えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

箱入り息子の恋

「叫ぶ」描写が気持ち良すぎてびっくりした。
星野源の叫ぶ、の芝居はどうしてあんなに心地いいんだろう。


思えば、「逃げるは恥だが役に立つ」も、「11人もいる!」もそうだが、
『うまくやれないひと』を演じる星野源さんはともかく魅力的だ。
不器用だったりコミュニケーション能力に難があったり、ともかく、なんとなくどこか生きづらいひと。
あるいは、彼の作る音楽にも「うまくいかないこと」に寄り添ってくれるような柔らかさがある。
毒みを含んだとしても、それは「毒として存在すること」をそっと肯定してくれるような、そんな感覚。



何を隠そう私も、そんな「うまくいかないこと」に寄り添ってくれる源さんの表現が大好きなひとりである。
そして冒頭、叫ぶ、と書いたけど健太郎は正しくは叫ばない。叫べない。身の内を裂かれるような怒りに駆られても、彼は初め、唸るだけだ。
私はそのシーンが、切なくて苦しかった。大好きな「うまくいかない」表現だったけど、むしろだからこそ、苦しかった。



箱入り息子の恋は代理見合いパーティをきっかけに出会った男女が恋に落ち、紆余曲折を経てなんとか結ばれようとする物語である。
箱入り息子は、人とコミュニケーションをとるのがともかく苦手で普段職場と家の往復しかしていない。
そして、お相手の女性も8歳から徐々に視力を失う病気に罹り、今では完全に目が見えなくなっている。

ふたりはそれぞれに「できない」ことがある。
主人公健太郎に母は、普通に生きてほしいだけ、と言う。



普通に生きて、普通に友達と遊び、普通に結婚をして普通に家庭を築く。


「普通」というそのことが、実際とんでもなく難しいことだというのは、わざわざ私が書くまでもないだろう。
そしてそれが「普通」のことだからこそ、辛い。
これがとんでもない偉業だとしたら、できないことはそんなに辛くないのだ。世界を救えないとか大金持ちになれないとかスーパースターになれないとかなら。だってそれは「すごいこと」だから。
でも、一般的に「すごいこと」とはされない、「普通のこと」がとんでもない偉業と同じように「すごいこと」な場合がある。
そうなると「どうしてこんなことができないの」と周囲から責められる。し、何より自分が自分を責める。



どうして、こんなことくらいのこともできないんだろう。



健太郎も菜穂子もそれぞれ、理由は違えど、そんな普通のこと、が出来なかったひとたちだ。
出来なくて、その上、周りから「お前には無理だ」と決められて、自分を諦める。


選ばれなかった、諦めるしかなかった人のラブストーリーは古今東西、愛される類のものだと思う。
それは、可愛らしく見えて応援したくなるのかもしれないし、
もしくはきらきらのラブストーリーよりも自己を投影しやすいからかもしれない。
なんにせよ、一定の人気がある。私も、好きだと思う。
でも、なんか、それって苦しいなと見合い後の叫べないまま暴れる健太郎を見て思った。少なからず、そのシーンに心を寄せてスカッと……っていうと、語弊はあるが……したからこそ、なんだかなあと思った。
決めつけてしまったような、そんな気がしたからだろうか。


健太郎も菜穂子も、どんどん惹かれていく。
こうあるべき、なんて形でも「お前はこうだから」という決めつけでもなく、心が言うまま、惹かれるまま、お互いに手を伸ばす。
その姿が、柔らかく愛おしくて、なんだかそんなことにも泣けてしまった。
あれはなんでだろうと数日考えてたけど、もしかしたらどっかそんなことあるわけないよーあったらいいのにーちくしょーの苦しさだったのかもしれない。
ないわけでも、ないとも思うんだけど。
あとやっぱりなんか、肩代わりさせてしまった居心地の悪さもあるのかもしれない。決めつけて、他人に任せてしまった罪悪感みたいな。
それは、お父さんが菜穂子にしたような「お前はこういう人だから」と決めつける行為にすごく似ているような気がする。


笑われたことのある、他人から決めつけられたことがある、
そんな人たちが箱から飛び出して"自分の手"で相手に触れる。
そんな泣き出したいような幸福感を目に焼き付けたかった。
だってそれは、一生にそう何度もないような出来事だと思う。だからこそ、健太郎が最後に叫べて、良かったな。本当に。彼らが、彼らのために、何よりも相手が必要なんだと手を伸ばす。その格好悪くてだけどとんでもなく最高のシーンを、思い出してる。