えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

何万回も同じ答えに行き着くのだ

ふと、読んだよ、という話をしてもらって、過去のブログを読み返していた。


もちろん、書いたことは覚えていたんだけど読み返しながら数ヶ月でまた色んなことが変わっていてちょっと新鮮だった。
なんなら、途中の「しんどい思いをした方が良いんじゃないか、という焦りからだった」という一文を読んで「お前のせいかい!!」と思わずツッコミを入れてしまった。いやお前っていうか自分なんですけど。
さらに言うと、今年のいろんなことはだいたい厳密にはそもそも仕事上の都合だし、全部が全部私に決定権があったものではないので、アレなんだけど、にしたって「この野郎おかげさまで今めちゃくちゃしんどいわ去年の私見てる〜?!」と胸ぐらを掴んで締め上げたいくらいの気持ちにはなったし、
その時点でなんというか、ブログを書いといて良かったな、と思う。人間は忘れる生き物だ。
そんなわけで、ひとまず、この週末のことを忘れないために書く。



それで、辿り着きたい場所が見つかったか、という話なんだけど
ブログを読んでもらって「辿り着きたい場所は見つかりましたか?」と聞かれて、そうか、そういや、考えてなかったと気付いた。
なので、この土日、辿り着く場所について考えてみた。正直、「辿り着いてない」ことは間違いないんだけど、せめてその概要というか、大きな枠とか見えないだろうかと考えてみたくなった。

で、考えてみたんですけど、ところがどっこい。
これが困ったことに見つからないんですよね。
というか、薄々、いや無いな?これ、という結論が出つつあって。無い気がする。
辿り着きたい場所、はこれからどれだけ考え続けても何をやっても、きっと見つからない。


そもそも「着く」がない気がする。だって到着って一個のゴールで、ゴールだというなら、きっと死ぬまで、なんなら死んでも自分と関わった人が生きてる限り終わらない。
かつ、死ぬ瞬間なんてものは自殺を選ばない限り決められないし、
そういう意味で「辿り着く」が成立しないじゃないか。

なら帰る場所は、と考えてちょっと落ち込んだ。
今年あったいろんなことの結果、個人的に「帰る場所」はなくなった、と思う。
もともと過ごしていた場所はもうないし、実家も育った空間とは少し違う。
「空間」としての場所の話をするなら、私に帰る場所はもうないんだなあ、と思う。
なのでどこに帰るんだろうね、というアンナチュラルの台詞を聴きながら「どこに帰るんだろうね〜」と頭を抱えてしまった。どこに帰るんだろう。無縁仏になりそうだな、って話もそうだけど、なんかそうではなくて。

「帰ってきたなあ」と思える、その瞬間はいつか、くるんだろうか。



ただこれは別に私に限った話ではないんじゃない気がする。そう思うのはちょっと横暴だろうか。
無縁仏云々とか、家族やパートナー、友人の有無ではなくて、きっとみんな帰る場所がないなあ、みたいなのってあって、
でも同時に時々「あ、ここだ」みたいな錯覚もあって
それは日々、更新されるんじゃないか。


更に言えば、そもそも辿り着いてない場所が欲しい、と書いたさっきのブログの中でもこう書いている。

『だとしたら、私が考えるべきは場所どうこうよりも何をしたいのか、なのかもしれない。』


じゃあ自分への質問を変えて、何をしたいか、と考えて、通話中、エンタメに触れることや文字を綴ることの話を聴いてもらった。
お芝居や映画を観ること、そしてそれで思い切り心を動かして、自分の言葉になおしていくこと。
それが、たぶん、この一年、かなり私の支えになっていた。気心の知れた相手に会えず、一人の狭い空間の中で、時間だけ有り余ってひたすら考え事だけをしていた私にとって、それが、一番楽しくて満たされた時間だった。


そんで、思ったんですけど。
私は誰かと話すのが物凄く好きだ。聴いてもらうのはもちろん、誰かが話してくれる色んな話に物凄くワクワクしてしまう。


読書で得た財産は、誰にも盗めない財産だ、という言葉が大好きなんだけど
わりとその感覚が、近いかもしれない。
物語が好きだ。それはフィクションという意味でもだし、不誠実極まりないことをいうなら、人が生きてるだけで紡がれる物語も含めて好きだ。
というより、そうならないと人に興味をもてないという良くない話かもしれない。だからこそ、そういう突っ込んだ話をできない環境では面白く無くなって、退屈してしまう。うーん、言葉にすると最低だー!って気がしちゃうな。


それでも、そう思っちゃうんだよな。


そうやって、色んな物語に触れてそれで心底、綺麗だとか楽しい・面白いって思って、そのたびに「もしかしてちょっと、人生って面白いんじゃないの?」って思ったりする。

ここまで考えて、いやきっとこれ、今までも何回も思ってきたな、と思う。色んな物語に触れるにつけ、あれ、生きてるの結構、いやクソなところは間違いなくあるけど、もしかして、愛おしいんじゃないかって、びっくりしてきた気がする。

私は、この同じ結論に何万回も辿り着くんだと我ながら呆れてしまう。人生を放り出したいくらいうんざりして、明日も当たり前に今日がくる可能性に嫌気がさして、それでもそれを越えるための「物語」に触れて、ああちくしょう仕方ないと朝を迎えるんだろう。
そしてその度にああそうかそうだった、と思い出す。
それは馬鹿馬鹿しいようにも思えるし、なんだかとんでもなく幸せなようにも思える。そうやって何度も「出逢える」話があることはわりと、幸せだということなんじゃないか。


そう思うんだけど


さあどうだろう、例えば明日、私が目を覚さなかったとして私の人生は良い人生だったろうか?
それはたぶん、私には判断できない。最終的には誰かが判断する。そこから先は私の物語ではなくなってしまう。
だけど、今日の私は少なくとも「明日終わるとしても良い人生だ」と私が思う為に何かをすることがきっとできる。
そんなことを、思ってる。それを少しでも、形として悪あがきしたいという、たぶん、それが辿り着きたい場所なんて見えないままに歩く私の最後の意地なのだ。そして、人間は忘れてしまうので、忘れた時用に、こうして言葉にしておこうと思う。
もしその文を、まるで私が大好きなたくさんの物語のように「ああそうだった」と思い出すきっかけの一つにできたなら、それはたぶん、めちゃくちゃ幸せだろうな。