えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

文を書く話

文を書くことに執着して数年。実際、小さい頃から唯一「これは私の」と言えるのが文を書くことくらいだったし、もっと言えば喋り含めて言葉を使うことくらいなので、ほぼ年齢とイコールかもしれない。


とはいえ、もう一回文と向き合おうと決めてからは数年。


「語彙がない」という言葉がある。
私自身、自分の語彙の無さにはうんざりする。
だけど、最近「語彙のあるなし」以上に表現することについて妥協するかどうか、言い当てられるかどうかなんじゃないか、と思うようになった。
この「言い当てる」というのはCreepy Nutsの動画を見ながらなるほど、と「言い当てる」さまを観て以来考えている概念ではあるんだけど、
たしかになるほど、「いいな」と思う文の多くは「語彙力」の差を感じる見知らぬ言葉と出会うものではない。
むしろ、そこにあるのはよく知る馴染みのある言葉なのに全く思いつかないような繋がり、流れになっているものだ。


たとえば、生まれたばかりの時の無限の可能性を持っていた自分を表現するCreepy Nutsの「かつて天才だった俺たちへ」とか

たとえば、お互いのことが好きで好きでたまらなくて愛おしさが滲み出るふたりのやりとりを表現する星野源の「首筋の匂いがパンのよう すごいなあって讃え合ったり」とか


使ってる言葉は、本当になんでもない言葉なんですよ。
聴いて「なにそれ」とか「知らない」って思う言葉じゃなくて「あーーー」と情景が浮かんだり心のうち、気持ちが動かされたり。



そうか、私にないのは何かを言い当てる力か、とそのことに気付いてから結構、愕然としてる。
更に言えば、源さんの「いのちの車窓から」を読み返し、本当に上手い文章とは、そのままをただ表現できること、という言葉に「そのとおりです…」と撃沈もしている。
どうしたって「こう観られたい」という欲が先立ったり自我が強過ぎたり、なんというか、かなりの添加物をのせにのせた文になりがちだからだ。
ごく稀に「書きたい」という気持ちに夢中になって書き上げられた時は「そのままを書けた」ような気もするけれど、それだって「そんな気がする」という願望含めた気持ちなのだ。



それでも、書き続けたら、書く量を増やせば、と一昨年思い立ってそれからしばらく、去年の秋まで1日50文字で物語する、というメモをつけていた。
50文字、物語、と書くが、なんてことはなく、日記に近い何かだ。ただ何を観たり聴いたり考えたりしたかをこのブログの感覚に近い言葉でひたすら書く。文字数は正確に測らないけど、1日の終わりあるいは次の日に書いているもだいたいそこそこの文字数になるので、とりあえず「毎日書く」を目標にしていた。


それで本当にうまくなるかは分からないし、結局挫折してしまったけど。



今日、ぼんやりとCreepy Nutsの武道館ライブ「かつて天才だった俺たちへ」を観ていた。そのMCのなか、R-指定さんが言う。

「弱った心をどうしよう、どうしようもできへん。それを吐き出したら表現になるし俺なんかはずっとそれです」


HIPHOPがありのままの自分を出す音楽だからというのはあるけれど、それ以上にR-指定さん、松永さんがやりたい音楽・表現がそれなんだろうと思う。そして私は、何度もこのブログで書いたとおり、そんなところが大好きなのだ。


なんだかここ数日、妙に落ち着かなくて、それは文を書いていなかったからかもな、と思った。とりあえず書こうと思って、特にオチもなく、この文を書いた。言い当てるなんてまだまだ程遠く、語彙だってないけれど、書き続けたらそれが表現になりますようにと願ってる。



一昨年から去年のあいだ書いた1日50文字を物語にするを読み返したら、確かにちょっと、表現だな、とは思ったので。

山場をほぼ越え切ってとなると、次は生活がやってくるしんどさがあるな。
いつか死んだら全部なくなるのに、なんて投げ出し方をしないように言い聞かせている。
少なくとも、今日この街を懐かしめたのはそういう無駄を続けてきたからだ。


何百何万と書いてたら、どっかで一個くらい「言い当てられた」表現にぶつかるかもしれないことを願って、ひとまず。1日50文字で物語にするリベンジというタイトルのメモを作ってみた。


"言い当てる"という表現を初めて意識したきっかけの動画を。
彼らの表現への真摯な言葉が、私は大好きだ。