あの頃の自分はイケていた、という思いほど苦い思いは無いと思う。
アクション0と銘打ちながら、DTCはハイローが描いてきた物語のど真ん中を走り切った。その爽快さにもやられている。とんでもない映画を観てしまった。
アクション0、笑い80、感動20の映画はハイロー120%だった。
九龍との喧嘩の後のあのなんとなくな気怠い感じ。そもそも、DTCの結成のタイミングのことをずっと考えていて、いやお前、コブラがめちゃくちゃしんどかった時に何してんねーん!とわりと、結成のタイミングを知ってからずーーーっと突っ込んでたんだけど。いや分かる、分かるよ、しかしDTCのあのショート作品たちがザム2からザム3の間だとしたらお前、と思ってたんだけど
しかし、しかしですよ、DTCを観たら、なんか、それすら愛おしくなるというか。
サウナのシーンや、配達するダンさん、空っぽの銭湯にいるテッツやヘルパーをするチハル(ところで、ここでヘルパーを選んでいるのがらしい、過ぎて何とも…絶妙なチョイスと表情のセンスすぎる)
大事なものが、何かって話はザム2から延長して続いてるのかもしれなかった。
ヤマトがあまりにも優しい顔して、SWORDの外を見てこいって言うじゃないですか。DTCっていうチームを見守ってるじゃないですか。ここで既に涙腺はだいぶヤバくてですね。
コブラやヤマト、琥珀さん九十九さん、雨宮やRUDE、ロッキーの護るものがブレない人たちがいる一方で、これで良いのかって立ち止まってしまったり、痛みに怯む人たちもいる。とんでもなく格好いい特別じゃなくても、そこにいて、足掻いて、毎日頑張っちゃいるんだよ、って呟くこともあるというか。どっちがいい悪いじゃなくてね。更にどっちが上なんて話でもなく。
ダンさんたちDTCが広いところを見てくることにワクワクするヤマトって、なんか、ああほんと山王って良いチームだな、と思うしその山王はMUGENと地続きなわけじゃないですか。
今回、演出や歌やダンス、そもそもの脚本の段階でかなり見やすくフランクな作品に仕上がってる。頭を空っぽにして楽しめて、まさしく、喧嘩0笑い80感動20だ。どんな相手と見に行っても、楽しめるような。
だけど、同時に、彼らがこれまで何年も掛けて描いてきた核みたいなものがそこかしこに散りばめられていてやられてしまう。
ここまで打ってて気付いたんですけどね、DTCって、まさしく、全員主役、を銘打つハイローがスクリーンの前にいる我々に君たちもだよ、って手を差し伸べてくれる作品なんじゃないですかね。
拳も握らない、仲間が痛かったり悲しい思いをするならどんなそうするべき、の前だとしても立ち止まってしまう。
なんとなく毎日仕事してて、家族とか大事な人はいるし幸せなんだけど、そんなもんだよって現実を知ったような言葉に納得がいかなくてでも何よりそれに言い返せない自分がダサくてもやもやして、
そんな我々の代わりに、DTCが旅してくれて、俺らと一緒やでって手を引っ張ってくれる映画じゃないか。
あの頃はイケてたって自分の立ってる場所に虚しくなんかなる必要はないんだよな。
世代を引き継ぐ話をするテッツとチハル、そしてそのふたりと一緒にいるダンさん
DTCほんと、明確に度々ぶん殴ってくるんですけど、そして彼ら俳優陣の普段の会話のまんまだっていう、だからこそ出せる空気感がたまらなく好きなんだけど、ほんと、ダンさんのバランス感覚よ…
格好良いやつじゃなくていい、ってダンさんの打ち合わせの時に健二郎さんが言ったってエピソードがたまらなく大好きなんですけどね。ダンさんは両方にいける人、なんだよな。
コブラやヤマトのそばに俺もいるやろ!って気軽に肩叩けて、テッツとチハルと一緒にバカやれて。それはまさしく格好良くない格好良さで、そして、とんでもないバランスで起こる奇跡だと思うというか、ほんと、ほんとダンさん好きだよ…。
強くない人間の気持ちを理解できて、そして「評価してもらえるなんてわかりやすくていい」なんてことも言えるんだよ。やべーよダンさん。
