えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

なにものでもなかった彼らのこっからが教えてくれたこと

誰かに自分の話を聴いてほしい。
ほんの少し前からそんな気持ちにずっと支配されてる気がして恥ずかしい。自分が語る価値のある言葉を持たないことを誰よりも自覚していると思っているのに、でもそんな理性じゃかき消せないくらいに、自分の話を聴いて欲しい。興味を持って欲しい。
それは思えば思うほどに逆説的に「誰も自分の話に興味がない」ことを裏付けてしまってる気がする。だけど実際、そうなんだろう。





人に対して嫌気がさしてるし、自分に対しても嫌気がさしてる。
鶏が先か卵が先かだけど、なんだかいろんなものが嫌になってしまうな。
その中で、なんとか「こっから」と思える時間が今、私には週に一度だけある。





自分にとって、必要な時間だったことだけ、分かってる。
毎週、「だが、情熱はある」をずっと心待ちにしている。毎週毎週、なんとかリアタイできるように予定を調整して、少し暗い寝室で食い入るように観ている。そこから気になり出した「たりないふたり」も毎週配信されるのを楽しみにしてギリギリで観てる中でも何度もリピートしたくなって困ってる。







はてなブログでも紹介してもらったけど、二度目のブログを書くくらい本当に心の底から大切な作品になった。あちこちで話題になっている通り、この「たりないふたり」や若林さん、山里さんの生き様、そして「だが、情熱はある」は語らずにはいられない、そんな魔力がある。





自分の情けなさをしょうもなさを、ずるさを弱さを傲慢さを笑いに変えてくれた人がいる。
自分だけじゃないんだ、という安心感とそれをこんなに面白くできるんだ、と気付かされる気持ち。
自分に重ねながら、だけど重ねきれない魅力に憧れて好きになりながら、どんどん、自分の中でその存在が大きくなっていく。






そして先週、6月18日。とうとう観るきっかけになった「Creepy Nuts」がモデルとなってるクリー・ピーナッツのふたりが、若林さんに出逢った。
たりないふたりを観てどうしようもないくらい食らい、初のライブが行われた会場に足を運ぶ。そのいずれ中野サンプラザを自身も埋めることになるふたりが(それどころか、アリーナだって埋めるふたりが!)夢物語みたいに「俺たちもいつかここ埋められるようになるのかな…」と呟く姿に泣いてしまった。





なにものでもない彼らの物語がまた新しく別の「なにものでもない」誰かが物語を紡いでいく。
そんなことが脈々と続いていくんだ。
18日の回では大切な人との別れも描いた。変わっていくこと、生きることとその続きが描かれる。それが、とんでもなく優しくて愛おしいと思った。




ねえ今、幸せ?と問い掛けられた彼らが
敵なんていないんだよと諭された彼らが
教えてくれた、そんな気がする。いいや違うか、勝手に「理解って」きたと勘違いしている。いいだろ、勘違いくらい、させてよ。





ともすれば、生きることの虚しさを拡大解釈して小さな恨みつらみに躓き、あちこちを呪いそうな私の手を引いているのは、間違いなく、"面白い"なのだと思う。
そうして、そこにこだわって、自分の面白いを信じて格好良いを信じて作ったものはきっといつか、どこかに届く。
そのどこかは、誰かはなんなら、いつかの自分なのかもしれない。そうだといいと、心底に、思う。




たりないぼくらで結託しようなんてやっぱり彼らは呼び掛けてはいない。実際、若林さんにしろ山里さんにしろ、なんならCreepy Nutsのふたりだって無遠慮に解る、なんて言われたら良い気はしないだろう。
だけど、だというのに、私は、あの物語で描かれた「情熱が届く」ことに完全にやられている。



生きている、実在する人が、こうして生きてきたことに物語を通して触れたことを何度も何度も、思い返している。





許せないことも、苦しいことも嫌いなこともたくさんある。たくさんあるからこそ、大好きでいたい大切でいたい。面白いや楽しいを絶対に手放したくない。




何者かになりたくてもがき、何者になってももがき、苦しみ、怒り、みじめで情けなく、苦しい姿をあんなに愛おしく彼らは魅せてくれたから。
そうやって生きていれば、いつか。
もちろん、それは途方もなく苦しいことなんて百も承知だ。それを引き受けてでも、生きて毎日を過ごして生きたい。確かにそんなことをこのドラマは教えてくれた。



果たして、最後、どんな景色を見せてくれるのかとんでもないわくわくと終わってしまうことへの寂しさを噛み締めながら今週末25日の放送を楽しみにしている。