えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

今はちょっと、ついてないだけ

自分の人生を「どこで間違ったのか」と思ったことがたぶんない。第二の思春期と言われる年齢のせいか、近頃相談で自分の人生のこれから、みたいな話を聞く機会が増えた。
仕事を選ぶのか、その仕事も何をするのか、結婚は、子どもは。そういう話を相談される。いやたぶん、あれは相談ではない。
言葉を尽くして、自分の持っていた可能性捨てた可能性、取りこぼした可能性を並べ、それでも自分のいる今、手の中にある可能性がそう悪いものではないのだと思うための思考の整理なんだと思う。




なんか嫌味な書き方になったけど、別にそれが嫌だと言いたいわけでもなくて、そもそも私が普段やってる言葉にすること、もそんなものだと思う。
何より私だってそういう相談を受け入れるのは結局、そういう話を聞きながら「私は私の人生どこで間違えたかなんて思ったことないな」なんてことを確認したいからの可能性が大いにあるわけだ。嫌なやつだな、と思うけど、まあ実際、そんなやつな気がする。




自分の人生を肯定するためには、何があったら良いんだろう。
例えば書いたような誰かの悩みに「ああ自分は違うな」なんて安心するようなクソみたいな肯定の仕方ではなくて。というかそんなもの、肯定でもなんでもない。




この映画の中にはいろいろな自分の人生が思うように進まない人々が出てくる。
バブル崩壊で自己破産まで追い込まれたある時代のヒーローだった男。
家庭も仕事も失った男
口下手なせいで夢に進めない女。



他にも、さまざまな「ちょっとついてない」人たちが出てくる。しかしそれは苦味たっぷりというよりかはどこかぎこちない、"ちょっと"のズレだ。でもその"ちょっと"があるから、決定的に自分の人生を肯定、することが難しい。



そんな中、また「ちょっと」のきっかけで彼らは出会い、一緒の時間を過ごしていく。



私がこの映画が好きなのは「決定打」がないからだ。
そもそも前述した彼らの持つちょっとのずれ、で何に苦しんでるのか、それに対してどう思ってるのか、みたいなものはハッキリ描かれない。いなくなってしまったひと、失ってしまったものはあるのに、それが具体的に示されたりそこに向けた彼ら自身の悲しみ、苦しみははっきりとした言葉で示されない。
なんだか私はそうだったから、彼らのことをまるで身近な、すぐ目の前にいるひとたちのように感じた。
決定的な華やかな幸せも救いも描かない代わりに、決定的な不幸も描きはしない。こうして並べた時、私がより「容赦ないな」と思うのは、華やかな幸せも救いも描かないことではなくて、決定的な不幸を描いてくれないことだ。
どん底で、憎たらしくて自分が許せなくて、それでも、生きていけてしまうくらいの「ちょっとついてない」に、片付けてしまう。




思えば、悩みを私に告げた友達、知り合いたちも普段はにこにこと笑っていたり悪態こそ吐いても、「なんでもない」顔をする。そうして、なんとか生活してなんでもないふりをして、でも時々どうしようもない気持ちに飲まれて飲まれたというのにそれを出すことも飲み込むこともみっともないのだ、と突き付けられるようなしんどさが私には時々ある。このブログだってそうだ。わざわざ言う必要もないこと、形にすべきじゃないこと、自意識自己愛自己顕示欲、そういうものを煮詰めて煮詰めて、なんかこう、何やってんだろうな、とにっちもさっちもいかない気持ちになる。




そんなことを思いながら、この映画の中で描かれる「今はちょっと、ついてないだけ」という言葉の優しさにお腹がぽかぽかと温められるような心地がした。
別に「優しい映画」なんて括りをするつもりはない。
優しくはない、解決策も分かりやすいハッピーエンドもくれない。生活や人生のほんの一部。だから私は、彼らのことをこれまでとこれからのことを、何も知らない。でもあの映画を通して触れたほんの数日、少しの期間の中のある瞬間瞬間のことを知ってる。なんだか、それで充分だった。




写真を撮ること、化粧をすること、笑わせること、誰かを支えること。誰かにとって「見たことない景色」を観るための方法、生きてて良かったと思える手段の描き方が本当に美しい映画だった。



大団円なんてものでは、ないかもしれない。幸せを約束するものでもない、だけどほんの少し、上を向ける。
それを信じられるような、優しくて確かな手触りがある時間の積み重ねを私はちゃんと覚えていたいと思う。