えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

コチラハコブネ、オウトウセヨ

ポップンマッシュルームチキン野郎さんに!行ってきたぞー!!!

あの音楽に身体を揺らしながら開演を待つ、そんな幸せな時間で空間だった。


「コチラハコブネ、オウトウセヨ」
心の底から楽しみだった公演に行ってきた幸せを噛み締めてる。




ポップンマッシュルームチキン野郎、今回、初オーダーメイド席をお願いしたんですが、紙を渡された時点でわくわくした。だって、「ああ確かに、この楽しみ方にはここの席だ!」と思わず頷きたくなる座席だったからだ。
ポップンマッシュルームチキン野郎さんは、いつも、劇場に入った時からわくわくする。特に今回は観る前から緊張がものすごかったわけですが、その緊張も楽しいものにスタッフさんの笑顔で変えてもらえる。なんでしょうね、ポップンのスタッフの皆さんの笑顔とか「いらっしゃい」という空気感にすごく安心するし「ああここから面白いお芝居を観るのだ」とわくわくする。



そして、そしてですよ。
今回もあります、開演前パフォーマンス。まじで本編とほぼ一切関係ないなかで、しかしすごい熱量で繰り広げられるパフォーマンス。
あの「意味のわからなさ」が私は好きだ。
本当に冷静になると「なんで?」ってなるんだけど、そんななんで?が楽しいし、嬉しくなる。今回も最高の「なんで?」をありがとうございました。
本当になんでですか?(好き)



コチラハコブネ、オウトウセヨは大きな物語の主軸があり、そこに関わるような感じで短いお話が挟まっていく。
ポップンマッシュルームチキン野郎さんお馴染みの至極の短編集。本当に、大好き。



主軸の物語も、ひとつひとつの物語もどの話も愛おしくて大好きだ。
観ながら、思い出した。



私は、演劇のなんでもありで、舞台上ではどんな奇跡でも起こり得るところが、大好きなのだ。




そしてポップンマッシュルームチキン野郎さんは、そんな「なんでもあり」の結晶のような人たちだ。「そんなことはないだろ」が次々と起こる。演劇だから許されるギリギリのライン、といつかのポップンさんの芝居の台詞であったけど、本当にそういう「ギリギリ」の奇跡をいつも起こしていく。
ポップンマッシュルームチキン野郎さんの手にかかれば、どんな生物も存在するし(喋る犬はもちろん、マッサージチェアもナップサックも)時間もかけるし、不老不死も、家電の組抗争もあるのだ。
そしてそこで私たち観客はいつも笑い、泣いて、その物語を大好きになって、いつのまにか、元気になるのである。




約3年ぶりの本公演。
だけど、そこにあったのは3年も、その間にあった色んな出来事も感じさせないような公演だった。いや、それもちょっと、違う気がする。
確かに、3年の時間、間にあった出来事は感じる。



なんなら、私は、今回が「ポップンマッシュルームチキン野郎」の公演だからこそ、そして大好きな彼らが作るからこそ、楽しみ120%で劇場に向かった。だけど、そうでなければ、少し怯んだかもしれない状況での公演だったかもしれない。

それくらい、この3年は色んなことがあった。

そもそも、私は変化が苦手だしネガティヴだし、その他諸々的に、大いに怯むタイプだ。
だけど、ポップンマッシュルームチキン野郎の皆さんはいつもそんな中で、笑顔をくれるひとたちだった。少しの毒味とそれ以上の愛情をくれる人たちだった。私はそれを、よく知っていたというか、それをずっと「体験」してきた。
だからまるで、慣れ親しんだ地元に帰るように当たり前に「ここに来れば笑える、元気になる」と信じて劇場に向かった。



3年、3年世界がひっくり返るような、あるいは「ひっくり返せなくなるような」ことが起こっても、それは間違いなく信じられる出来事だった。
そしてそれはやっぱり、変わることない事実で、それが嬉しくて、ずっと噛み締めている。
3年ぶりの本公演。
それは、奇跡のように特別で、そしてどこまでもいつもどおりだった。
ポップンマッシュルームチキン野郎のみなさん、おかえりなさい。そして、ただいまです。またこうして、大好きな場所に帰らせてくれてありがとうございます。





