えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

楽園

楽園ってどこにあるんだろう。



※楽園のネタバレとともに、『怒り』のネタバレにも一部触れています。
また、ネットで検索して分かる程度の上映当時のコメント等についても触れていますが、配信で観たため、ズレなどがあるかもしれません。
ご了承ください。




分からない。分からない。ずっと考えてる。
考えてるけど、それは沸騰するような感覚というより(ブログを書くとき、そういう感覚に押されてのことも多い)むしろ、押されきれず、だからこそ悔しくてかもしれない。


2019年に上映された「楽園」がAmazon プライムに来たので、観た。


吉田修一さん原作の『犯罪小説集』から「青田Y字路」「万屋善次郎」を『怒り』を映画化した瀬々敬久監督が映画化した。

Y字路から起こった二つの事件からある男ふたりと少女を中心に重く苦しい物語が始まる。




綾野剛さん目当てで見てしまったこともあり、また佐藤浩一さんが演じた善次郎のことを掴みきれないままだったので、今回は綾野剛さんが演じた中村豪士を中心に感想というか、文を書きたいと思う。



中村豪士、生かされるだけの男、ふたりの少女に見つめられた時だけ生きた男。
彼を中心にしてあの作品を観るとそうしたことを後悔するくらいに苦しい。
特にラストシーン、本当に「勘弁してくれ」と思った。心底嫌だった。
嫌だった、言葉を選ばずに言えば。あれはたぶん、真っ直ぐ、嫌悪だったと思う。
もっと衝撃的なシーンは中盤にあるんだけど、それよりも紡が現在軸で観た「光景」……というよりも、その光景を見たこと、が本当に嫌だった。


で、なぜそんなに嫌なのか、を考えた。



まずあのラストシーンの捉え方は「犯人は中村豪士である」と考えるかどうかでも変わってくる。
まず、犯人だとしたら、という話で書いていきたい。


犯人だとして、では浮かぶのは何故殺したか、だ。いや正直何故、とかまじでどうでも良いと思うんだけど、でもこの作品で彼が殺した、という物語としたら当然「何故?」を考えたくなる。



人に疎まれ、いやむしろなんなら疎まれもせず、存在すらしなかった中村豪士。
綾野剛の他の作品での姿の記憶が霞むほど、豪士は気を抜くといなくなるような雰囲気がある。いや、儚いやいなくなるというよりは悲しいことにそもそも「そこに存在してない」気がするのだ。
演じた綾野剛さんの言葉を借りるなら「人は人に見つめられることで人になる」とすれば、だから、豪士の輪郭はあんなに曖昧なんだろう。誰も、彼を見ないから。


そしてその彼を"見てしまった"あいかちゃんを殺したとしたら。


そう考えながら思い出したのは『怒り』の「一杯の麦茶」だった。
怒りの中に出てくる凄惨な時間のきっかけは一杯の麦茶の善意からだった。
善意をひとに向けて悪意を返されること。それは理不尽といってしまえばそうなんだけど、でも、分かる、んだよなあ。
善意という一点がなければ、その周りに息苦しいくらい敷き詰められた絶望を知らずに済むし、手の届かない希望に焦がれる苦しみも知らずに済む。悪意だけならそれは悪意じゃない。世界がズレずに済む。
だとしたら、彼があいかちゃんを殺した、ということに納得もしたのだ。


ら、ですよ。
色々と調べると「豪士が殺した」というのはミスリードの見せ方なのではないか?という仮定が生まれた。
あの紡が観た光景は、後撮りで急遽追加されたシーンらしい。


では、豪士は殺していないとしたら、という話の前に「凄惨な物語」を観ることについて考えたい。
私はどちらかといえば、むごい話が得意ではない。テレビをつければいくらでもそんな話を見てしまうので、どうせならエンタメでは楽しい話が観たい。
でもそんなジャンルが人気があることもわかるし私も時々観たくなることがある。
例えばグロテスクさが好きとか、あの救いのなさが面白いとか、理由は人の数だけあるんだと思う。あとは、凄惨な物語を見ることによるセラピーもあるという話も聞いたことがある。
酷い話を見ることで「これよりはマシだ」と思うということらしい。
でもなんか、楽園の惨さとかってなんとなく、それとは違うというか、それには向かないような気がする。
凄惨さを見て溜飲を下げたり、あれよりマシだと思うようなカタルシスはそこにはないように思えて仕方ない。




全体的にそうなんだけど、私本当にこの映画に対してはどう話して良いか分からない、んだよな。
そこからどんな教訓、感想を抱けばいいかわからない。ただべとりとした疲労や嫌悪、だというのにほんの少しのなんかぽかりとしたとのがあって「いやこれなに?」と困惑しているのだ。


そうなんだよ、例えば、一杯の麦茶だとして、
「だったら善意も好意もいらない」と投げ捨てるには作中で描かれたそれが色鮮やかで困る。しかも、それはじゃあ縋るだけの力強さがあるかというと吹けば消えるような些細なそれだから、わからなくなってしまうのだ。


そういえば、あいかちゃんと紡に見つめられたその2回の瞬間だけ生きていたのかもしれないと言った剛さんが、その間の12年間を「何も変わらない」と言っていたな、と思い出す。


楽園のことを考える上でも、それを抜きにしてでも大好きな記事だ。




やってらんないな、と思ったのは。
もしも紡があの光景の幻を見たとして
そしてそれでもそれはあくまで幻で、やっぱり豪士は殺していないとしたら、
その幻の意味は紡のためにある。


自分のせいで、と背負い続けたあいかの失踪と豪士の死を「彼が殺した」と思うことで、下ろすことができるのだ。
それは確かに「あんたも他の奴らと一緒だよ」に他ならない。他ならないけど、でも、だって、生きているから「仕方ない」のだ。

楽園はない。
勘違いして擦りつけながら、人は生きていくのか。そうやって勝手に仮初の楽園を作って、人は生きるからにはそういう幻覚を見ていくしかないと嘯いて。



いやもうそんなん、やってらんねえよ。



ただ、映画というのはそもそもなんでも「教訓」を得るため、救い・もしくはスカッとするために存在してるわけではない。
(好みとしては、エンタメでくらい幸せが観たい、と思うけど)



ある意味でただぼんやりと「生かされているだけ」の人間が描かれ、救われず生き、死ぬということは「見つめる」行為なんだろうか。
"劇的な救済"なんてものもなく、ただ淡々と、透明人間にせず。
でもそんなのは、あまりにも、切ないじゃないか。