えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

昨日ライブに行った

どうしていいか分からない日があった。身体がギシギシにしんどくて胃も痛くて頭も痛くて、もう放り出したいけど、仕事の用事がある日だった。
動かなきゃいけないという気持ちと、もう嫌だ逃げたいという気持ち、無理をするのは誰のためでもない自己満足だと喚く気持ちが頭の中で跳ねて殴り合って、なおさらしんどくなる。
そんな中、流れてきた雑誌のオフショ動画で笑って、気がついたら仕事の予定をキャンセルしていた。


欲しいものを欲しいと言い、褒められたいと言い、嫌なことは嫌だと言う、悪ふざけで遊ぶ時は全力で。



のめり込むように、知れば知るほど好きになっていく彼らの魅力を私はたびたび言葉にしたくなるけど、そのたびに難しいなと思う。
だってたぶん、言葉で伝えても伝わらない。どうしようもないところが好きだ、と言うのは簡単だけど、そうなんだけど、そうじゃない。
「ダメな自分」「足りない自分」そんなものを繰り返し彼らは音楽にするし、
ラジオでの雑談はだいたいとんでもなくてそこだけ切り取られたらずいぶんニュアンスが変わって伝わってしまうだろう。
かと言って、彼らの"本心"のようなことを知ったような顔でああだこうだ書きたくはないし、「実は良い人たちなんです」なんて安い言葉に変えるのだってやっぱりズレるんだろう。
ともあれ、私にとってCreepy Nutsに触れている時間は言葉にできない種類の憧れと居心地良さがあるのだ。



Creepy Nutsライブ配信を春に観た。かつて天才だった俺たちへ。そのライブを観ながら、いつかこの人たちの音楽や空気を生で楽しみたいと思った。同じ場所で声は出せないとしても、拳を突き上げて身体を揺らしたいと思っていた。
だから、関西に帰れることが決まり、ちょうどその頃、Creepy NutsのONE MAN TOUR [Case]のチケットが発売されたため、思わず久しぶりにチケットを申し込んだ。
当選、という言葉に心が跳ねることもそわそわしながら、入金を忘れないようにすることにも、いちいち心が踊った。これこれこれ!と叫びたくなっていた。



しかし、そのあと結局、私はライブに行くか迷っていた。
感染状況とか、いろんな出来事とか、そういうことでライブに行かない方が良いのではないか、と思った。
生でのエンタメが心の底から好きだと思ってるんだけど、でも迷いが生まれたというか、行くべきではないんじゃないか、と思った。誰かに対して同じように「行くな」と思うとかいう話ではなくて全くもって、ただただ自分への葛藤でしかない。

この話をすると本当に難しくて、なんか、もう、誰かがどうするとか、そういうのは私には関与できないし分からないし、責任を取れないから全部自分に対しての言葉なんだという前提で読んで欲しいんだけど。


これがないと死んでしまうから行く、というには自分の好きや熱意に自信がなかった。そうして口にするには、心が死んでしまうほど好きで、それでも仕事や家族、自身の理由で耐えてる人のことを思って言えなかった。
まるで、良い人ぶるような書き方をしてしまったけど、そうじゃなくて、結局、そこで嫌われるかもしれない、誰かを傷付けるかもしれない覚悟が私にはなかったというだけだ。
そういう覚悟がないなら、行くべきじゃないと思っていた。

「自分の責任は自分でとる」

そう思って過ごしてるけど、こと今回についてはそういうこともできないと思う。誰かに移したら、罹ったら。どうやって責任を取るのか。
自分の悲劇のヒロイン的な気持ちで我慢をすることは、普段なら無意味だけど、今回は少なくともひとりの感染リスクが減る。だとしたら、意味がある。
そんな雁字搦めの思考回路でいっそライブに行ってそのまま2週間どこかに閉じ込められて引きこもりたいとか無茶苦茶なことを考えながらずっと考えていた。


更に言えば、この数ヶ月、何度も演劇やライブの配信を観て心を揺らしてきて、
その中で「生のエンタメ」を観ることでこれを待ってたんだ、と思うのが怖かった。
本当に0か100の思考回路過ぎるし、生のエンタメを観て幸せだと思うことは別に配信の幸せな記憶を嘘だということにはならないんだけど、それは分かってるんだけど、どうしても頭が納得してくれなくて、身動きが取れなくなっていた。



