えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

HIPHOP・日本語ラップ、あるいは向き合うということ

HIPHOP、いや正確には日本語ラップが今、気になっている。
何を今更と言われそうだけど、私の中で確かな実感として「日本語ラップが気になる」に変化したのはごく最近のことだ。その上、それもまだ、あくまでCreepy Nutsから見る日本語ラップ、という存在が気になってる。


大きなきっかけは二つ。最近Twitterでやっている"ラジオごっこ"と悩みに悩んで参加したCreepy Nutsのワンマンツアー[Case]で観た光景だろう。


まずラジオごっこ。これは、最近私が友達とフォロワーにお付き合いいただきながらTwitterのspaceでやっている遊びである。
詳しくはいつか別で文を書きたいと思っているけど今回はラジオごっこ自体は要素の一つなのでその詳細は省略する。
ともかく、そんな遊びをやっていて、第一回で私はまさしくCreepy Nutsの[Case]について語った。ようやく手元にやってきたアルバムに興奮していた私はその一曲一曲の完成度だとか曲順の演出の凄さ、Creepy Nutsというユニットの好きなところを語り倒していた。
そんな中、聴きにきてくれた方からもらった感想で日本語ラップHIPHOPについて考える機会をもらった。
まだあの数週間前、私はそんなに日本語ラップの解像度が高くなかった。高くないながらに、その日本語ラップというカルチャーの中のCreepy Nutsについて語っただけだ。
でも、そのラジオごっこをきっかけに「ああそういうカルチャーがあるんだ」と感じてくれた人がいたという事実は私に「もっとちゃんと日本語ラップのことを知りたい」と思わせた。
なんでこんなに惹かれるのか。それは、もちろん、結局Creepy Nutsのことが好きだからという枠をまだ飛び出してはいないけれど、もっと知りたい、と思った。


そして、ライブである。
ぶん殴られたような感想についてはもう前回ブログに書いた。



元々Creepy Nutsを好きになる大きなきっかけはライブ「かつて天才だった俺たちへ」や初めて聴いたラジオでの構成のうまさだった。落語のようにオチがつき、「何故そのタイミングでその曲がくるのか」が物語的に演出されている。構成そのものがメッセージなのだというのが痛快で心地よかった。
そしてそれは悩みに悩み、落ち込み、焦がれて意味がわからない理屈を捏ねながら行ったライブで頭で以上に体感として理解することになったのだ。
ともあれ、ぶん殴られ、そのライブMCでようやく、私はHIPHOPはありのままを描く、ということを理解した。
約2時間の時間を使い、Creepy Nutsが、R-指定という人がどういう人間なのか。
何を考えて、何を思ってるのか。どんな人生を送ってきたのか。
そんなことを物凄い熱量で彼らは届ける。もちろん、シンプルに音楽として楽しみ、バースの技巧やラップとしての凄さ、DJとして楽しむだけでも十分成立する。
しかし、私がこんなにも彼らに惹かれるのは"ありのままを描く"という音楽だからだ。



嘘をつくこと、取り繕うことは「ダサいこと」とされ、ありのままをそのままぶつける音楽。
変わっていく自分の人生を音楽へと昇華して届ける音楽。



そうしたカルチャーに触れ、私は一つスッキリしたような気持ちになった。
こんなブログを書いているから今更ではあるが、私は「思ったことを書く」ことが好きだ。
そうしていないと頭の中がパンクするような心地に陥ってしまい、だからこそ、感想のみならず最近では思ったこと見たこと考えたことを形にする。
そうしながら、同時に「そんなことまで書かなくて良い」「無意味だ」「恥ずかしい」という感覚がどうしても顔を覗かせてきた。自意識と自己愛に満ちた文にどうしてもなってしまいがちだし、そんなものをネットの片隅とはいえ書いて良いものなのか、と考えてきた。
しかし、Creepy Nutsに出会い、曲を聴き込むなかで「これが好きだ」と思った。
そのままを全て描く、その中で「かます」こともあれば「自己嫌悪」を昇華することもある。
そしてそれは同時に"表現すること"の責任を背負うことでもある。そんな苦しさと楽しさを、圧倒的なパフォーマンスで、彼らは教えてくれた。


そこに自身を重ね、憧れ、音と言葉に身体を任すこと。自分が日々の中で押し殺した感情がアウトプットされていくサマ。そういうものが、私はたまらなく好きなのだ。


そしてそれは、いわゆる"推し"という存在についても考える。
三次元で活動する推し、を持つオタク、と一言で括ってもそのスタンスは様々だ。なんなら大きなジャンル分けこそできても、結局は人の数だけスタンスがある、というのが答えだろうと思う。
どれくらい活動を追いかけるのか、その人を知りたいと思うのか。知りたいと思うとして、人柄を、なのか、活動を、なのか。
それにはきっと、千差万別の考え方があり、場合によって、人はその考え方の違いでぶつかったりする。私はどうしてもインタビューだとかエッセイだとかラジオで語られる人柄含めて好きになりがちで、それはある意味推し……いや、ここでその表現も良くない気がする……人一人を「物語的に消費」していることにはならないだろうか。そう、不安になる。
先日、星野源さんがラジオで"芸能人だから"という理由で大喜利的に自分という存在が消費される、オモチャにされることを語っていた。それは何も、悪意を向けてるときだけ発生することではないだろう。
むしろ、善意だ、としてやっていること・発言がオモチャにすることに繋がることだって往々にしてあるのではないか。そしてそんな時、私はきっと、そのことに悪意でやる時以上にごとの重大性に気付かない可能性が高いと思うのだ。


だからこそ、今回、HIPHOPというその人のあるがまま、その人そのものを音楽に昇華する文化に触れて、感動した。
向き合い方の一つを示されたような、そんな気持ちになったのだ。
そして、そうした「今の彼ら」に向き合いたいと思えば、自身の背中をぴんと伸ばしたくなった。あれだけのパフォーマンスを受け取りに行くのだ、自分と重ねるのだ。まさか、情けない自分のままでいるわけにはいかない。というか、そんなん、私が嫌なのだ。



そしてそんなことを思いながら、私はひとを好きで居続けることができる、そんなきっかけをくれる"面白いもの"が好きなんだな、と再認識した。
また一つ、楽しいに出逢えて、私は本当に嬉しい。これから、どんどん好きなもの・好きなひとが増える予感にとんでもなくワクワクしてる。