問答無用の格好良さにも憧れるけど、ああして笑える人の強さには、もう黙って心が震えるしかない。ああいう人が近くにいるだけで、なんか、大丈夫な気がしてしまうよね、だから、愛ちゃんの気持ちがすげーーーーわかるんだよね。あれは脚本の説得力とかだけじゃ描けない絵の説得力だよ。と、思う。
健二郎さんのお芝居の彼自身だからこその表現に今年は何回打ちのめされればいいのか。好きだ。
というか、ハイローは、そういうとこが大好きなんだよ。
EXILEってデッカいグループに後から入ったメンバーや、「弟分」と他所から言われるグループ、団体に所属しているからこそ言える台詞とか、
いつまでも夢を追い続ける立場にいるからこその台詞とか。
彼らの生理に沿った台詞が心地よくて、お芝居なんだけど、お芝居だからこそ、堪らない空気感があって。特にDTCは、彼らのライブのことを思わず思っちゃうような瞬間があって(明確にどこっていうか、ライブ中の心臓と同じ動き方するとこ、って感じ)改めてハイローという作品の作りに悶絶するしかなかった。
間違ってもやり直せることを描き続ける姿勢
が、ハイローの大好きなところベスト3なんだけど、
愛ちゃんのまだ間に合う?にダンさんが応えることもそしてオープニングに繋がることもなんだけど、ダンさんが!ダンさんがですよ!!
掴めなかった手をもっかい掴みにいけるように背中押してあげるわけじゃないですか!!!!!!!!!あのダンさんが!!!!!
あの、コブラの手を取れなかったダンさんが!!!!!!!!!
山王を一度は離れたこととか、なんならその間にDTCを結成したこととか、なんかそれを後悔はしてても、間違えた、とは思って欲しくないというかなんか違うな、悪いと思って欲しくない、かな。
うーん、表現が難しいぞ。
コブラたちのそばを離れなかったら、のもしとか例えばコブラの窮地で冷えた心臓と同じとこにテッツたちの為に離れることを選んだその感覚は変わらずあって良くて、そしてその上で「山王で九龍と喧嘩をすること」を選んだんじゃないかなって。
だからこそ、愛ちゃんの手を取ってまだ間に合うって言えるんじゃないか。生きてたらやり直す明日が来るからな。
そして、1番、ああこれは今までのハイローの続きの世界なんだ、と思ったのがですね
宮崎さんの「突然いなくなるな」の言葉なんですよ。
なんか、あの台詞聞いた時に龍也さんや兄貴や、スモーキーや、なんならノボルや、彼らの前から「突然いなくなってしまったひと」のことを思い出してしまって。
憎んでも、口を利かなくてもいいから、突然いなくなるな。
いや勿論、これは前のシーンのいなくなった愛ちゃんのシーンの踏襲だってのは分かってるんだけど、でも私の頭の中では、
突然いなくなるな、とは誰の言葉だったのか
ってのがぐるぐるしてしまって。そうだなあ、望むとしたら、それだけなのかもしれないなあ。
ダサくて格好悪くてお節介な彼らは、結局そうなんじゃないの、っていうか。
なんとなく、突然終わってしまうものとか、気が付けばなくなったような錯覚に陥ることって大人っていう世界ではあって
これは最近思うんだけど、でもそれって「錯覚」なんだよね、何にも変わってねーんだよ。
喧嘩に似てる、何かをやり切った時のあの心持ちについて、彼らがおんなじ、思い出したっていうシーンが愛おしくて
なんか、お題目はいいから、目の前の人に笑ってて欲しくていなくならないでほしくて、そんな毎日が大好きで続いたらいいなって思ってるんじゃないのかって、ことを、考えていた。
別に大人だとか子どもだとか仕事だとか喧嘩だとか、そんな線引きほんとはありはしないのだ。
そうやって続く毎日を愛おしく思うのだ。
そして、続く、と銘打ってくれる優しさですよ。あの、ラストにTo be continueって出てきた時、そもそも鬼邪高がスピンオフってあるって知ってるのに胸が熱くなった。
いつか終わりは来るのだろうけど、変わらず彼らの日常が続いてて、彼らはいい意味で変わらなくてそれがほんとに、この映画で1番嬉しかったことかもしれなかった。