えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

映画 バクテン!!

心地よくて、美しい映画だった。
アニメを途中までだけ観た上で友人の勧めで男子新体操部を舞台に物語が広がるバクテン!!を観に行った。




※劇場版のネタバレを含む上、アニメシリーズをまだ完走できていない人間の視点での勝手な感想になります





「刺さると思う」と劇場に入る直前友人に言われたわけですが観てる中で「さすがにここまで刺さる要素あるんやったら言っといてや」と思いながら観ていた。もうほんとに、面白かった。


ところで、私はあのオタクな先輩たちが好きだ。
そのふたりが劇中話す、オタクについての話が好きだった。ああそうだったな、と嬉しくて穏やかな気持ちになった。そんな中で矛盾するようではあるけど、どうしても「語りたい」という気持ちに従って、面白かったと思ったこと、好きだった理由の話をしたいと思う。




男子新体操というものに詳しくないけれど、いやむしろ詳しくないからこそバクテン!!で描かれる男子新体操の表現がすごいと唸ってしまう。劇中、数段うまくなってる、という台詞があったけど、なんならアニメスタッフの皆さんもテレビ版から劇場版で数段うまくなってない?!と驚いた。最初の数話しか観てないから余計にそう思うのかな。それともそういう演出か。いや、いずれにせよ、めちゃくちゃすごいことだと思う。


ダンスのようにも思える新体操。筋力としなやかさ、跳躍力。表現力。ともかく色んなものが必要とされるし、でもその上で、ものすごくシンプルな競技なんだと思う。
そしてそれをアニメでは最低限のものに削ぎ落とし、キメてきていたように感じた。
例えば観客のリアクション、音響や照明(これは劇中の世界で実際に在るものも心象風景的に用いられたものも含めて)がどういつ入るのかにもうひたすらすげーーーー!と心の中で叫んでいた。



アニメの物語内、ここぞという時の新体操の演技の表現がおそらく"リアル"な表現になったことにひたすら感動した。



そこは「彼らの演技(パフォーマンス)を観たら絶対に伝わる」という強い強い意志と願いを感じた。もう、なんて愛おしいんだろう。
それは劇中の翔太郎が、あの部のみんなが新体操という競技を愛して信じている気持ちそのものだと思う。




そしてそれが「高校の部活」だということが愛しい。愛おしいというか、少なからず高校の部活に熱量を傾け、語弊もなく部活がほぼ学生時代の全てだった自分にとって、それはもう、ドストレードど真ん中で刺さるものだった。




高校の部活って、なんなんだろうな。時間も気持ちも込めに込め、それでもその後の人生に関わることはほぼない。あの頃情熱を傾けたものを仕事にする人が一体どれだけいるだろう。




正確には、仕事にできる人が、どれだけいるんだろう。努力をした上で、という前提にはなるけれど、その才能に環境に偶然に恵まれることができるのは、ほんの僅かだ。
「それだけの熱量をかけてやってたのにどうして仕事にしなかったの?」とひとは無邪気に問うてくるけど、なんでそんな残酷な問いかけができるんだろうと私はいつも不思議な気持ちになる。不思議な、というのはかなりオブラートに包んでてなんなら素直に言えば、結構怒りに近いものを覚えたりもする。




たった三年されど三年、時間の概念が歪むような無限の可能性を秘めた時間の中で、思いを込めれば込めるほど報われない確率が上がるという理不尽な世界が学生時代の部活動なんじゃないか。




なんてことを思うのが野暮天だというのを、このバクテン!!は教えてくれる。
仕事にならないなら、いやもっと言えば「勝てなければ」意味がないのかという問いかけに彼ら自身がもがき自分たちの中ですら言語化できない気持ちとひたすらに向き合い続ける。その姿にひたすら泣いた。しかもそれが大人である制作者の感傷でも願望でもなく、ただただ、彼らと一緒に向き合い続ける覚悟があるからこそなし得る表現に思えて二重に泣いた。





そしてだからこそ、この物語の大きく大切な軸が「さよならくらいで出会いはなくならない」というメッセージなんだろうな、と思う。
終わってしまったことも、望んでいた形じゃなかったことも、離れてしまうことも。
たったそれだけのことが、あの時間を気持ちを関係を無価値に変えてしまうわけがない。奪い去っていけるはずがない。そんな脆いものじゃないのだ。



彼らの時間は、これからも続く。そしてそれはあの尊く愛おしい時間の連続なのだということを美しい映像で描いてくれたこのアニメが、私はとても好きだ。