※以下、本編内容に大きく触れています。ネタバレですので、配信あるいは劇場で体験してからお読みいただけたら嬉しいです。















とある事故で、眠り続ける俊樹の病室で「もしかしたら芝居を演じ続ければ目を覚ますかも」と芝居を続ける芝居仲間。
その仲間たちが上演する物語と俊樹の意識のなか、宗助との会話が交互にやってくるお芝居。



冒頭、1本目。上演された「無音はお前の耳にも届いている」が私は大好きだ。
「オハヨウ、夢見モグラ」で上演されたこの物語はどこまで誰の視点で見るかで印象が変わる(ある程度、演出的に"答え"は示されているような気もするけれど)


誰かが「知らない」といえば、「気付かなかった」といえば「知覚しなかった」なら、そこには何も存在しないことになるのか。



ある男の狂気と慟哭が問いかけるこの話が、苦手で、でも大好きだ。そして、まさかその「男」を大好きな高田淳さんで見る事ができると知った瞬間の心臓がまじでやばかった。徳を積みすぎたのか?と焦ったレベル。台詞覚えるくらい好きな芝居のメインを好きな役者さん、しかもそのようやく生で見ることができたそのお芝居で初っ端見れるのは幸先が良過ぎる。今夜優勝が確定されましたありがとうございます、と心の中で呟いたのはここだけの話です。




なんて、ライトな語り口が似合わない作品ではあるんですけど。

でも、私は今回、オハヨウ、夢見モグラからこのコチラハコブネ、オウトウセヨの中の物語として「出会い直し」をすることで印象がずいぶんと変わった。描かれているのは変わらず、どうしようもない狂気と悲しみなんだけど。



それでも、ああそうか、知っていれば覚えていれば、知覚さえすれば「存在する」。現実である。



王子小劇場が好きだ。
所狭しと並べられた椅子に座りながら、すぐ近くに人の気配を感じながらお芝居を観ることができる。そのことにも今回、震えそうなくらい嬉しかった。
そう多くない人なんだと思う。配信もあるとはいえ、様々な制限がある中での上演で客席数は限られてる。だけど、確かにここにいる人たちが、知覚する、覚えている、知っている。それは、なんてとんでもなくすごい確率で起こった幸せなんだろう。この数年、当たり前に自分の好きなお芝居を観るということが困難になったからなおさらに思う。ここにいて、このお芝居を覚えていることが、観れていることが嬉しい。そしてたぶん、これからことあるごと、思い出すのだ。そしたら、きっと、失くならない、あり続けるのだ。そういう時間たちなんだ。



そう思って、なんだか目の前に繰り広げられる狂気に合わない笑顔をついへらへら浮かべそうになって、思わず口元に力を入れたけど、本当に、なんか無性に嬉しかったな。



透明組長は、もう一本の「あの」作品と同じく演劇だからこその無茶苦茶を最高にぶちかましてくれて好きだ。
ねえみんな、「組長」見えてたよね?
笑えて無茶苦茶で喜劇で悲劇でコメディでハートフルな、これぞポップンマッシュルームチキン野郎過ぎる。
なんだろうな、本当に好きなんだよな。
どこまでもシリアスにも馬鹿馬鹿しくも語れるこのお芝居、本当に好きだ。無性に好きだ。




からの、彼らの話ですよ。いやあの配管工って。
そしてその脚本がNPOさんの作品と知り、友達と爆笑してしまった。最高無茶苦茶過ぎる大好きだ。とんでもなくて、大好きだ。
ダンスしてる姿に「本当に芝居ってなんでもありだな」と声を出して笑いたくなった。
ハレの場なんだよなあ。
なんでもありで、明るくて楽しくて、なんだろう。なんだったんだろう。
クッパのことをめちゃくちゃ好きになったんですがどうしたらいいですか。今度のハッピーセット頼むと良いのか。



