えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

こだわりのあるひと

こだわりがある、ということに対しての付き合い方がまだわからない。
生活の中、こだわりにぶつかった時の振る舞いをまだ見つけられていない。
いやそもそも「こだわり」という言葉がなんとなく苦手だ。引け目のようなものを感じてしまうのかもしれない。
食べ物のメニューなんかにおける「こだわり」はワクワクするくせにそれ以外に不意打ちで出会う「こだわり」にはびびってしまう。

 

 

 

暮らし方や考え、音楽、趣味嗜好、仕事。
そういうものに一つ一つ「こだわれる」人への憧れと疎外感。なんだか、私にはそんなものがある気がする。
言うまでもなく、そんなことはそもそもこだわりを持ち合わせていない自分の問題だし、もっと言ってしまえば「こだわりがなくても何も問題ない」はずだ。

だけど、私はやっぱりこだわり、という言葉に怯んでしまう。

 

 


のくせ、「あなたにはこだわりとか、あなた自身の言葉はないんですか?」と思ってしまうことがあるからタチが悪い。
「多数」になれないからか、昔から「多数」や「当たり前」に反発心を持っていた。当たり前を普通にできる多数のクラスメイトに「この人たちの頭の中はどうなってるんだろう」と何度ぼんやり考えてきたか分からない。

 

 

 

そうこうしてると、最近、自分にだって「こだわり」があることに気付いた。それがポジティブなものなら良いんだけど、否定的なこだわりも少なくない数あって、困る。

 


例えば、飲食店やブランドの選び方。ALTをはじめとする、ネットの使い方飯テロや地雷、自軍、人権などの言葉選び。
もしくは性別やパートナーという言葉、政治とか社会に対するスタンス。
そういう「ちょっとモヤっとするから距離を置こう」という「こだわり」が少なくない数ある。

 

 


もちろん、それらは自分なりに考えたり調べたりして「そうだ」と思っているわけだけど、時々私はその「こだわり」を持て余す。
例えばじゃあそのこだわりとズレているものは全て悪なのか。親しいひと、あるいは好きだと思っているひとがそのこだわりと違っていた時、「この人のことは嫌いじゃない」と思うことはその自分の中のこだわりと反していないのか。

 


そういうことをここ数日ずっと考えている。
考えながらこういうことは「厄介な人」「面倒なひと」と言われるらしいということも知っている。そういうの、あんまり良くないよと実際言われたこともある。
たぶん、私が今悩んでいるのはそれを「伝える」ことに怯んでいることもなのだ。それを伝えて「え…」と言われてしまったら最後、本当に悲しいと思うだろうなあ、と思う。
ただ、同時に街中でいきなりこだわりをぶつけられそれができていないお前は間違ってる、と言われて大いに怯んだこともあるから、そういう意味では「こだわりを理解しないお前が悪い」という感覚にも、それもどうなんだろうなあと思ってしまう。

 

 

 

伝わることなんて、そう多くない。そういうことを、ここ最近ずっと唱えている。だけど、それは悲しいと自分の中の幼さがいうので「それもそうねえ」と相槌を打つ。
まだ答えは出ていない。ただ、なんとなく、諦めるだけは違うんだろうなあと思っている。