えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ヅカローを観た

宝塚を観に行った。
お芝居がずっと好きで、そんな中で何度も聞かれた「宝塚とかが好きなの?」という質問。しかし残念ながら実際は全く縁がなく、いつか観たい観たいと思っていた宝塚を観に行った。


憧れているあいだぐんぐん高くなった敷居というか、どこか遠くの存在のその場所で、まさか久しぶりの顔に出会えるなんて、誰が想像しただろうか。



宝塚がハイローとコラボをすると聞き、最初はいつもの「集団幻覚」かな?と本気で思った。集団幻覚とはこれまでも予期せぬ撮影当時の思い出や未公開ショット、オフショットが出たり、思いがけないコラボ(カップヌードル)が次々と繰り広げられる「ハイロー」らしい界隈のよくある表現だ。
まさか、と言いたくなるような公式からの投下がある。その度にTwitterのタイムラインがざわつく。
そういう「お祭り感」あるいは「共犯者感」がすっかりおなじみになっていたし、ある意味でハイローというさまざまなメディアミックスを展開してきたジャンルらしい現象だとも思う。



思えば2017年、HiGH&LOWのTHE MOVIE2をいきなり酔った勢いで観に行き衝撃を受け、ドラマを一気見し、あれやこれやと過ごしてる間にLDHEXILE三代目J SOUL BROTHERSにハマり、と手を広げ出してから随分が経っていた。
5年である。小学6年生が高校に入学するくらいのその期間。
思えば色んなことがあって、いい意味でも「慣れて」きていた。



ハイローの世界でもSWORDの物語が一旦終わり(いやバルジって誰だよとかはあるけども)、世間もハイローも鬼邪高の全日を中心としたクローズとのコラボ、「次の世代」へと移り変わっていく。




それが嫌だとかという話ではない。
むしろハイローはずっと「ひとは変わり続ける」ことを描いていた。



永遠はないのだということも伝え続け、それでも"無限"はある。




あの日泣きながらドラマとザム1を駆け抜け、すっかりムゲンで過ごした「ない記憶」をもとに分かったよ龍也さん…!琥珀さん…!と思った人間がどうしてその変化を嫌だなんて思うだろう。



穏やかに自分たちが知った時から変わり続け、でも変わらないものもある「ハイロー」の物語を一歩下がってにはなるけど、見守り続けよう……変わらず同じ距離感で愛してる人たちもそれぞれに好きの形はあるし、それって素敵なことよね……。





なーーーんて、穏やかな気持ちで今回の「宝塚でハイローやります!」も聞いていたわけです。
あらあらハイローってば相変わらずトンチキ度数が高くて予想外なことを繰り広げてくれるのね…びっくりしたわ…なんて気分は近所の昔馴染みのおばちゃん、みたいな感じ。


でもせっかくだし、憧れていた宝塚とのコラボもこれは何かの縁、と友達の力もあり、チケットを入手しながら迎えた観劇当日。







泣いた。
もう泣いた。
オープニングで泣いた。
あの日、繰り返し観た、聴いた、思い出したハイローの世界がそこにあった。




オープニング、お馴染みのナレーションをヅカバージョンで繰り広げながら、彼らが揃う。その時の気持ちをなんて表現したら伝わるだろうか。



SWORDの5人が揃った時、たまらない気持ちになった。
彼らの名乗りと照明、歌。もう、最高。



宝塚、派手なんだな。めちゃくちゃ派手だった。衣装とかはもちろんハイローのそれなんだけど、派手だ。
あとあのセットに負けないデザインのハイロー衣装すごいな、とも思った。キャラデザインが優れている、っていう話は度々ハイローで聞くけどたしかに、と思う。


宝塚がすごいな、と思うのは、セット転換のスムーズさだった。あまりにも滑らか。気付かない。気が付けば変わってる。幕と回転舞台と奈落とって全ての機構を使いながらセットをがんがんと変えていく。


すごい。



これが宝塚…と拝みたくなった。
派手なセットなのに転換してる時にほぼ意識いかないのがすごい。本気で「日常を忘れて夢を見せる」覚悟がある。すごい。




そして、ハイローと宝塚のミュージカルって親和性が高いんだな、と気付く。
そもそもハイローの彼らはコミュニケーションが少ないというかちょっとちゃんと喋りな!!!!と思わず首根っこ掴みたいことが多い。でも気が付けば、彼らが何を考えているか。感じているか伝わる。


そんな魅力が宝塚だと更に増し増しになる。
彼らが何を感じてるか、信じてるか、どうあろうとしているか。



それを美しい人たちが歌って踊って殺陣をする。
すごい。
否が応でも伝わってくる。



歌い上げられる。
格好いい。音楽の力に圧倒される。
更に言えばKEN THE 390さんがラップ指導に入り、ラップまでしてくれる。
ハイローの好きなところは音楽でもあったわけですが、それを宝塚の人々が奏でてくれる。いや、この音楽、最高だな。




