えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

RAPNAVIO

自分で幸せになった方が良いな、と思った。
なんの時かは分からない。だけど最高の音楽に手を挙げ身体を揺らしながらふとそんなことを思った。自分のことは、自分で幸せにした方が良い。たぶん、その幸せが大事だし、たとえば私も自分の大切なひとが自分を幸せにしているのを見たら、とんでもなく嬉しい気持ちになるのだ、きっと。



RAPNAVIO RELEASE ONE MAN LIVEには、たくさんの「最高の景色」があった。
その最高の景色や音楽は漏れなく私を幸せにしてくれたけど、それを噛み締めてるなかで「自分で幸せになろう」と思えたのがなんだか無性に嬉しかった。
梅田サイファーのみんなが冒頭、たくさんの観客たちに、上がる歓声に嬉しそうに目を細めていたことをずっとずっと思い出している。



私の中で「梅田のライブ」とは、「ひたすらに楽しい時間」と読む。
エンタメを見ると高確率で没入し泣くことが多い私が、泣くよりも踊ってぶち上がってしてると終わる時間。それが私の中での「梅田のライブ」である。
その「楽しい」が居心地良く、幸せで去年の夏以降、たびたび足を運んできた。
ソロのパフォーマンスで観る時、あるいはCreepy Nutsで観る時はほぼ確実に泣くのにどうしてだろうと考えると、それはたぶん、梅田にいる時の彼らがひたすら「楽しそう」だからだ。





歩道橋でラップをしていた彼ら。その頃を知らないのにその光景がいつのまにかファンの中でも愛おしくなっているのは彼らがその景色をいいものとして話してきたからだと思うし、それが「良いもの」のままあるのは、彼ら自身がそう「綴ってきたから」なんだろう。




私はライブのMCの時に挟まる伝説のバトルの話やクラシックの韻の話を嬉々としてする彼らが好きだ。誰も知らないごくごく個人的な話をするところが好きだし、メンバーのバースにぶち上がったり乗っかったり煽ったりする彼らが好きだ。



HIPHOPCreepy Nutsを通して本格的に出会って聴けば聴くほど、この人たちはすごいな、と思う。自分の人生をこうして綴って音楽にして誰かが重ねられる余白を作る。
それは本当に怖くてすごくてたまらなく面白いことだと思うけど、今回のこの「RAPNAVIO」でもそんなドキドキ感をたくさん味合わせてもらった。



KINGやアマタノオロチなど「カマシ」曲も多く、今までの彼らの楽曲で歌ってきたように刻んできたパンチラインや上げてきたスキルが誰にも奪えないブリンブリンになることを体現したアルバムであり、ライブだった。
そしてその一方でそれが「暇つぶし」だということ、遊びだということ。なんか、その両方が混在してて、それが私は大好きなのだ。



私は、自分の中で諦めてきたものがたくさんあるんだけど、そういうのを彼らを見ているといつも思い出すし「まだ諦めなくて良いのか」と思う。
それはどこかで重なってしまっているからだし、重ねながらも最高に格好いいからだ。
しかもそれが彼らにとって「楽しいこと」「オモロいこと」だというのが、なんだか無性に好きなのだ。
だから、それが私の中で知ってると思ってしまうんだと思う。ああわかる、私にもあった、そういう楽しいこと。でもなんとなくで諦めてしまって手放して、だから余計に「その楽しいを手放さずにここまできた」にびっくりする。




手放さず、というと語弊もあるけど。
失ったものもたくさんあるんだろう。
でも、たぶん、失った、と諦め切ったりしないんじゃないかと思ってる。
それを手放さずに生きていくことの大変さ、しんどさと一緒に進みながら笑ってカマシて行く彼らを観ると身勝手にそんなことを思ってしまう。


そして自分も負けねえ、と思うから余計に「自分で幸せになろ」と思った。自分の中の好きや面白いを信じてここまで格好良く歩いてきた彼らが本当に大好きなので。
自分で勝手に幸せになって楽しいことや面白いことを自分で見つけて作って、その上でこの最高の人たちの音楽にまた、自分を重ねたい。
私の中で梅田サイファーはそういう憧れなのだ。




彼らは変わることを怖がらない。いや、むしろ真っ直ぐしっかりビビったり不安になったりした上でそれでもと船を漕ぎ出すことに決めた。
でもその船は、何も変わらないと言い切る。
景色が変わっても、規模が変わっても。
でもそれは確かにそうだ、と今回、ライブを見ながら思った。
彼らはただただ、「ラップがしたいだけ」なのだ。誰よりもうまく、格好良く。
その「カマシ」が一番彼らが楽しいことでやりたいことで「格好いい」の在り方なんだろう。
そう服部緑地の真ん中で、ひたすら楽しそうにバースを踏み抜いていく彼らを観て思った。それは、とんでもなく幸せな光景だった。