えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

今夜すきやきだよ

生きていくのが大変すぎる。
物価は上がるし仕事は終わらないというか終わったと思ったら新しい仕事がくるし。
好きなものは変わり続けるし、不意打ちで投げられた言葉が忘れられた言葉を思い出して夜中起きてあれはなんだったのか考えちゃうし。
将来設計なんて言葉が白々しく感じるくらい世の中しっちゃかめっちゃかに感じるし。
そういう毎日を積み重ねてると本当に疲れる。生きることそのものが罰ゲームだろ、なんてわざと遠回りした公園で呟いたりする。



そんな毎日の中に、金曜日、このドラマが放送されることはどれくらいの意味があっただろう。
残念ながら、リアタイはできなかったけど週に一度のこのドラマは大きく息を吸って吐く場所だった。
ドラマを好きになる度に思う。
週に一度「絶対にここで幸せになれる」という約束があることはとても心強いのだ。



あいことともこの共同生活。
その軸に描かれる様々な問題はともすれば「啓発的」だったかもしれない、と意地悪い気持ちで思うこともある。
女性が働くこと・恋愛をする/しない・男性たれ、と強いられる人たち・搾取・作品に向けられる言葉たち…。
だけど、私は思う。
それを「啓発的」あるいは「説教臭い」と思うことは今まで目を閉じてきたことを随分、棚上てるんじゃないか。
当たり前に目隠ししてきたことをただただ描く。そこに対するそれぞれのリアクションを描く。
そのことに対して私たちは(肯定的にしろ否定的にしろ)ひどくリアクションを取りすぎていたのかもしれない。



ここ数年でジェンダーやキャリア、そもそも生き方などについての「多様性」が語られるようになった。
そのことに対してまるで「一家言」を持つべきだとありとあらゆる人、ものが思っている、なんなら「思わないといけない」ようになってるろうな気がする。でも別に、当たり前だけど、そんなことはないのだ。
何かを訴えてる、ととってもいい。とらなくてもいい。ただ、彼女たちは、そして彼らは、ただそこにいるだけなのだ。




ファンタジーと感じてしまうことはある。
理解のあるパートナー、家族。
やっていけるだけの才能、理解ある職場。
あいこの「結婚観」「恋愛観」を理解してもらえることも、ともこの成功、もしくはあいことの関係性も「ファンタジー」で、現実にはあり得ない。
まあ、そういう考えもありだし、
なんならそこまで考えなくても結局、スキルやお金、成功などが裏付けられないと実現できないんじゃないか、とも思うんだけど、だとしたらある意味でそれはものすごい「リアリティ」なんじゃないか。





それでも、どうあっても、彼女たちの生活が私は嬉しかった。それは、成功したからじゃない。
それぞれが、それぞれの思うまま、信じて生きていくことを幸せに描いたからだ。



「これがリュックに入ってるってだけでちょっと元気になるんだよね」


その台詞を思わずメモしていた。

実際に実現できる、共感できるではないのだ。たぶん私がこのドラマが好きだったのは。


生きるのが大変で、難しくてドラマの中で描かれたみたいにうまくいくことはほとんどなくて。
でも、そうして悩む人がいる。そして視聴者の中でその場面に心動かされる人がいる。少なくとも私は心動かされる。それだけでよかった…それでよかった。この広い広い、途方もない世界で私だけじゃない。それを知れたことが、どれだけ、嬉しかっただろう。





ご飯を一緒に食べること
楽しいこと、ご飯が美味しいと思えることがどれくらいかけがえがないか。
私はそのドラマのメッセージそのものもだけど、あいこちゃんやともこがただただ、美味しいものを食べてるのが嬉しかった。楽しいこと嬉しいこと、悔しいことや悲しいことをシェアして、美味しいご飯を食べる、作る、生きて生活をするその様子が好きだったのだ。



一緒にあの日「踊ろう!」と言えたふたりがこの結末を迎えたことは納得すらあるのだ。
踊るという「いい歳でしょ」と苦笑いをされそうなことをふたり、あの日、共有したこと。
ただ、言葉にできないことをそこでシェアして美味しいご飯を食べたこと。そんな光景、物語が私は、大好きだった。
ふたりのこれからは、ちょっと夢みたいかもしれない。でも、夢でもいいじゃないか。私はふたりに幸せでいてほしい。




そして、できたらその夢が「叶えられる」と信じたいから、日々、大切に笑って、美味しいものを食べる時間を作ろうと思う。
手始めにまず、大切な誰かを誘ってご飯を誘おうか。