えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

THE FIRST SLAM DUNK

好きなものがないと、この世はちょっと生きにくいよなあとよく思う。
時々それが行き過ぎて「かと言って好きなもののために生きてるって思うとそれはそれで足元がふらつくよな」なんて考え込んでしまうけど、それでもやっぱり、この世は好きなものがないとちょっと生きにくい。逆に言えば、好きなものがあるからクソみたいなことまみれの毎日をなんだかんだと笑いながら過ごせているんだろう。
それはやっぱり、何度「好きって結構暴力だ」と落ち込んでも、どうしたって行き着いてしまう結論である。




スラダンをきっかけにバスケを始めた人を知っている。今回の映画を、漫画を、熱く語るひとがいる。そのこと含めて、この作中描かれたリョータの「好きなことを手放さなかったこと」は物凄く意味合いとして濃く、素敵なことなんじゃないかと思う。





私にとっての「SLAM DUNK」は確か学生時代、途中まで読んで、途中だったのに姉が友だちに返してしまい、読み切れず「出会い損ねた」漫画である。
なんならそうこうしてる間にそれが「いかに愛されてるか」の方を目にする機会が増えて、いよいよなんとなく手を出しにくくなってしまった。




だから、この映画「THE FIRST SLAM DUNN」も盛り上がりをずっと見守っていたけど、いやむしろ見守っていたからこそ、最初は観ないまま終わるかもなあと思っていた。つくづく、祭りに加わるのが下手な自分が嫌になる。



ところが、なんだかんだと話を聞いてる中で、なんかもう、よくわからないノリとテンションで観に行くのもありじゃないか、と思った。
熱烈にハマらなくても祭りに加わらなくてもただただ「観たいから観る」で良いじゃないかと何度か言い聞かせながら、大好きな塚口サンサン劇場へと足を運んだ。運んで、冒頭シーン、一音聴いた時点でああ見に来てよかったな、と思う。



塚口サンサン劇場は、ともかく「好き」が詰まった映画館である。メジャーな作品から、ここでしか出会えない作品までともかくスタッフの人たちの選りすぐりの作品がかけられ、しかも、それに合わせて(もちろんある程度予想動員に合わせたシアター選びである前提はあるけど)シアターや設備、音響が選ばれる。
この「THE FIRST SLAM DUNK」は大きめのシアターでかつ、音響が心地いい場所が選ばれていた。そこで聴く、The Birthdayの音楽はもう問答無用で格好いいしそこに「バスケの試合」の音が重なっていく様は、映画館で映画を観ることが好きな理由の形の一つだったと思う。


更に何より。
この「THE FIRST SLAM DUNK」がすごいのは「描いてること」「描いてないこと」の描き方である。もっといえば、花道やこの映画の主軸であるリョータが、それぞれの選手が「言ったこと、言ってないこと」があり、それでも試合は続くこと、物語が成立すること、ではないだろうか。




湘北と山王工業の試合は、劇中、読んだことなくても知ってる名台詞・名シーンが連発されることからも分かる通り、あの漫画の中でも屈指の名試合であり、重要な物語だろう。
事実、この映画を観た友人が好きなシーンが削られたことにそこそこ凹んでいたことを思ってもその情報量・物語の密度・メッセージの密度は並々ならないものがあるんだろうことは映画しか観ていない私にだって分かる。



でも、十分、映画で伝わった。
この映画で描かれた「リョータの物語」は重く、リョータという人を形成する大部分を占める。でも、それがなくてもきっと(そして間違いなく)原作のリョータが、湘北と山王工業の試合が魅力的だったことと同じように。





なんかそれは、かなり、凄いことだと思う。






乱暴な言い方をすれば「関係ない」のかもしれない。その人がその時何を感じ、なんでそう考え、どう思っていたのか。でもこの映画を見て1ミリでも心を動かしていれば「関係ない」わけがないわけが分かる。どれも大切で必要で、一部分で、でも、全部だ。





スポーツでこんなに心が動かされるのだと初めて知った。息を呑んで、シュートが決まった時には拍手をしそうになる。





なんでだろうと思ったし、思いながらスポーツってすごく人間くさいんだな、と思った。
人間くさいけど、そこに言葉がなく、表面で見えるのは技術と点数だから、だからこその面白さがあるんだろう。それから、だからこそ「描く」「描かない」の選択が変わっても成立するものがあるのだ。



そしてそれも含めて、誰かの好きがこの物語を動かしてきたんだな、とほんの少し外野の私は思う。




作中でも作品の外、現実世界でもたくさんの好きが溢れて、動き、変わり、進めてきた。




観ながらスラダンを好きな色んな人たちのことを思い出した。それは正しいか正しくないかは別として、好きなものの中にそれを好きな誰かの表情やら形に触れたような気がすることで、つまりは、全部「好きがその人を形成するのだ」ということなんじゃないかな、と思うのだ。



そしてそれはある意味で「じゃあ私もそうなのかもなあ」という気持ちでもあるし、スラダンのリョータ話でもあるし、そう思えば思うほど、17年間バスケのことだけ、という台詞がボールを追いかける彼らの姿が、ますます愛おしくなるのだ。



好きだから、が何かになるかは分からない。だけど、好きがあるから、歩けた道がある。過ごせた時間がある。
それを確かに信じられる時間が、この映画には詰まっていたと思う。



そういう奇跡みたいな時間に触れられたからやっぱり外野だなんだと屁理屈こねずに、ピンときたら映画館には足を運んだ方が良いんだろうな。