えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

チョコレートな人々

仕事をしていて自分にうんざりすることがある。普通がわからなくて、その度に頭の中で好きなラッパーの歌う「普通でええねん、重すぎる枷」という言葉をお守り代わりに口の中で転がす。おかしく見えてるんだろうなあと思いながら思考のずれや動き過ぎる頭や口に仕方ないと諦める。
今の職場になってからようやく「変」と言われることが減った。いまだにそのことに時々怯む。
いつか手のひらを返されてお前はおかしいと言われるんじゃないかと思うし自分ばかりこんなに居心地良く仕事をして良いんだろうかと時々、帰り道で考え込むこともある。





とある映画を観に行った時に観た予告で、絶対観ると決めていたのだ。



タイトルは「チョコレートな人々」
様々な障がいを抱えていたり、社会の中で「働きにくさ」を感じる人たちもいきいきと働く久遠チョコレートの会社に密着したドキュメンタリー映画だ。





チョコレートは扱いが難しい食材だと言われているが、失敗しても溶かせばまたやり直せる。
そんな特性をもとについたこの作品のタイトルが「チョコレートな人々」である。





優しい宮本信子さんが繰り返しナレーションで言う。やり直せる。
やり直せるという言葉は、優しい。優しいけど、それはただ理想の、ということではない。
夏目社長を軸にそこで働くさまざまな人の人生や生活、考えを映し出していく。




これは、障がいを持った人が生きていける場所を作り出す「優しさ」の話ではない。
もっと切実で当たり前で、泥臭い、全ての人の「働く」ことの話だった気がする。




凹凸とか多様性とか、世の中に言葉としては溢れているけど、溢れても変わらず、働くこと、は平等ではない。





大多数にとっての「当たり前」や扱いやすさが大事にされて、他人とうまくやっていくコミュニケーション能力がもてはやされる。そこからずれたら指を指されておかしいと言われたりそもそも働く機会を得ることができなかったりする。






仕事はボランティアじゃないから。
そう言われたこともあるし、言ったこともある。給料をもらうんだから、最低限のことはやってよ。その最低限って誰が決めたんだろう。その最低限の中に「普通」が入ってることがどうしてなのか、そもそもその「普通」ってなんなのか。




福祉作業所の工賃のこと、そもそもそこでの仕事のこと。知らなかったことや目を背けたことのあることを淡々と画面に映し出しながら、この映画は夏目さんの、久遠チョコレートで働く人たちの試行錯誤を描く。




チョコレートを作る作業、売る作業を分担してその作業一つ一つのプロフェッショナルになれば、そこで生まれるチョコレートはすごいものになる。
言われてみれば確かにと思えるけれど、それに気付いて実践して、実現していくことは途方もなく難しい。だけどそんな難しいことをこの映画に出てくる人たちは、笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりしながら挑戦していく。




働くということ、それでお金をもらうこと、生活すること、生きているということ。
それらが、当たり前であることがどれだけ難しくて愛おしいのか、私はこの映画を観ながらずっと考えていた。




夏目社長の後悔やうまくいかなかったこと、を描くことで「ただの聖人/善人」として描いてなくてかといって「等身大の人間」というパッケージ化もしてなくて、不思議な心地になる映画だった。
彼の人生は、彼らの彼女の人生はそれぞれ、まだ続く。そこに私たちが勝手な意味を見出すのは失礼だし、それこそ、そもそも夏目さんの言う通り「すごいですね」と傍観者的に言葉を発するのも、違うんだろう。




「こうしたい」と信じたことを馬鹿馬鹿しいと誰に言われても綺麗事だと言われても自分だけはそれを信じる。
そうして生きている人を笑ったりせず、良いね、と思ったら一緒に信じてみる。自分にできることを一つ、まず、やってみる。




理不尽も、不平等もすぐ近くにある。偏見や差別も自分の中にあるんだろう。
でも、だとしても、考えたい、知りたい、できる限り手を伸ばして動かして、生きていきたい。
だって、何度だってやり直せるんだから。



上映された塚口サンサン劇場ではチョコレートも実際に買えた。優しい甘さのチョコだった。
パッケージも可愛いし、次のバレンタインは他のチョコも買いたい。




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