えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

いつか、いつも、いつまでも

すげえ好きだったかと言われると難しい。
そもそも、そういや私はいわゆる「キュン」という表現に対して苦手意識が強い。恋愛描写でふたりが互いに夢中になってどんどん自分の周りが見えなくなっていく描写は、どちらかと言えば私は気持ちが反比例するように冷めていってしまう。


それでも、なんか居心地も良くて好きで、でもいやそれはどうなんだよ〜〜〜もあって、なんだか不思議な感覚だった。




一目惚れした女性と同じ顔の女性は想像と全然違う人で(なんならそもそも本人ではない)なんだよこいつ!と互いに思いながら、それでも、互いに惹かれていく。一緒に過ごしながら家族のようになっていく人たち。
美味しそうなご飯の描写に癒されて、猫が戯れ合うみたいに引っ掻いて引っ掻かれてしながら仲を深めていくふたりは、たしかに可愛くて優しい。




この映画にはたしかにずっと、優しい時間が流れている。
だけど同時に、何かを誤魔化したりはしない。
というのも、亜子には海外に行っている勢いで結婚してしまった相手が、俊英には結婚間際で別れを一方的に告げた彼女がいる。
その事実をちくちくと途中刺してくる。





恋心という「どうしようもないもの」に従って、彼らは惹かれ合う。
戯れ合うようなふたりのやりとりは、見ているこちらも「しっくりくる」。そして私は、それがしっくりくればくるほど、苦しい。



そうじゃなかった、彼女や彼のことを考える。
その人たちが何か悪かったのか、と思うし、思うと、運命じゃなかった、好きじゃなかったなんていう曖昧な言葉しか見つからず、なんだかなあと思う。もちろん、あのまま、それぞれが「何か違う」と思いながら生きていくのもそれはそれで絶対に違うのだけど。





ということについて、ズバズバ口にしていくのが、観にいくきっかけだったDJ松永さんだったことになんだかちょっとした清々しさと嬉しさを感じていた。ええ、これがフィルターです。
でも本当に、改めてなんというかこの人のお芝居は面白いなあ、と思う。失礼ながら、お芝居が上手い!というのともまた違う。だけど、絶妙な温度感の埋めがあるなあと生きるとか死ぬとか父親とか、から思うのだ。



そして今回、ふたりが惹かれていくことに度々冷や水をかけるように、「でもさ」と口にする姿にそうだよねえ、と頷いていた。
そうだよねえ、と思い、頷き、それでもふたりは惹かれるんだろうな、一緒にいるのが幸せなんだろうな、と思う。




もしもそれが意地悪だとか、何かしらの自分の感情をもって口にしていたのならちょっとそれは過剰な感情になってて観ていてのしんどさが増しただろう。
もしくはそういう「障害を乗り越えてふたりは結ばれました」という盛り上げのための装置に思えてしまってげんなりきたかもしれない。


だけど、そのどちらでもなく、そう思ったからただそう言って、それでもふたりが惹かれていくことを過度に応援も批判もせず、見守る姿にそっかあ、と思ったのだ。




私は、キュンが分からない。
分からないけど、ご飯を食べて心配する人があて、毎日そうして過ごしながら好きだなと思うことは素敵だと思う。たとえば、そういう一つ一つをサボって、「こんなもんだろ」としていくことは、なにより、傷付くし、傷付けることなのだ、きっと。



なにそれ?と笑い合うような、どこかズレた、でもその人たちにとって必要なテンポ。温度。
その全てを理解できたとも思わないし、その辺りはまるで、ちょっと異国のお話のようにも感じたけど、それはそれとして、それぞれがただ、自分の心に素直にそのまま「在る」ことは確かに私にも「いつまでも」と願いたくなる優しくあたたかな光景には見えた気がする。