魅了されている間に、気が付けば終わっていて私は呆然と舞台を見ていた。感謝しかなかった。




当たり前だけど、宝塚とハイローは相性が良いところもあれば、合わないところもあると思う。
例えば、今回の宝塚ハイローの脚本演出を担当された野口さんも仰られていた通り、ハイローが掲げる「全員主役」と「トップスターが主役」の宝塚はシステムの部分では大きく異なるようにも思う。
また宝塚ではお約束(と、言いつつそもそも精通していないから勝手なイメージなのかもしれない)である「ラブロマンス」もハイローと相性が良いかと言われると意見が大きく分かれるところだとは思う。



そういった"違い"はもちろん感じた。あくまで宝塚のフィルターを通した「ハイロー」の表現である。
それはもう、間違いない。
なんだけど、ハイローだ!と興奮した、あの感覚はなんだったんだろう。





一つには間違いなく、SWORDの人たちのことが私が大好きだというのもあると思う。
それはなんというか、理屈じゃないのだ。
この文を書きたい、と思った時からずっと考えていた。なんでだろう、なんでSWORDの彼らがこんなに好きなんだろう。



年齢が近いからか。
持ってないひと、失くしたひとが描かれていたからか。
でもどっちもそうだな、とも思うのにどっかしっくりこなくて、ずっとなんだろうな、と考えて考えて思ったんだけど、


この5年を、そしてあの私自身も迷いまくっていた2017年を一緒に過ごしてくれたからなんだな。



それは制作時期が、というのもそうだし、それだけじゃなくて(正確には私はザム2からなので厳密な制作、という意味では出逢ったタイミングが若干遅い)ハイローという物語と出逢いながら、楽しみながら、私は私で私生活の中でもがいていて、そんな自分に寄り添うように「変わること」「失くしたこと」「自分の足で立ってどこまでもバイクで自由に走り出せること」を見てきたのが、彼らだと思ってるから、だから、きっと、彼らが好きなのだ。




それはもう、理屈じゃないのだ。



2017年、ドラマと映画を一気に観終え、この物語の続きに何が描かれるんだろうとドキドキしながらザム3の公開を待ち望んでる時も、そういや私はブログを書いていた。






その中で書いていた

理想だけでも生きていけないことを知りながら、
決して現実に埋もれ切らない

という文を今回久しぶりに読み直して、ああ私にとってハイローってそんな物語だったな、と思い出した。

それは私がそう観たかったんだと思う。

あの頃、現実に負けそうで自分と理想の自分のギャップだとかうまくいかないこととかそつなくこなしてる人たちへのやっかみだとかそういうのを全部全部煮詰めて這いつくばっていたので、村山さんの「俺とお前何が違うんだよ!!!」がぶっ刺さり、それ以外にもたくさんたくさん大切な瞬間が重なって私にとってハイローは大事な物語になっていったわけだ。



そしてそんな彼らが、ザム3で青春の終わりを描き、ザワで大人になることの肯定してくれたことが、私の人生に大事な彩りを与えてくれた。
だからこそ、彼らのことが私は今でも変わらず大好きだし、ヅカローで演じる人、表現方法は違えど、SWORDの彼らと出逢った時、まるで楽しかったクラスの同窓会のような嬉しくてたまらない気持ちになったんだと思う。




そして、それは私にとってはSWORDの彼らであったように、
誰かにとってはザワやザワクロでの彼らで、あるいはこれからも紡がれ続けるだろう物語の中の誰かで。それぞれがそれぞれの大切になっていくんだろうな、とも改めて思った。
そういう強さ、面白さがあるから、私は「ハイロー」というプロジェクトが好きだ。



宇宙のどこかに地球と似た惑星を発見した時のような驚き



そう、ヅカローの脚本演出の野口さんが書いた言葉を見て、頷く。
そう、そうなんだよな。


野口さんのごあいさつ文末の文が、私は大好きだった。だからこそ、私たちは劇場に映画館に足を運び、テレビを着けるんだと思う。
それは単なる逃避という話ではなくて、ここで地に足をつけて生きていく、生活をする糧の話なのだ。


そしてハイローは、まさしく、そんなエネルギーを生み出し、脈々と受け継ぎ絶やさずいてくれるんだと改めて今回実感した。



自分にとってハイローがどれくらい大事で大好きなのか。久しぶりにこんな長文が書きたくなるくらいの気持ちを思い出させてくれたヅカローに心からの感謝を。