えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ならば僕らは喋り続けよう

※21日放送の「ミステリと言う勿れ」7話と「恋せぬふたり」5話のネタバレを含みます。


どっかに行きたい。
日々予定を詰め込み過ぎるたちな上に、今は私生活も仕事もしっちゃかめっちゃかにし、去年の後半くらいから続けている人生のサイコロを強引に振り回していく期間のせいで、疲れているからかもしれない。
どっかに行きたい、と定期的に思う。
どっか、なるべく人が少なくて知ってる人もいなくて、できたら水が海でも川でも良いからあって、温泉もあったら嬉しくてそこでなるべく携帯を見ずにぼんやり過ごしたい。



そんなことを日々現実逃避のように思っていてかと言ってご時世的にも自分の状況的にもじゃあ!と飛び出せはしないので、極力ひととのやりとりも減らして思考回路も沈めて過ごしていたそんな月曜日。ドラマを二本観て、何をどうやっても晴れなかった気怠さがなくなって私は苦笑している。もちろん、嬉しくて清々しい気持ちで。


21日は、久しぶりに観たいドラマが2つ揃った月曜日だった。北京オリンピックでずっと放送がお休みだった「恋せぬふたり」が放送されたのだ。


1月の月9である「ミステリと言う勿れ」もよるドラの「恋せぬふたり」も全く違うテーマだ。だけど、なんでか21日放送のそのふたつの物語が私には地続きなように見えた。




まずは「ミステリと言う勿れ」から。
炎の天使の後編にあたる7話は、「解決編」とは言いにくい。いやそもそも、ミステリと言う勿れは、解決、と言い切れる物語が少ないように思う。事件の真相が分かってもどこか毎度、後味が悪い。
ある意味それは、推理もの・事件ものの運命なようにも思う。罪が犯された時、その罪に理由があってもなくても、その理由に納得できてもできなくても、"罪"が生まれてしまった時点でもう戻れなくなってしまっているし、それは、本当に辛く悲しいことが多い。


とはいえ、今回はよりしんどかった。
虐待されている子どもが塀にマークを描くとやってくる炎の天使が、親を焼き殺してくれる。
人を殺すのは良くないことだとして(整くんの言葉を借りれば別に良くないこと、ではない。別に殺しても良いけれど、秩序を求めるからこそ「殺してはいけない」ということになるわけで)ではじゃあ虐待されている子どもはどうすればいいのか。

ただただ、生きるか死ぬかの賭けがいつか終わる日を願うしかないのか。

そんなのは理不尽だと思う。虐待が許されるとは、微塵も思わない。だったら殺される前に殺してしまったとして、それを「悪いこと」と言えるのか。でも、殺すことを決めた"子どもたち"は今も結局、苦しんでいる。
じゃあ、どうしたら良かったのか。


炎の天使である香音人は、陸は、間違っていたのか。
間違っていたとしてそれはどこからか。わりと最初から詰んでいた彼らの人生をどこからやり直したら幸せにできるのかとか、そういうことをひたすらずっと考えていた。考えれば考えるほど、私は分からない。
分からなくなって、そうすると陸の「何したら良いんだろうな、その日まで。ひとりで。なにしたら」という迷子のような声を思い出して苦しくなるのだ。



そしてここで「恋せぬふたり」の話がしたい。
今回、カズくんの「じゃあ俺と恋愛抜きで家族になればよくない?」という問いかけに対する咲子の答えとともに、1話で咲子を置いていなくなってしまった親友千鶴の事情が明かされる。
恋愛を理解できない咲子と、そんな咲子に恋愛感情を向けるカズと千鶴。だから彼らは一緒にいることができない。どちらかが無理することになるから、傷付けることになるから。



すっごく相手を好きだとするじゃないですか。それが、恋愛かどうかはさておき、すごくすごく、好きだとして。
でも、「好きだから一緒にいられない」ってほんと、なんでなんだろう。
何でって理解できないわけじゃなくて実際そういうことって(一緒にいたいと言う側としてもいられないと言う側としても)分かるんだけど、分かるからこそ余計にますます、わからない。なんでだろう、なんで、一緒にいられないんだろう。
それは分からないのに、ただ確かに一緒にいると傷付くのだということは分かってしまう。
本当に、うんざりすることに。



どうしたら良いんだろうと、思う。
虐待されている子どもたちにも、陸にも香音人にも、咲子や高橋さん、カズくんも千鶴も。
誰かといるから傷付く。

そうして冒頭の話に戻るんだけど、誰かといるから傷付けるなら、誰かといることは不幸なのか、なんて考えてしまう。



そんな鬱々とした物思いをこのドラマはそれぞれに柔らかく、拭い去ってくれた。
整くんは、「考えて考えて、それを誰かに話すといいと思います」と言う。
高橋さんと咲子は、何も話さず蟹を茹でて食べる。



「分からない」と「分かる」を、繰り返し考えて考えながら「こうすれば解決する」なんてないのだと思う。

ハッピーエンドの物語に傷付くことがある。
「こうすれば(なれば)幸せでしょう」という提示は、そうじゃないことを否定したりする。いや、否定しなくても簡単にやってきたハッピーエンドにますますそれが「作り話」であることが強調されて現実との落差に傷付く。



だけど、21日、この日放送されたドラマはハッピーエンドはくれなかったけど、そんなものよりも欲しかったものをくれたように思う。



良い悪いでは無いし、解散は終わりではない。
生きている限り、私たちは変わり続ける。それを幸せだとは言い切れないけれど。だとして、私たちはそれでも生きるのだ。ひとりではなく、他人とともに。
付箋が貼られた本、理解したいと思うこと。
僕、常々思ってることがあるんですけどと伝えられる言葉。
いつか、そうしていれば伝わるなんて言うつもりもない。私はそもそも、誰かに何かがまるきっきり思いのまま伝わることなんてないと思っている。


話をすること、考えていることを伝えること、伝えなければ見えないこと。
伝わりきることはないとして、それでも伝えなければそれはずっと、0のままなんだ。
言えば0.0001%でも何かが変わり、伝わるかもしれない。


家族に(仮)をつけ続けた高橋さんが、蟹を茹でて咲子さんの帰りを待ったように。
あるいは、考えて話すことが整くんの生き方になったように。
私たちは、誰かに伝えてもらったことに影響されながら生きている。それが、人と人が一緒に生きることの意味なのかもしれない。