えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

階段下のゴッホ

高収入バリキャリ女子。そうあらすじで見た時、あ、ちょっと思ってたのと違うか?と身構えた。
予告で見かけた「絵」と出会う話、ワンシーン。好きだと思ったからこそ、もしこれで「生活よりも」という物語だったらそれは私はNot For Meかもしれない。
とはいえ、気になっていたしと再生して身構える必要なんて何一つなかったと嬉しかった。


稼ぎ、描き、生きていく。


そういった都のことが既に大好きになってる。私は、この人が何を見て何に苦しみ喜び、どこに進むのか、観たい。



階段下のゴッホは、高収入バリキャリ女子である都がある一枚の絵に出逢うところから始まる。「夢みたいなこと」と絵を諦めた彼女が、真っ赤な絵に出逢う。



都は、「全部持ってる」ように見える女の子だ。美人で仕事も順調、上司からも信頼されている。
しかし、どこか虚しい。


描写としてすごいな、と思ったのは実家からの食べ物を広げ、電話で話した後、自分の部屋を見渡して呟く「広すぎたかな」の言葉だった。
家って多分、その人が出る。どんなところで暮らしているか、どんなふうに暮らしているかは、その人が詰まってると思う(だから私は人の家に行くのが好きだし、逆に自分の家に誰かが来るのは緊張する)


おそらく、都が住んでいるのは都心だろうし、そう考えるとあの部屋に住めている、というのは……あえて行儀の悪い言い方を選ぶと……彼女の社会的地位を分かりやすく示していたように思う。真新しい部屋、センスのいい家具、ひとりで住むには余裕のある部屋。
そして同時にそれが妙に寒々しく、がらんとしてるの含めて、リアルだ。
(ところで掘り下げられないからアレだけど絵と出会った後、メイクや照明が変わるのがまた愛おしい。あの出会いが、都にとっては世界の彩度を上げるものだったのだ、という演出、最高かよ!)




持ってる人だから、と敬遠される。勝手な羨望を向けられる。
あるいは。
持ってる人だから「本当」を持ってない。虚しい、可哀想。
そんな勝手な枠組みへの押し付けもなく、でもただただ、淡々とした温度感で階段下のゴッホは描いていく。



都にくっついてくる「高収入バリキャリ女子」に向く妬み嫉みあるいは冷笑に対して乗っかるでもなくただ強く否定するわけでもなく、描いていく。



絵に出逢うこと、一度は諦めたものを取りに行こうと手を伸ばすこと。
私がこのドラマが好きだと思うのはそれを描くために彼女が積み上げてきたものをただ否定するのではなく、手放させるのではなく、そのどちらもを掴もうとすることを柔らかく肯定する。


働いてないと私じゃないの。
そう言った都は最高に格好良かったし、可愛かったし、良いな、と思った。働くことが虚しいと誰が決めた、と思う。し、その上で、自分の好きなものに手を伸ばして何が悪い、と思う。




そして何より。このドラマで描かれていた絵のこと、芸術、とどのつまりは「返事を期待しない便り」のことを考えている。
誰かの評価ではなく、ただただ、自分が自分のために自分は最高だと確認するために生み出された送り出された手紙たち。
私は、そんなものをいくつも知ってるんだと思う。
あちこちに手紙がある。それを私は一つ一つ拾いたいと思う。
たぶん、返事は待ってないんだろう。私のために書かれた手紙なんかではないんだと思う。だけど、私はそうして送り出された、生み出された手紙が好きでそんなものに何度だって元気をもらってきたのだ。
だから、受け取った時、ここに届いてると大きく手を振りたくなるんじゃないか。



何かを為すには人生は短く、何も為さないには人生は長い。いつか聴いた言葉を思い出した。


"好き"を見つけるのも、
"好き"で一番になるのも難しい。
けれど"好き"を続けることが、
何より難しく、誰より美しい。



ホームページに書かれたその言葉が、好きだ。
きっと、ここからいくつも苦しいことが描かれるんだろう。でもその時、同時に美しく楽しいことを描いてくれる。そしてそれが単なる夢物語じゃなく、現実なのだと描いてくれる気がする、このドラマのこれからが楽しみだ。




階段下のゴッホ
#TVer