えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

インポスターな夜に才能の話など

才能なんてないととうの昔に知っていた。



そこそこは出来るけど、そこそこしかできずに
躓いてばかりだけど、誤魔化せば埋没できる。


そういう半端な自分の個性は世間に溢れる英雄譚や天才の物語とあまりにかけ離れていたし、まあそうだよなあ、と思っていた。




それでもそういう英雄譚や天才の物語が好きで、何かを生み出す人がその人自身の物語が好きで、いつまでもいつだって、知りたいと思う。
そうして知れば知るほど思い知る。あああの時、凡人に落としたのは自分だったんだ。





私が好きな天才たちは、みんな努力を信じ続けて自分を信じて、自分には才能があるんだと言い続けた人たちだった。
そりゃ、自分には才能がないわけだよなあ、といよいよ腑に落ちてしまう。






ところで、おかげさまで最近仕事の調子がいい。
たまたま去年の自分の文を読み返し、限界の中で喘ぎつつもがきつつ仕事をしていたことを思い出すと大丈夫だぞ、と言ってあげたくなる。今君がやってるのは限りなく足踏みに近いけど、それだってたぶん、役に立ってるぞ。
褒めてもらえることも増えて、何より頼りにされることが増えた。
仕事をしながら「これはなんか分からないけど負けない気がする」なんて言いそうになることが増えて、会社でもずっとわくわくそわそわしてる。






数年前まで「どうやって生きていくか分からない」と言われた社会不適合者がいつの間にかちゃんと歩けるようになっててそれは自分の努力の結果だ、なんて言いたくなってその度に思うのだ。





楽しいのにどこか不安になる。
どこかで自分の「本当に?」と問いかける声がする。まぐれだろ、と思うし、いつだかの社会不適合者に何か一つ間違えれば戻ってしまうんじゃないかと不安になる。
認めてもらってる、と思うたびに自分が何かとんでもないズルをしたんじゃないかという気持ちと、バカ言え努力してきたんだと喚く気持ちとで挟まれて気持ち悪くなって席を立ってうろうろと歩く。


そんな明らかに様子がおかしいことも、変に笑わず、騒がず、かと言って見ないフリせずにそのままでいさせてくれる環境があるなんて、いつかの私は信じただろうか。





幸せになることは実は結構しんどい。
と、中学生くらいから定期的に思う。
幸せになりたい、と思うけど、実際幸せになってからもだいたい人生は続く。
幸せになった分、いつかこれがおわってしまうかもという不安が生まれるだろうし、次はどこに向かえばいいのかという疑問も浮かぶ。



さらには



不幸でいたいと思うことがある。
世の中に、たくさん嫌なことがあって、嫌いなものがある。許せないと思うことを腹から取り出してしげしげと眺める。
取り出さなくても、普通にそこかしこにあるから、それを見るだけでもいい。
そうやってしていれば、私はいつだってちょっと不幸でいることができる。




好きな人たちが幸せになった時……何かで成功した時や結婚した時、誰かが言う「つまらなくなった」という言葉を定期的に思い出しては後からしんどくなる。
幸せになれば誰かに妬まれる。後ろ指を指されていつか足元を掬ってやるとこんこんと狙われる。
そういうのを見るたびに思うのだ。ほらやっぱり。妬まれない程度とられない程度に不幸でいたほうがいい。
幸せになるって結構危ない。




じゃあ、私は幸せなのか。



いや何を尤もらしく言ってるんだ、幸せだなんて自惚れるな、でもこれを幸せだと認めずに不幸で居続けようとするのもどうなんだ、とぐるぐる考えながら思う。






じゃあ一体、私はどうなったら納得するんだよ。






欲しかった才能は、何かを作る才能だった。
0を1に出来て、自分がそうしているように、触れてくれた誰かが「ああこれがあるから生きてて良かった」と呟きたくなるような、そういうものを作って観たかった。
でもその誰かって、ありふれた言葉ではあるけど、たぶん、自分なんだ。
いつかのどうしようもない時の自分に「良かった」と言われる何かを作りたくて、でも何かを作る才能なんてなくて、だから満足できなくて、と思いながら、いやでもさあ、と反論したくなる。