ふたりは永遠に、は冒頭、あの景色が見えた瞬間、息を呑んだ。
無音もだけど「あの」お芝居だと気付く。何度も何度も繰り返し見た、大好きな芝居が目の前に広がってる。
ふたりは永遠に、ポップンに出会った頃、何度も何度もYouTubeで観た作品なんだ。大好きで優しくて愛おしくてかなしい。
短くてシンプルで、でもその中に吹原さんの、ポップンさんの良さが詰まってる。大切に想う誰かを遺して去ること、遺されることの寂しさをそれぞれに描いて、描きながら先に進む。

そして、さらにいえばここから繋がる物語を私は知っている。ふと、目の前で今まさに繰り広げられるお芝居を見ながら、KASSAIで観た、2020年にYouTubeで配信されながら観た、あるいはひとりで観たR老人のそれぞれの時の記憶が蘇る。なんだか、そんな幸せなオーバーラップと一緒に目の前のお芝居を観ていた。




縦歩きのサイモン・クラブの感想にも、繋がるんだけど。
会えるというか、いるんだなあ、と思う。



「いつでも過去に戻って俺に会いに来なさい」



そう言ったテリーの言葉があまりにも不意打ちで、そして今日、コチラハコブネ、オウトウセヨで何度も「会った」ような気持ちになっていた私には、もう、なんか、ああそうかあ、としかいえない気持ちになる。



例えばこうして過度に重ねることが正しいのかどうか、私には分からない。分からないけど、それは私の中では「事実」なんだ。

そして、だからこそ、そこから続く言葉に、そして、何よりも吹原さんの原作で、小岩崎さんが引き継ぎ紡いだ「箱舟の浮上」が描いたお芝居に、何度も何度も励まされている。励まされているという言葉はある意味、少しズレてしまうけど。


その上で、ズレてしまうという前提をもってしても、言葉として残しておきたいけど。
私は今回のお芝居がまず前提、お芝居として好きだった。大好きだった。
個人的な、あるいは状況的な様々な思い入れや気持ちとはまた違うところでも、大好きだと思った。
だけど結局そのどっちもを無理に分ける必要はなくてぜーんぶひっくるめて、私はこの日、この場所でこの人たちのお芝居が観れて嬉しかった。本当に本当に、嬉しかった。



変わらずに、ではない。



それぞれに生きて生活して、時間を重ねて、あの場でああしてお芝居を通して同じ時間を過ごしたことがとんでもなく力になっている。大切な記憶で、ああだから生きてるって、最高なんだよな、と思ってる。




2022年、個人的に何度もなんで自分がお芝居が板の上に立つひとたちが、エンタメが好きなのかを考える時間があった。
今、自信を持って思う。
私にはその時間が、場所が、そこにいる人たちが自分が人生や生活を、ひとを、好きでいるために必要なのだ。
そして、ポップンマッシュルームチキン野郎さんは出会った時から今までもこれからも、そんな時間で場所で、人たちなのである。



法事、と淳さんがカーテンコールの挨拶で口にしていた。確かに、そうだと思う。思い出話をするように、笑って泣いて、思い出してこれからの時間に続く時を過ごした。そして、いつかもし、自分が去る時、この時間も大切な1ページとして振り返るんだろうな。
幸せだったし、幸せだ。


箱舟の浮上の物語が好きだ。そしてそのお芝居について書かれたあらすじが、パンフレットのリード文が、ぐるぐる頭の中を回っている。
お芝居が好きだ、そこにいる人たちが好きだ、だから、この物語の真ん中、お芝居を生み出す人たちがいることが、本当に嬉しくて、大好きだ。





いつかポップンマッシュルームチキン野郎さんのお芝居を観たあと、書いたことがある。こんなお芝居に出会えたから、大丈夫だと思う、心強いと思う。あの時と同じように、いやそれ以上に力強く思う。コチラハコブネ、オウトウセヨに出会えた私はかなりラッキーで最高の人生で、大丈夫だ。



前売りは完売してますが、若干ずつキャンセルが出ることがあるほか、なんと配信でも観れます、配信は無限にチケットがあります。やったー!!!!!!
(私ももう一度観たいので買います)