えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ケイコ 目を澄ませて

当たり前ということは物凄く難しい。
それは「ただ当たり前の日常を送ることが」なんてことではなく(もちろんそれだって難しいんだけど)何をもって当たり前とするのか、という話な気がしている。



なんと言葉にして良いかわからない映画だったけど、強烈で静かで、愛おしい映画だったと思う。
実在するボクサーである小笠原恵子さんの自伝をもとにした映画である「ケイコ 目を澄ませて」は、不思議なひかりに溢れた映画だ。




あるボクシングジムに所属するケイコは、耳が聞こえない。
そのため、他のジムでは試合に出してもらえないこともあったという。ただ、映画は、始まると同時に、淡々と、ストイックにトレーニングをこなす姿が映し出される。




冒頭、字幕で劇中の「音」が文字になっていく。それを読みながら、耳が聞こえる私が無意識で聞き流している音の多さに驚いた。同時に、文字にされる音たちが演出であること、物語、映像、形作る全てだとしみじみと考え込んでしまう。





ケイコ 目を澄ませてはともかく映像の演出がすごい。それは奇抜な絵作りだとかという話ではなくて、むしろさり気なく、ただ、そこに「在る」という映像なような気がした。
自分が、当たり前だと思っていたもの。気付かなかったもの。




例えば、コンビニでの「袋要りますか?」という一声、ぶつかった時の罵倒、ほんの些細な声掛け。それが、「ない」になる人がいる。
当たり前みたいに私は「聞こえる」世界に生きていたんだ、と思う。
例えば、トレーニングの縄跳びの音、電車の音、ペンを走らせる音。無意識で受け入れたそれは、確かに、「その景色」を構成する一部で、それを伝える、ということを考える。




そして岸井ゆきのさん演じるケイコはそんな私のなんとなくの居心地の悪さなんて関係なく、ただただ、トレーニングを続け、生活し、勝とうとする。





ケイコが何を思ってるか、感じているかはほぼ、言語化されない。私たち観客にできるのはその表情に浮かぶ僅かな色、動き、目の揺れから想像することだけだ。


「話してよ」という言葉への「どうせ人はひとりでしょう」という手話を何度も思い出してる。




勝手に解釈して「こういう物語だ」と語ることは、あるいは、「ケイコはこういうひとだ」と語ることは、なんだか私にはこの映画には合わないなあと思う。
淡々と読み上げられた、積み上げられた、あの時間に動いた心のことをずっと、覚えていられたら良いと思う。
言葉にして音にしてそれっぽく形にまとめた、そんなものじゃない。もっとシンプルで曖昧で、でも熱量のある何かだ。




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