えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

私から観た綾野剛という役者の話

敬称略でタイトルをつけたことに胃が捩れそうだけど一旦。

一旦ね。

言葉のリズムでお許し願いたい。



綾野剛という役者さんが好きだ。
そんな話をしたい。


私の中で「推し」とは2タイプある。
生きるという道を進む中で、灯台のように進む道、帰る道を照らしてくれる人と
その道の中で疲れて見上げた時に見える星座のような人。




綾野剛さんは、私の中では圧倒的な後者である。
カーネーションで出会い、しかしそこですぐに熱烈に推したわけではなく、いつも視界に入るたびになんだか嬉しくなり「この人が演じてるなら素敵なんだろうな」と知らないながらにわくわくしていた役者さんのひとりだ。
全ての作品を観ていないくせに何故か強烈な信頼と愛情をひっそりと向けていたその人に伊吹藍としてもう一度出会い、決定的に好きになった。はっきりとその存在が私の世界に飛び込んできた。
それこそ、星座に擬えるなら点と点が繋がって星座の形を知ったようにすっかり「綾野剛という役者が好きだ」と口にしたくなってしまったのだ。



さてそして、あやのごさんの話をいつかまたやるときは"憑依型"という表現について触れたいと思っていた。
私は個人的に"憑依型"と呼びたくないと思っている。それは綾野剛さんに限らず、全ての役者さんに対してだし、かと言ってそれが褒め言葉の類として使われていることは理解もしているので、単に好みの話である。


以前、コウノドリを観終わったあと、コウノドリ綾野剛というひとというブログも書いたけど。



お芝居、演技を魔法のようだと表現することはある。あるけど、実際それは魔法ではない。
憑依という超現象的な力を持って、誰か他人を"乗り移らせて"いるのではない。言葉尻を捉えてああだこうだ言ってるような気もするけれど、どうしたって"憑依型"と聞くたびにそんなことを考えてしまう。



超現象的な力どころか、生理現象を巻き込みながら泥臭く役作りをしていく綾野剛さんはむしろ、アスリートのようだな、と思う。
特に好きなのはシャンプーのエピソードだ。
役に合わせた身体作りはもちろんのこと、あやのごさんは、シャンプーを役によって変えるのだといつだか言っていた。身嗜みの整え方、好むだろう香り。そういうものまで使って、身体や気配を一つ一つ作り変えていく。
そう思うと、役柄によって「この人は誰だろう」と思うのも納得がいくのだ。


お芝居を観れば観るほど、そこに向き合った膨大な時間、思考、行動に思いを馳せてしまうし、言いつつ、そんなものを全て忘れてしまうくらいただただ役その人である綾野剛さんのお芝居が好きだ。




ところで。
彼を好きだ、と思うたびに思い出す言葉がある。なんのインタビューだったかで、語っていた言葉だ。

「本当の自分を好きな人なんて誰もいないんじゃないか」


言葉だけ捉えるとなんだか孤独感満載の哀しくなる言葉でもあるような気がするのだけど、
私はこの言葉で「ああこの人が好きだ」と自信を持っていえるような気がしたのだ。
そして私はこの言葉に孤独感も悲壮感も感じない。それはインタビューの文脈がそうだと思ったからなんだけど、孤独感や悲壮感というよりもむしろ、役者という仕事に誇りや自信を持っているからこその言葉のように感じだからだ。



私たちが目にするのは誰かを演じているときの綾野剛である。
周防さんや伊吹、佐藤さんにサクラ、倫太郎と様々な役に出会うたび、その表情・空気感・その他諸々その人をその人たらしめる何かが変わる。そんな気がする。
元々顔面識別能力がない私からすると、作品が変わるたびに「あやのごさん(私の中での愛称)だよな…?」といつもどきどきする。



一方でインタビューやバラエティなと役を背負わず、「綾野剛」としての姿を見せてくれているという気もすることはある。その時の姿、言葉を好ましく思うなら「本当の綾野剛」を好きだということにはならないか。


これはあくまで私は、という話として聞いてほしいけれど。
それとこれとは、やっぱり違うと思うのだ。そしてそれはこういうことを考える時に思う「表に出る人はあくまで表の"どう見せるか"を意識して作った顔を見せてるだけだ」というのとも少し違う。
まず誤解のないように言っておくと"どう見せるか"を意識された顔も大好きだ。
そもそも人はある程度「こう観られたい」という自己顕示欲があると思うし、時々持て囃される「本当」にどれほど価値があるのかとも思う。むしろ、こう観られますようにと作り上げられたものこそ、愛情と誠実が詰まっている時だってあるんじゃないのか。



だけどそういう話ではなく。
いつか言っていたとおり、本当の自分が「誰かを演じる」ことの邪魔になることを知っている。

そりゃそうなのだ。


どれだけ自分を消そうが台本を読んだ時感じた自分の感情、思考回路、物事に対する反応にはどうしたってそれまで生きてきたその人が出てくる。
それは良くないという話ではなく、むしろ生身の人間が第三者を演じる面白みだとも思っている。
そういう意味で、本当の自分を好きな人はいないんじゃないか、とは物凄い言葉だと思うのだ。
可能な限り自分を消して、それでも残った"自分"で味付けして、そうして全く違う「誰か」を演じ出す。それは誰かを生かす行為だと思うし、その言葉が出てくるまでの自負や覚悟を私は好ましく思う。


そしてお芝居が好きな私にとってそこまでのものを懸けて作り上げられるお芝居がこの世にあることは本当に、心の底から嬉しく心強いことなのだ。
それは自分を消費し、削って作り上げてほしいなんてことではもちろんない。
(というか、私はそうして作られたものはなんなら少し苦手だ)



だけど、生きる意味や愛する意味を懸けて作るというのは、本当になんだか、嬉しいのだ。そしてそれをきっと彼は楽しんでいるんじゃないかと「本当の綾野剛」という人を知らないからこそ、思う。
それすら、あやのごさんが「こう観られたい」と生み出してくれた姿なのかもしれないけど。



ただただ、私が知る「綾野剛というひと」は、ひたすらにお芝居に向き合うまっさらな人なのだ。