そんな「勝手にしろ」と自分でも吐き捨てたくなるような気持ちと考えで頭がぐちゃぐちゃになりながら、結局、ライブに行った。
どんだけ偉そうなことを言っても結局行くんじゃないかと言われそうだと思う。というか、自分に何度も言ってる。呆れてもいる。
それでも、大阪に帰ると決めた時、生で彼らの音楽に触れれると信じて、なんとかもう少し頑張りたいと思った自分を裏切りたくないと思った。結局自分のことかよと思う。
これについて、正当化したかったけどもう全然無理で、理屈もこねられなくて、でも、もう、行きたかったのだ。




正しくありたい。
在れないことなんて分かってる。
でもこうありたいという形を探していたこと。
ライブに行く行かないの話だけじゃない。いつも結局私はそんな形を探してる。
誰かのツレか、家族か、先輩か後輩か。
どんな顔をしているのが自分だったのか。
どんな顔をしてたらここにいて良いと思えるのか。



二時間、音楽が鳴り響いて、知らない誰かが会場に溢れて、ラジオで何度も聴いた声が笑う煽る歌う。



身体の芯を揺らす音が、目の奥を刺す照明が今も身体の奥に残ってる。
初めて生で、目の前で手が届く距離で音楽を奏でるCreepy Nutsは、想像以上に最高で格好良かった。
初めてHIPHOPのライブを生で体感したんだけど、腕を振り身体が揺れ、拳を突き上げてしまうんだということを知った。


"生きてる限りは勝ち逃げできねーな"
そんなバレる!の歌詞を聴いて、ちょっと私は卑怯だったな、と思った。正しく勝ち逃げしたくて間違えたくなくて、ありもしない正解を探していた。ありもしないのは、そもそも「どうありたい」の答えがなかったからだ。そこにすら、正解を"あるべき顔"を探していたからだ。価値観や立場なんて、すぐに変わるのに。


「毎日が選択の連続」そんな台詞が昨年放送されたドラマ、MIU404にあった。私は、あの台詞を本質からは多分、理解してなかった。
ソーシャルディスタンスがうまれたからか、見えるようになったものが容赦なく責め立ててくるのに、そのくせ、正解をくれない。
そんな毎日にうんざりしていた。
だけど、音楽で身体を揺らし、声が出せないならと会場の空気を動かしながらそこにいることは、すごくシンプルだった。



ダサいこと、うまくやれないこと、足りないこと、そんな劣等感を逆手にとって
それでも俺たちが顔役だと名乗りを上げる。そうだよな、そんな彼らが大好きで、その音楽に勝手に自分を私は重ねてきた。



音に乗った、言葉に乗った。
私は音楽を好きだと思うけど、うまくメロディに乗れない。リズムへの劣等感が今までの人生ずっとあった。憧れて好きだと思うほど、隔たりがあった。だけど、日本語ラップで言葉のリズムという身近な存在が近付いてきた。言葉というどうしようもなく惹かれ、焦がれる存在が楽しみ方を教えてくれる。
誰かが手を挙げる身体を揺らす、音が跳ねる。
生きてる、目の前、ある。
生きている。


言葉にならない、どうとも言えない気持ちや考えを形にできるのがHIPHOP日本語ラップだとR-指定さんが言った。責任を持ってかませ、とも、傷付けた存在への言葉も、バックレることへの肯定も。全部全部が目の前にあった。


Caseで自傷行為のように自分と向き合い、まさしく自分を削りながらR-指定さんが生み出した言葉が、容赦なく、私にも"自分"と向き合う時間と場所を突きつけた。だけど、たぶん、私はずっとそれが欲しかった。



正しいかわからない。どうしたらいいか分からない。これだって、書くべきなのか分からない。
だけど、なかったことにはしたくない。
責任をとるなんてことも、言えない。言えるわけがない。だって、私にできることは何もない。
だけど、生きて、その瞬間正しいと思うこと、やりたいことを必死に、生きて、過ごして行くしかない。
私は文を生業にしてるわけでもない。だけど時々、こうして頭の中に跳ねる言葉を書き殴る。目を逸らしたり、良い感じに整えて逃げるんじゃなくて、見つめて見つめて、形にしたいと思う。
だって、格好良いんだもん。



なんかもう、昨日あれからずっと頭の中がチカチカと光っている。
ただ、こんだけ好きだと思える人やものがあって良かったと、幸せだと揺らした心があったことを突き上げた拳を開いて見つめて思ってる。
これだけは忘れるなと何度も何度も念じる。それでも、忘れて迷いもするんだろうけど、それでも良い。勝ち逃げするその日まで、何度だって確認し直すだけだから、それで良い。