いやでも、今の自分を見ても、あの時の自分は「ああ良かった」って言うんじゃないの。


ついでに言えば、言ったとて、「でも満足なんてしてたまるか」って言ってきたとしてもそれはそれでありなんじゃないの。


確かに今、私は結構自分の好きな仕事をしていて、楽しくて、それはまず「幸せ」だとして、別に自分の人生が「エンド」したわけじゃない。なら、ハッピーともバッドとも決めずにまだやりたいことをやったらいい。作ったら良い。





この3年は最低なことも多かったけど、自分に「何かを作ること」をもう一度許せるようになってきて、それは本当に、心底、良かったと思う。





そうして作ったものをこの間、数年ぶりにようやく会えた友だちに手渡した。数週間後会った友だちが感想を話してくれた帰り道言う。




「つくさんは私の推しなので」





うっかり最初は「またまたぁ」と言ってしまった。元々その友だちは私のことを慕ってくれている。それがずっと有難くてそのこと自体が自分の背骨をずいぶんと支えてくれていたわけだけど、その慕ってくれてる気持ちのまま作ったものまで認めてくれるように思えていた。
そういうのは有難い気持ちとまるで親心だなあみたいな気持ち半々で、だからつい、「またまたぁ」とほんの少しスカしてしまった。私個人を大切にしてくれてるのは十分に伝わってますよ、その上に私が作ったものを大切にまでしなくても足りてるんですよ、と。




でもその私にその子は本気ですよ、と言葉を尽くしてくれてて、そのことを反芻する。
そっかあと思った。
今まで自分が書いたファンレターを大切に受け取ってくれる推したちに私は感謝してきてそれがどれだけ嬉しいことか知ってたのに、やっちまったなという気持ちと、あ、これちゃんと大事にしようという気持ちがあとからずんずんと湧いた。もう、これが、側から見たら勘違いしてダサいとか、そんなん言ってる場合じゃないのだ。



勘違いしたいよな、と思う。
この"勘違い"とは今とても好きで毎週毎週心待ちにしているドラマ「だが、情熱はある」の中のフレーズである。髙橋さん演じる若林さんが、学生時代、「考えるな」という幸せになるハウツー本を受けて言うのだ。




勘違いしてやるよ、考え続けてやるよ。





その台詞を繰り返し思い出してる。
そうだよな、と思う。
今更かもしれないし、いい歳してと笑われるかもしれないけど、私はやっぱり、勘違いしていたい。何度も憧れた、今も自分にとっての支えの人たちと同じように自分を信じてみたい。




ついでにいえば「社会不適合者」だとわかってはいるけど、なら、そのまま「変だ」と笑われるアンバランスさは持ったまま、「普通の社会人」にだってなりたい。
「普通の社会人」でだけど何かをずっと作ってる人。良いじゃん。良い感じにイカれていて、自分の尊敬する人たちのようで、そういうのが、私は良いのだ。そんでもって私は永遠にそういう人たちに憧れて「これが好きだ」って話だって変わらずし続けたいのだ。





何かを自信過剰に信じるなら、そういう「才能」が良い。
この自分が決めた道筋を盲目的に面白おかしく歩ける。それだって十分、才能じゃないか。





そういえば、源さんが2023年5月9日の「星野源オールナイトニッポン」のエンディングトークで言っていた。




「才能のあり・なしを人に判断させるな! 自分で見つけろ!」



そういえば、と思う。自分に「作りたいなら作って良いんじゃないか」と思わせてくれた人のひとりは、源さんだった。3年前に読んだ彼の文章で、それこそ、ラジオでも語られた言葉にそうだよな、と思ったのだ。



才能があるからやるのではなく、
才能がないからやるという選択肢があっても良いじゃないか
そう思います。
いつか、才能がないものが面白いものを創り出せたら
そうなったら、才能のない、俺の勝ちだ



その言葉にそうだよな、と頷いて、ここまできた。いつもビビるたびにでもやりたい、と思い、「自分の好きな人たちはビビった時こそ、進んでたぞ」と鼓舞してやりたいこと全部、やってきたのだ。



その先がこういう「幸せ過ぎてズルしてないか」と不安になる夜ならそれはそれで、歩いてる方向は間違ってないんじゃないか。
うん。そうだよな。