって「あと一歩」を歩き出すために聴き続けてきた彼らは、同じ地続きの場所にいた。




ばかまじめ、ずっと好きだったけどこのライブで更に大切な曲になった。

「やっとここまできたんだよここじゃ終われないんだよ」

ほんと、そうだよ。


きつくてもしんどくても、ここまで来るために必死になってきて、やっとなんとか掴んだものがあってそれのせいでしんどいことは否定できないんだけど、終われないよね、といつも思うからそれ生で聴くのが刺さったのもあるし
ライブではちょうど、その瞬間R-指定さんの背中を見つめるみたいな構図の中でCreepy Nuts、とも、R-指定、とも思えて、余計に共感や自分には想像も及ばない何かのかとを思って言葉に出来ない感情になった。
これは武道館で、ずっと嵐の中にいるんだなあと改めて「勝手に」解釈したからかもしれない。

私はどんなに苦しんでても本人がやりたい表現ならやるしかないし、それを「やるべきではない」ということもどうなん、と思うけどど、それはそれとして、「ここじゃ終われないんだよ」「辛いきついもいつかは笑い話にできると信じてるんだほら」にそうだといいな、と思う。
私も彼らも、みんなも、そうだといいな。




神戸公演で、わりとまじで「大丈夫」になった気がするし、したいし、なんか、今まではここで「大丈夫」って思ったのにすぐに「大丈夫じゃない」になる自分を許せなかったんだけど、R-指定さんのMC聴きながらまあ良いか、って思ったので、なんか、良いか。そう思った。


ちゃんと受け取ったものをエネルギーに変えられない自分も口だけの自分も許せなかったしそれは今でも嫌いだし、なんなら何事も重たくしか考えられないこととか口ばっか達者なこととかその他諸々クソだなって半年自分を否定してた部分をもういっか、できるライブだった。
生きてるんだもんな、と思ったし、生きていこうな、と思う。そこにこんな素敵な音楽があるんだから。



そしてDJ松永さんがハケるとき、ほんとにちょっと目がきらきらして見えて、なんというか、いい時間だったならよかったな、と思った。R-指定さんの言う、この時間の非日常や幸せが彼らの何かプラスになると信じたくなるような、祈りたくなるような表情で、本当に繰り返し思い出してる。



なんというか、私は本当にあのふたりが好きなんだよ。本当に本当に、あのふたりが好きで、あのふたりの音楽や表現が好きなんだよ。今日、アリーナ1列目で、本当に近くて、なんか生きてんだよなあと思ったし、生きてる彼らが好きだったし、生きてるからここにいれた自分が好きでしたよ…。


アンサンブル・プレイというアルバムの特性というかメッセージ前提のセトリだとして、それはそれとしてどんなMCをするか、合間にどんな曲をどのタイミングで持ってくるか含めて、このツアーのメッセージをあの形にした彼らが好きだと思った。



ストーリーテリングの、フィクションの中で語られる物語やそこにいる人物たちも、すっかり愛おしくなってて
そこにいるのは、知らないけど知ってる誰かだ。
ライブという非現実的な非日常的な場所で、知らない人たちと手を挙げ飛び跳ね、笑ったこと。
色んな作り話や非日常を心底楽しんで、私たちはそれぞれの日常に帰る。だけど大丈夫だ。ここなら自分の枠を無理に曲げて削ってしなくても「楽しい」と思える場所がある。そんな時間が、人生には存在している。
そこでの記憶をもって、私はまた日常に戻れる気がする。