えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

わざマシンを拾いそびれた人生

わざマシンを拾い損ねて生きてきてしまった。
友達と楽しい話をしていて、楽しくてこれからの予定もワクワクしているのに不意打ちで思い出した「最近の悲しい」とそこから紐付いて思い出してしまった「昔のどうしようもない話」をつい漏らしてしまった。
その時に、友達がふんふんと話を聴いてくれた後、「人は忘れるからねえ」と呟いた。
もちろん私だって全てを忘れずに覚えてるとは思ってない。むしろ結構薄情なので忘れてることもたくさんある。
だけど何気ない会話だとかエピソードだとかを忘れられずに、勝手に自動再生される脳みそに蓄積されるものだからわりと日常生活で困る。




そんなわけで、そんな友人の「忘れるからねえ」になんでそんなみんな便利機能ついてるの?!私はどこでそれを拾い損ねたの?!と駄々をこねてしまった。こねて思う。あ、そうだ、それだ、拾い損ねたのだ。




たぶん、忘れるというやっていくために必要なわざマシンを拾わずにそのまま冒険の旅路に出てしまったのだ。きっとみんな、1匹目のポケモンを受け取ったあと、慎重に街の隅々まで確認して、それから冒険に飛び出したのに、私ときたら「冒険に出れる!」くらいのわくわくと勢いでそのまま草むらに飛び込んだんだろう。
そりゃ拾いそびれる。思えば、そんなことばっかりの人生だとも思う。




そしてもっと言えば、みんな大なり小なり「拾いそびれたわざマシン」があるんだろう。
代わりにちゃんと拾って習得して「やっていく」ための技を各々、自分の特性だとかに合わせて持っていて、それでいいのに、周りを見てると「あんな技もあったのか」と落ち込む。そんなもんなのかもしれない。




私が持ってるわざマシンは何かを楽しいと思って毎日を過ごせることかもしれない。楽しいを見つけること、好きを増やすことは得意だ。頑張ろうと思わなくても勝手に面白いを見つけてわくわくできる。
忘れるのが下手くそな頭を持ってるから余計にそうやってデリートできない分、割合を自分の都合の良いようにカスタマイズしていく。



そうか、そう思うとわりと、ありかもしれない。




エンタメで生きててよかったと思う日がある。だけど、思えば思うほど、どこかやるせ無いような気持ちになることもある。思いたくなかった、と思うこともある。ああまた、私は諦めるタイミングを逃してしまった。




でもそれだって、自分が旅を続けていくための必要な手段だ。
続けたいかどうかは別として、各々、続けるためのオリジナルのわざマシンで習得したわざを駆使しながら、どうにかこうにか、やってきているんだろう。





だとしたら、忘れる誰かにずるい!と喚くのもなんだか違うし、せっかく習得したわざをあんまり卑下するのももったいない。






最近、周りの人が自分のどうしようもないところを「それでいい」と言ってくれることが増えた。自分の「なんでこんなもの」と思いつつ捨てられなかったものを肯定してもらえる、笑われない。
そういうことにちょっと怯むこともある。
「こうあるべき」に寄せて枠を歪めていたことを認めて、歪めるのを少し諦めたら、それをそのまま「それでいい」と言われる世界線にいた。
それでいい、と思っても、まあ納得いかないことはたくさんあるし、「とはいえ、いつか怒るんじゃないの?!」とビクビクすることもあるけど、もしかしたら周りの人は私が友人との会話でようやく気付いたわざマシン理論にとうの昔に気付いていたのかもしれない。各々、覚えてるわざは違っててそのわざ一つ一つに良し悪しなんてなくて、それぞれ、の「それでいい」でしかないのか。




何かに意味を見つけて、「意味があった」「理由があった」と思いたい。映画が良いのは、全てに理由があって、悲劇に意味があるからだ、といつかの映画で言っていた。それを人生でやるのは、無茶があるかもしれないけれど、どうせなら伏線回収だって笑いたい。
何のために映画を、お芝居を、音楽を聴くのかと理由を形にする必要はないのかもしれない。ないんだと思う。だけど最近はこうして「っていう意味なんじゃないのか」って納得するためのきっかけを一つでも多く知りたくて、ってのもあるよな、と思うのだ。
そしてそれはなんというか、各々、拾えるわざマシンが違うからこそ、見える化して、わざマシンとして渡せなくても方法を共有し合ってるような、肩を叩き合ってるような、そんな感じもするのである。



もうだめだ、と始めた週末が、思いがけず、まあいっか、に変わってるから楽天的にそんなことを思ってる。