えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アンダーカレント

「なんでこんなに分かってくれるんですか」
仕事で人の話を聴くことが多くてたまにそう言われることがある。私はその度に曖昧に笑って返す。それ自体社交辞令かも、と思うし、なんならそうであれ、と心底、思う。




だってだいたい私はそういうとき、「この人はこう言われたいんだろうな」という言葉を丁寧に伝えているだけなのだ。
だから、正しくは「理解した」のはその人自身ではなくて、その人がなんて言って欲しいか、どう見て欲しいと思ってるか、だ。
なんだか、そんなことを思う時、私はいつもほんの少し寂しく、苦しくなる。







アンダーカレントは下層の水流、またそこから転じて表面には見えない、なんなら表面に見えているもの・思想とは矛盾する暗流のことらしい。
確かにこの映画も淡々としていてなんだか奥にまだ何かあるようなそんな気がしながらずっと見ていた気がする。更に言えば、だからこそ私はこうして1週間経った今もあの映画のことを考え、あの世界の彼らのことを思い、もっと知りたいという気持ちで漫画も読んでみた。





ずっと、考えている。考えても理解らないのかもしれないし、なんならそもそも「理解った」とはなんなのかも、分からないのに。





銭湯を一緒に営んでいた旦那がある日失踪してしまったかなえのもとに、住み込みで働きにきた「堀さん」。
そんなふたりの日常を銭湯に来る人たち、あるいはかなえが友だちづてに依頼した探偵とのやりとりを交えながら、平熱で描いていく。
どこか可笑しいようななんでもないような気もしながら、時折、その毎日には不穏が覗く。





突然いなくなってしまった悟さん、ずっと水に沈められる夢を見るかなえ、掴みどころのない堀さん。






そうして分かっていくことに、私は大きく、ため息をついた。
人は観たいものしか観ようとしない。理解し合えないし、しようとも、本当はできないのかもしれなかった。
轟々と音を立てて水は流れているのに、見えるのは静かな水面だけだったりする。もしかしたら、それを望んでそうさせたのは自分かもしれない。そのことにほんの少し心当たりまであるから、始末が悪い。





劇中、ある事件についての言葉の中で「ただ話したかっただけ」という言葉があった。私は、それになんだか猛烈に腹が立った。誰かを置いてきぼりにした、独りよがりなコミュニケーションに泣き出したいような舌打ちしたいような気持ちになった。だけど、もしかしたら、そんなものなのかもしれない。
その言葉が出てくる瞬間は、中でも、暴力的なものだったけど、大なり小なり。人と人のコミュニケーションはそうやって勝手が押し付けあって、それがたまたまうまくいってると勘違いし合える時が時々あるだけで。




気が付けば、仕事での息苦しさを思い出していた。
自分が欲しいと思っていた言葉を渡された瞬間に「理解してもらえた」と思うことも、またそれに虚しさを感じてしまうことも、全部、酷い話だな、と思う。
なんだか大袈裟なまでに悲劇的で感傷的で、もっと俗物のはずなのに。汚いドロドロした感情を覆ってコーティングして、何をぬけぬけと、と思う。だけど、それらを「汚いこと」と非難するのもまた違った大袈裟になってしまって、うまくいかないな。





かなえと悟がそれぞれその答えを選ぶ理由ってすごくしっくりくるけど、「ずるいな」というか、綺麗すぎるよ、と思っていて、それは「そんなんあり得ないでしょ」という「綺麗すぎるよ」じゃなくてむしろ世の中、生活の中、ありふれてるほどに真っ当な「綺麗すぎる」でなんだか私は無性に息が苦しくなった。




そういうものなのか。そういうものにしか、なり得ないのか。
そういう苦いものをなんとか飲み込んで、あるいは飲み込んだふりをして、やっていくのか。





そう思っていたけど、映画の最後のあるシーン、私はほんの少し、勝手にああよかった、と思った。
正確に言えば、それが漫画にはない描写であることを知った時、いよいよ私はほっと嬉しくなった。
映画と漫画は表現方法が違う。だから、同じ物語を伝えようとする時、ほんの少し表現が変わるのかもしれない。
いや、何より、原作者である豊田さんが描いた物語を、脚本である澤井さんと今泉さん、そして監督としての今泉さんが咀嚼して飲み込んで消化して、また違った形が生まれ、それを新たに役者さんの身体を通してスタッフさんの技術が下支えし、立ち上げるもの。
それらを観ていて、なんだか「伝わる」と思ったし、「伝えたい」と思った。本当が何かなんて、何も分からないけど。




ただなんだか、その時間を通して私はあたたかな柔らかなものに触れた気がした。それは、私にとってはとても嬉しいものだったのだ。